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日本の産業革命(1)
「産業革命」について、従来の経済理論は、18世紀の後半にイギリスで起こったビッグ・イベントであるとされた。ところが最近は「産業が変容する度合いがその他の時期と比べてさほど大きかったわけではない」との意見も提起されているらしい。
ただし日本の産業革命は、明治期の「文明開化」の掛け声とともに、まことに大きな経済的・社会的な変革をもたらした。物品を加工する工程に欧米諸国から、近代科学技術に基づく機械制生産方式が導入され、効率化されて大規模な経済価値の産出方式が生まれた。
これにより近世社会を支えた農業に代わって「工業」が経済活動の中核となる「資本主義体制社会」が現出する。これが日本では1880年代の後半に始まり、その後の20年ほどの間に遂行された。
ここでは、日本の産業革命において象徴的に継起した経済事象をたどる。
幕末から明治期にかけて、日本が対外交易の門戸を開いたとき、主たる輸出品となったのは生糸・産卵紙・茶であった。これら3品目が1868年(明治元)における輸出総額の89.6%を占めた。とくに産卵紙は、フランスとドイツで微粒子病が発生したことで輸出が激増し、1品目で輸出総額の59.4%を占めた。3品目に続いて、蝋(ろう)・番茶・玉糸・葉昆布・薬種諸品・鯣(するめ)・椎茸などが輸出された。82年(明治15)においても、生糸・産卵紙・茶の3品目が、輸出総額の70.9%を占めた。
この状況に鑑み、政府は藩営前橋製糸場(70年)や官営富岡製糸場(72年)などを開設し、製糸工程の機械化をめざして、座繰り製糸からの脱却を図る。小規模事業者が集中する長野・山梨・岐阜などでは、1870年代後半からヨーロッパ式の器械製糸技術が導入され、これに独自の考案が加わって、1894年には器械製糸の生産高が座繰り製糸のそれを超えたとされる。ただし製糸業は特定地域の養蚕業を基礎とするから、同様の革新が列島において広汎に広がることがない。
いっぽう日本の輸入品では、綿糸・綿布の木綿類やラシャ・毛布の毛製品などが大きなウエイトを占めた。1868年(明治元)の輸入総額において、繊維品が59.3%で、砂糖類(赤砂糖・白砂糖など)の8.6%が続いた。82年(明治15)の輸入構成比でも、木綿類38%・毛製品9.7%・砂糖類15.4%となり、3品目合計で輸入総額の63.1%を占めた。
江戸時代における日本の綿糸生産は、国産の棉花を原料とする家内工業で、手紡績や水車を動力に用いる「ガラ紡」であった。そこへイギリスで機械生産された安価で良質な綿糸が輸入され、日本の棉作農家は苦境に陥る。日本で広く栽培されていた“太くて短い”棉花は、機械織りには適しないことが分かる。
政府は綿紡績の機械化を企図し、1878年(明治11)にイギリスから2000錘の新鋭紡績機械2基を輸入し、愛知と広島に官営紡績所を設けた。翌年にはさらにイギリスへ新鋭設備10基を発注し、奈良・山梨・栃木・静岡(2工場)・三重・岡山(2工場)・長崎の民間9工場に払い下げた。しかし規模が小さいこともあって、採算が取れない。
渋沢栄一の指導により、1882年(明治15)に資本金25万円で「大阪紡績」が設立される。当初はイギリス式のミュール精紡機を備えたが、70年代にアメリカで実用化されたリング精紡機の方が適合的なことが判明した。80年代後半に、15,000錘の設備を整え、外国産の棉花を採用し、昼夜二交代の連続操業を行うことで、経営が軌道に乗る。
この成功を受けて、86年に「三重紡績」、87年に「天満紡績」「鐘淵紡績」が、各界からの資本を得て設立される。91年の大阪府下には、平野・摂津・浪花・天満・桑原・泉州・堂島に工場があり、翌年には「岸和田紡績」が設立され、近代的大型機械を擁する綿紡績工場の建設が全国的なブームとなる。90年代後半の瀬戸内8県には、紡績工場47(全国シェア63.5%)/設備66万錘(全国シェア68.5%)があった。
これら近代的設備に、欧米諸国に比して安価な労働力が結びついて、綿糸が日本の主力輸出品となる。日本では、1890年(明治33)に綿糸の生産量が輸入量を超えて国産化を達成し、97年に輸出量が輸入量を超えたことで国際競争力を獲得した、とされる。
かたがた1881年(明治14)に松方正義が蔵相に就任し、西南戦争の折に政府が増発した不換紙幣の整理を強力に行い、日本銀行が発行する兌換紙幣に代替した。この過程が経済に緊縮効果をもたらす(松方デフレ)が、86年には終息して経済が活況に向かい「第1次企業勃興期」(1886~89)が訪れる。
新たな生産と経営方式が、機械化が可能な他の産業にも波及し、近代的工場の開設が続く。その周辺には新しい働き場所を求めて、各地から若年女子を含めた働き手が集まる。ここに産業に投資をして利益を得ようとする資産家が生まれ、いっぽう工場で働いて賃金を得ようとする労働者層が形成される。経済活動において「資本と賃労働」という機能的に相対する立場に立つ人びとが並存し、これが社会に広がることにより「資本主義社会」が誕生する。
このように産業革命を把握するにおいて、綿紡績業で資本主義的生産体制が成立した事実を重視する立場を「綿業中心説」という。当然ながら、新たな生産方式がさまざまの産業に波及する過程では、これに適合するように、会社法規や金融システムなど、社会諸制度の変革が行われる。
このとき資本を投下する側に参画したのは、対外交易の伸長に携わって利益を蓄えた実業家、前代からの江戸・大坂などの商人や各地の大小地主、さらには近世の年貢徴収権をもとに金禄公債を得た華族などであった。したがって日本の産業革命は、それ以前の近世社会と無縁に出現したわけではない。当然ながら、前代までの資本蓄積・技術・経営力などを基盤として、遂行された。
ただし日本の産業革命は、明治期の「文明開化」の掛け声とともに、まことに大きな経済的・社会的な変革をもたらした。物品を加工する工程に欧米諸国から、近代科学技術に基づく機械制生産方式が導入され、効率化されて大規模な経済価値の産出方式が生まれた。
これにより近世社会を支えた農業に代わって「工業」が経済活動の中核となる「資本主義体制社会」が現出する。これが日本では1880年代の後半に始まり、その後の20年ほどの間に遂行された。
ここでは、日本の産業革命において象徴的に継起した経済事象をたどる。
幕末から明治期にかけて、日本が対外交易の門戸を開いたとき、主たる輸出品となったのは生糸・産卵紙・茶であった。これら3品目が1868年(明治元)における輸出総額の89.6%を占めた。とくに産卵紙は、フランスとドイツで微粒子病が発生したことで輸出が激増し、1品目で輸出総額の59.4%を占めた。3品目に続いて、蝋(ろう)・番茶・玉糸・葉昆布・薬種諸品・鯣(するめ)・椎茸などが輸出された。82年(明治15)においても、生糸・産卵紙・茶の3品目が、輸出総額の70.9%を占めた。
この状況に鑑み、政府は藩営前橋製糸場(70年)や官営富岡製糸場(72年)などを開設し、製糸工程の機械化をめざして、座繰り製糸からの脱却を図る。小規模事業者が集中する長野・山梨・岐阜などでは、1870年代後半からヨーロッパ式の器械製糸技術が導入され、これに独自の考案が加わって、1894年には器械製糸の生産高が座繰り製糸のそれを超えたとされる。ただし製糸業は特定地域の養蚕業を基礎とするから、同様の革新が列島において広汎に広がることがない。
いっぽう日本の輸入品では、綿糸・綿布の木綿類やラシャ・毛布の毛製品などが大きなウエイトを占めた。1868年(明治元)の輸入総額において、繊維品が59.3%で、砂糖類(赤砂糖・白砂糖など)の8.6%が続いた。82年(明治15)の輸入構成比でも、木綿類38%・毛製品9.7%・砂糖類15.4%となり、3品目合計で輸入総額の63.1%を占めた。
江戸時代における日本の綿糸生産は、国産の棉花を原料とする家内工業で、手紡績や水車を動力に用いる「ガラ紡」であった。そこへイギリスで機械生産された安価で良質な綿糸が輸入され、日本の棉作農家は苦境に陥る。日本で広く栽培されていた“太くて短い”棉花は、機械織りには適しないことが分かる。
政府は綿紡績の機械化を企図し、1878年(明治11)にイギリスから2000錘の新鋭紡績機械2基を輸入し、愛知と広島に官営紡績所を設けた。翌年にはさらにイギリスへ新鋭設備10基を発注し、奈良・山梨・栃木・静岡(2工場)・三重・岡山(2工場)・長崎の民間9工場に払い下げた。しかし規模が小さいこともあって、採算が取れない。
渋沢栄一の指導により、1882年(明治15)に資本金25万円で「大阪紡績」が設立される。当初はイギリス式のミュール精紡機を備えたが、70年代にアメリカで実用化されたリング精紡機の方が適合的なことが判明した。80年代後半に、15,000錘の設備を整え、外国産の棉花を採用し、昼夜二交代の連続操業を行うことで、経営が軌道に乗る。
この成功を受けて、86年に「三重紡績」、87年に「天満紡績」「鐘淵紡績」が、各界からの資本を得て設立される。91年の大阪府下には、平野・摂津・浪花・天満・桑原・泉州・堂島に工場があり、翌年には「岸和田紡績」が設立され、近代的大型機械を擁する綿紡績工場の建設が全国的なブームとなる。90年代後半の瀬戸内8県には、紡績工場47(全国シェア63.5%)/設備66万錘(全国シェア68.5%)があった。
これら近代的設備に、欧米諸国に比して安価な労働力が結びついて、綿糸が日本の主力輸出品となる。日本では、1890年(明治33)に綿糸の生産量が輸入量を超えて国産化を達成し、97年に輸出量が輸入量を超えたことで国際競争力を獲得した、とされる。
かたがた1881年(明治14)に松方正義が蔵相に就任し、西南戦争の折に政府が増発した不換紙幣の整理を強力に行い、日本銀行が発行する兌換紙幣に代替した。この過程が経済に緊縮効果をもたらす(松方デフレ)が、86年には終息して経済が活況に向かい「第1次企業勃興期」(1886~89)が訪れる。
新たな生産と経営方式が、機械化が可能な他の産業にも波及し、近代的工場の開設が続く。その周辺には新しい働き場所を求めて、各地から若年女子を含めた働き手が集まる。ここに産業に投資をして利益を得ようとする資産家が生まれ、いっぽう工場で働いて賃金を得ようとする労働者層が形成される。経済活動において「資本と賃労働」という機能的に相対する立場に立つ人びとが並存し、これが社会に広がることにより「資本主義社会」が誕生する。
このように産業革命を把握するにおいて、綿紡績業で資本主義的生産体制が成立した事実を重視する立場を「綿業中心説」という。当然ながら、新たな生産方式がさまざまの産業に波及する過程では、これに適合するように、会社法規や金融システムなど、社会諸制度の変革が行われる。
このとき資本を投下する側に参画したのは、対外交易の伸長に携わって利益を蓄えた実業家、前代からの江戸・大坂などの商人や各地の大小地主、さらには近世の年貢徴収権をもとに金禄公債を得た華族などであった。したがって日本の産業革命は、それ以前の近世社会と無縁に出現したわけではない。当然ながら、前代までの資本蓄積・技術・経営力などを基盤として、遂行された。
明治初頭の四国経済
今回から四国の産業経済について、明治時代から第2次世界大戦前までの間に、日本経済のなかで、どういう歩みをしてきたかを辿る。
これ以前、日本の近世を支配した江戸幕府は、かなりの程度に「地域主権」を許した政権であった。諸藩に参勤交代や手伝い普請などの収奪的行為を命じ、地方政権力が力を蓄えるのを防いだ。ただし幕政当初はともかく、藩が大きな問題を起こさない限り、藩政に干渉しない。
しかしながら商品経済の進展にともない、主としてコメの年貢に頼る諸藩の財政は、しだいに立ち行かなくなる。そこで藩ごとに重商政策に知恵を絞り、地域特性や資源状況に応じて、商品開発や産業振興に努める。これに関するマニュアル本も出回ったという。
これら重商政策の到達点がどうであったかは、明治期につくられた『明治七年 府県物産表』により、窺い知ることができる。当該物産表は、明治7年(1874)時点において、北海道・沖縄を除く三府六十縣の物産の生産高を、適宜の項目にまとめつつ表章する。このなかから主要項目について、四国の状況を一覧すれば、次表のとおり。(以下、この章において「産額」とは特記しない限り「年間の生産額」をいう)

物産表には北海道・沖縄が調査対象に含まれておらず、また3府60縣のなかでも(調査が行き届かなかったものか)特定の項目について無記入の場合がある。しかし全国に占める四国の比重を知るには、全国の合計値を得る必要がある。そこで項目ごとに各府県の値を合計して、便宜的にこれを全国値として、そのなかで四国の値が占めるウエイト(比率)を計算し「全国比」とした。
その前提で考えて、四国の産業経済が全国において占める比重は、おおよそ7~8%と推定される。当時、四国人口の全国比も7%前後であったから、近世における四国諸藩は、他地域並みに、重商政策の実を上げていたといえよう。
寒冷の地に比べて四国の気候は温暖だから、麦・米や棉作に関連する産物では、全国比が大きい。西日本で最高峰の山々を擁し、森林資源が豊富であるから、紙・薪・蝋(ろう)などの林産関連の全国比も大きい。四囲が海に囲まれていて、魚類の全国比も大きい。染料の全国比が大きいのは、阿波藍によるであろう。
この資料に続いて『日本帝国統計摘要』(内閣統計局編)が、明治10年代における全国各地の経済指標を明らかにする。主要部分を抜き出して一覧し、同じように四国の全国比を計算すると、次表のとおり。

人口や税収などの面で見ても、四国の全国比は6~7%である。明治9年に名東県が廃止されたとき淡路島が四国から分離されたから、この影響を考えると二つの表の間に矛盾はない。
四国の全国比が大きい産物のひとつに、製塩がある。瀬戸内地域が温暖で雨が少なく、遠浅の海岸があるという気象的・地理的条件によって適地となった。また棉作が温暖の地に適することから、綿織物の全国比は引き続き大きい。いっぽう明治時代を通じて日本の主力輸出品であり続けた生糸については、養蚕業が冷涼な気候に適合することで、四国の全国比が小さい。
これらを基底的状況として、その後の四国の産業経済がどのような推移を辿ったかが関心の的である。ただしこのことはひとまず置いて、日本全体に目を向け、国として産業革命にどう取り組んだかを次項以下で検討する。
これ以前、日本の近世を支配した江戸幕府は、かなりの程度に「地域主権」を許した政権であった。諸藩に参勤交代や手伝い普請などの収奪的行為を命じ、地方政権力が力を蓄えるのを防いだ。ただし幕政当初はともかく、藩が大きな問題を起こさない限り、藩政に干渉しない。
しかしながら商品経済の進展にともない、主としてコメの年貢に頼る諸藩の財政は、しだいに立ち行かなくなる。そこで藩ごとに重商政策に知恵を絞り、地域特性や資源状況に応じて、商品開発や産業振興に努める。これに関するマニュアル本も出回ったという。
これら重商政策の到達点がどうであったかは、明治期につくられた『明治七年 府県物産表』により、窺い知ることができる。当該物産表は、明治7年(1874)時点において、北海道・沖縄を除く三府六十縣の物産の生産高を、適宜の項目にまとめつつ表章する。このなかから主要項目について、四国の状況を一覧すれば、次表のとおり。(以下、この章において「産額」とは特記しない限り「年間の生産額」をいう)

物産表には北海道・沖縄が調査対象に含まれておらず、また3府60縣のなかでも(調査が行き届かなかったものか)特定の項目について無記入の場合がある。しかし全国に占める四国の比重を知るには、全国の合計値を得る必要がある。そこで項目ごとに各府県の値を合計して、便宜的にこれを全国値として、そのなかで四国の値が占めるウエイト(比率)を計算し「全国比」とした。
その前提で考えて、四国の産業経済が全国において占める比重は、おおよそ7~8%と推定される。当時、四国人口の全国比も7%前後であったから、近世における四国諸藩は、他地域並みに、重商政策の実を上げていたといえよう。
寒冷の地に比べて四国の気候は温暖だから、麦・米や棉作に関連する産物では、全国比が大きい。西日本で最高峰の山々を擁し、森林資源が豊富であるから、紙・薪・蝋(ろう)などの林産関連の全国比も大きい。四囲が海に囲まれていて、魚類の全国比も大きい。染料の全国比が大きいのは、阿波藍によるであろう。
この資料に続いて『日本帝国統計摘要』(内閣統計局編)が、明治10年代における全国各地の経済指標を明らかにする。主要部分を抜き出して一覧し、同じように四国の全国比を計算すると、次表のとおり。

人口や税収などの面で見ても、四国の全国比は6~7%である。明治9年に名東県が廃止されたとき淡路島が四国から分離されたから、この影響を考えると二つの表の間に矛盾はない。
四国の全国比が大きい産物のひとつに、製塩がある。瀬戸内地域が温暖で雨が少なく、遠浅の海岸があるという気象的・地理的条件によって適地となった。また棉作が温暖の地に適することから、綿織物の全国比は引き続き大きい。いっぽう明治時代を通じて日本の主力輸出品であり続けた生糸については、養蚕業が冷涼な気候に適合することで、四国の全国比が小さい。
これらを基底的状況として、その後の四国の産業経済がどのような推移を辿ったかが関心の的である。ただしこのことはひとまず置いて、日本全体に目を向け、国として産業革命にどう取り組んだかを次項以下で検討する。
市区町村制の変遷
現在、府県の下部行政組織となっている「市・町・村」の誕生も、維新政府の模索の結果であった。
江戸時代には藩の年貢や諸役に関し「村」の共同責任で請け負せることが一般的であり、これを「村請制」といった。このため何かにつけて農民らの村への帰属意識が強く、中央政権の意向が行き届かないと感じて、維新政府はこれを変革し上意下達の円滑な仕組みを整えようとした。
しかしこの試みは容易には成就せず、結局、近世に通称された町と村を基盤とし、それらの統合・合併を進めることによって、基礎自治体を形成するに至った。その経緯は、次のとおり。
明治4(1871)年4月、これまでの宗門改帳に替わり、戸籍を作ることとし「戸籍法」を制定する。府県や郡の下に、500戸ほどの住民をひとつの編成単位(区)として、戸籍作成の担当者である「戸長・副戸長」を置く。
5年4月、江戸期の年寄や庄屋を廃し、戸長・副戸長に一般的な地域行政をも担わせることとしたので「区」が一個の行政単位となる。ところが市街地などでは、ひとつの郡のもとに生まれる区の数が大きな数となり、締りがつかない。
10月、そこでいくつかの区をまとめて「大区」とし(5000戸程度を目途とした)、その下に「小区」を置くとして「大区小区制」とした。大区に「区長」を置き、小区に「戸長」を置くとしたが、「単一区制」をそのまま残した県もあった。
これらの制度改正について、村落共同体に馴染んできた農民らにとって、連帯意識のない近隣の村とは馴染みにくい。近世以来、町や村と呼び慣らわした地域ごとに行政の役割を担ったり、広域化の要請に応じて「村」の合併を進めたりした。区や戸長などの導入も一律には進まず、多様性が残る。区長・戸長は官選であったが、民選の場合もあった。
明治11(1878)年3月、各地で自由民権運動が盛り上がるなか、大久保利通が主導する内務省は、画一的地方制度を全国に及ぼす必要があるとして「地方之体制等改正之義」を上申し、7月に「地方新三法」を公布した。概要は次のとおり。
「郡区町村編制法」により、府県のもとに郡区町村を置く。「郡」ごとに郡役所を設けて郡長を置き、「区」には区長を置く。「町・村」は、かつての区域や名称に依るものとし、戸長を置く。
「府県会規則」により、府県に「府県会」を設ける。府県会議員を選ぶ選挙は、郡と区を選挙区とし、1郡区5名以下を定員の記名選挙とする。選挙権者は20歳以上の男子で地租を5圓以上納めた者、被選挙権者は25歳以上の男子で地租を10圓以上納めた者とする。(「郡会」は設けない)
「地方税規則」により、府県会に限って地方税の徴収権を認め、警察・土木・流行病予防(衛生)・府県立学校・郡区庁舎などの費用や吏員の給与に充てる。
この制度改正により大区小区制が廃され、律令制下の郡と近世以来の町・村が行政区画として復活した。ただしこれまでの「区」が名前を変えて残ったり、複数の町村が連合して「連合区長制」を採用したりして、行政組織の多様制は残る。
明治14年(1881)、大蔵卿に就任した松方正義が西南戦争で増発された不換紙幣の回収を進めたことで、日本経済は不況に陥る(松方デフレ)。これが地域の徴税や兵事などの行政事務を混乱させたので、およそ500戸ごとに置いた「戸長」の機能を強化し、行政の担い手として自立させることの重要性が認識される。
17年5月、町村制に関する改正を行い、およそ500戸を単位として戸長役場を設け、戸長を官選とする「連合戸長役場制」を導入した。このとき、近世以来の村落共同体を基盤とする町・村は、行政区画とはしない、とした。
その後、ドイツ人顧問モッセの助言を得ながら、内務大臣・山県有朋が主導し、明治20年(1887)に「地方制度編纂綱領」を打ち出す。これに沿って、21年4月に市制・町村制が、22年に府県制・郡制が公布され、今日に繋がる地方自治制が樹立される。
「市制」により、市街地であって郡に属さないものを「市」とし「市会」を設ける。市会議員は住民の公選とし、選挙権者・被選挙権者はともに25歳以上の男性で、当該地域に2年以上居住し、地租または所得税を年間2圓以上納めた者とした。「市長」は市会が3名の候補者を推薦し、そのなかから内務大臣が決する。
「町村制」により、町村に「町村会」を設け、町村会議員を住民の公選とする(選挙権・被選挙権者は市の場合と同じ)。「町村長」は町村会議員が30歳以上の公民から選び、府県知事の認可を経る。 (「郡制」に関する記述は省略)
この制度のもと、市はおよそ人口2.5万人以上の規模を想定して、明治22年2月に市制施行地として(四国の高松・松山・徳島・高知を含み)全国で36カ所を指定する。さらに年内に4カ所を追加し、40か所が指定地となる。
これによって、22年中に39市が生まれるが、高松市のみは誕生が23年2月にずれ込んだことで、40番目の市となる。21年12月に香川県が愛媛県から分離独立したばかりで、種々の事務作業が輻輳し、22年中に対応できなかったためとされる。
市街地以外については、21年6月に内務大臣訓令を発し、300~500戸を基準として行政単位の統合を推進した。行政機能を強化して、初等教育への対応に充実を期するとともに、戸籍・徴税・兵事など国政の委任事務を円滑に担える体制の確立をめざした。
ここに全国の市町村の数が、21年には71,314であったものが、22年に15,859となり、1/ 5に激減した。
その後、大正12年(1923)に郡会が無くなり、続いて郡長・郡役所も廃止される。[府県―市―町村]と連なる三層構造の地方自治体制が構築され、当初の役割分担はおおよそ次のようなものとされた。
鉄道・電信電話・航路などの整備は、国費で行う。
治水・道路・橋梁・港湾の潮除け・中等教育・師範教育など社会資本の整備は、主として府県行政が担う。
初等教育・戸籍・徴税・衛生・災害予防などは、市町村行政が担う。
江戸時代には藩の年貢や諸役に関し「村」の共同責任で請け負せることが一般的であり、これを「村請制」といった。このため何かにつけて農民らの村への帰属意識が強く、中央政権の意向が行き届かないと感じて、維新政府はこれを変革し上意下達の円滑な仕組みを整えようとした。
しかしこの試みは容易には成就せず、結局、近世に通称された町と村を基盤とし、それらの統合・合併を進めることによって、基礎自治体を形成するに至った。その経緯は、次のとおり。
明治4(1871)年4月、これまでの宗門改帳に替わり、戸籍を作ることとし「戸籍法」を制定する。府県や郡の下に、500戸ほどの住民をひとつの編成単位(区)として、戸籍作成の担当者である「戸長・副戸長」を置く。
5年4月、江戸期の年寄や庄屋を廃し、戸長・副戸長に一般的な地域行政をも担わせることとしたので「区」が一個の行政単位となる。ところが市街地などでは、ひとつの郡のもとに生まれる区の数が大きな数となり、締りがつかない。
10月、そこでいくつかの区をまとめて「大区」とし(5000戸程度を目途とした)、その下に「小区」を置くとして「大区小区制」とした。大区に「区長」を置き、小区に「戸長」を置くとしたが、「単一区制」をそのまま残した県もあった。
これらの制度改正について、村落共同体に馴染んできた農民らにとって、連帯意識のない近隣の村とは馴染みにくい。近世以来、町や村と呼び慣らわした地域ごとに行政の役割を担ったり、広域化の要請に応じて「村」の合併を進めたりした。区や戸長などの導入も一律には進まず、多様性が残る。区長・戸長は官選であったが、民選の場合もあった。
明治11(1878)年3月、各地で自由民権運動が盛り上がるなか、大久保利通が主導する内務省は、画一的地方制度を全国に及ぼす必要があるとして「地方之体制等改正之義」を上申し、7月に「地方新三法」を公布した。概要は次のとおり。
「郡区町村編制法」により、府県のもとに郡区町村を置く。「郡」ごとに郡役所を設けて郡長を置き、「区」には区長を置く。「町・村」は、かつての区域や名称に依るものとし、戸長を置く。
「府県会規則」により、府県に「府県会」を設ける。府県会議員を選ぶ選挙は、郡と区を選挙区とし、1郡区5名以下を定員の記名選挙とする。選挙権者は20歳以上の男子で地租を5圓以上納めた者、被選挙権者は25歳以上の男子で地租を10圓以上納めた者とする。(「郡会」は設けない)
「地方税規則」により、府県会に限って地方税の徴収権を認め、警察・土木・流行病予防(衛生)・府県立学校・郡区庁舎などの費用や吏員の給与に充てる。
この制度改正により大区小区制が廃され、律令制下の郡と近世以来の町・村が行政区画として復活した。ただしこれまでの「区」が名前を変えて残ったり、複数の町村が連合して「連合区長制」を採用したりして、行政組織の多様制は残る。
明治14年(1881)、大蔵卿に就任した松方正義が西南戦争で増発された不換紙幣の回収を進めたことで、日本経済は不況に陥る(松方デフレ)。これが地域の徴税や兵事などの行政事務を混乱させたので、およそ500戸ごとに置いた「戸長」の機能を強化し、行政の担い手として自立させることの重要性が認識される。
17年5月、町村制に関する改正を行い、およそ500戸を単位として戸長役場を設け、戸長を官選とする「連合戸長役場制」を導入した。このとき、近世以来の村落共同体を基盤とする町・村は、行政区画とはしない、とした。
その後、ドイツ人顧問モッセの助言を得ながら、内務大臣・山県有朋が主導し、明治20年(1887)に「地方制度編纂綱領」を打ち出す。これに沿って、21年4月に市制・町村制が、22年に府県制・郡制が公布され、今日に繋がる地方自治制が樹立される。
「市制」により、市街地であって郡に属さないものを「市」とし「市会」を設ける。市会議員は住民の公選とし、選挙権者・被選挙権者はともに25歳以上の男性で、当該地域に2年以上居住し、地租または所得税を年間2圓以上納めた者とした。「市長」は市会が3名の候補者を推薦し、そのなかから内務大臣が決する。
「町村制」により、町村に「町村会」を設け、町村会議員を住民の公選とする(選挙権・被選挙権者は市の場合と同じ)。「町村長」は町村会議員が30歳以上の公民から選び、府県知事の認可を経る。 (「郡制」に関する記述は省略)
この制度のもと、市はおよそ人口2.5万人以上の規模を想定して、明治22年2月に市制施行地として(四国の高松・松山・徳島・高知を含み)全国で36カ所を指定する。さらに年内に4カ所を追加し、40か所が指定地となる。
これによって、22年中に39市が生まれるが、高松市のみは誕生が23年2月にずれ込んだことで、40番目の市となる。21年12月に香川県が愛媛県から分離独立したばかりで、種々の事務作業が輻輳し、22年中に対応できなかったためとされる。
市街地以外については、21年6月に内務大臣訓令を発し、300~500戸を基準として行政単位の統合を推進した。行政機能を強化して、初等教育への対応に充実を期するとともに、戸籍・徴税・兵事など国政の委任事務を円滑に担える体制の確立をめざした。
ここに全国の市町村の数が、21年には71,314であったものが、22年に15,859となり、1/ 5に激減した。
その後、大正12年(1923)に郡会が無くなり、続いて郡長・郡役所も廃止される。[府県―市―町村]と連なる三層構造の地方自治体制が構築され、当初の役割分担はおおよそ次のようなものとされた。
鉄道・電信電話・航路などの整備は、国費で行う。
治水・道路・橋梁・港湾の潮除け・中等教育・師範教育など社会資本の整備は、主として府県行政が担う。
初等教育・戸籍・徴税・衛生・災害予防などは、市町村行政が担う。
府県大廃合 & 復活
全国の府県体制について、明治4年11月に統廃合があったが、それで定まったわけではなかった。政府は威令が行き届かないのを「難治県」と称し、原因は旧・藩士の人らが県庁を押さえているためとし、対応策を考えたようである。
大久保利通が率いる内務省は、明治9年の4月と8月に2度にわたり「府県大廃合」を実施して、狭小な県を隣の県に併合させる。この結果、全国が(北海道と琉球を除いて)3府35県に統合される。
この措置は西日本について行われ、富山・奈良・鳥取・香川・佐賀・宮崎の7県が近隣の県に併合され、県名を失う。さらに敦賀県(現・福井県)が分割され石川県と滋賀県へ併合され、名東県も分割され淡路国部分が兵庫県へ、阿波国部分が高知県へ移管される。
県名を失った事情について、四国関係の2県については、次のように語られた。
名東県が分割された理由として、巷間、次のように噂された。県内に自由民権派の政治結社の「自助社」があり、約2000人の社員を擁して、立憲政体の確立と国会開設を叫び官憲に激しく抵抗した。この鋭鋒をそらすため、県を無くしたといい、事実、名東県が廃されたことにより自助社は攻撃先を失う。幹部が逮捕されたこともあって、11年9月に解散した。
香川県が廃止された経緯について『香川県史』は次のように書く。戸長(町村長)の選出をめぐり、県議会で激しい対立となり、県人出身の官吏らは「公選制」を主張するが、中央から派遣された県令は従来通りの「任命制」を唱える。主張が通らないとみた県人の官吏らが、一斉に辞職する挙に出たところ、それほどに希望するならという趣旨であろうか、公選制を一部採用する愛媛県令のもとへ香川県を併合させた。
県名を無くした諸県では、地理的特性などに基づく反発感情が高まり、政治運動を活発化させる。分県運動を起こしたり、分離独立を請願したりすることで、次々に独立を果たした。動きは個別的だが、いずれも明治時代の前半までに完了し、ほぼ現在の府県の姿となる。(以下に述べるほか、隣り合う府県間で部分的な統合や分離があり、また境界の変更もあったが、それらの記述は割愛する)
徳島県:当時、府県会議員の被選挙権は国税10圓以上を納めた者とされたが、阿波を編入した高知県会の県会議員数は、阿波の31名に対し、土佐が27名であった。阿波の選出者の方が多いことから、12年10月の高知県会において、阿波選出の議員らが「阿波国分離」を提案した。これが中央政府を動かし、太政大臣三条実美が「13年3月をもって高知県から分離独立し、県名は徳島県になる」と発表した。ただしこの折に、淡路島の部分は徳島県域に含まれないままとなった。
福井県:4年11月、敦賀県が若狭国に越前国の南半分を加えて立県され、6年1月にほぼ現在の福井県の範囲となった。ところが9年8月に2分割され、それぞれ石川県と滋賀県に編入される。地租反対運動が続くなか、石川県令と越前出身の県会議員が激しくぶつかったことにより、石川県令が「旧・越前国の地は難治」と中央政府に提言した。これが契機となり、14年2月に[嶺北部分が石川県から/嶺南部分が滋賀県から]それそれ分離して統合される。県名が福井県と替わって、成立した。
鳥取県; 9年8月、東隣の島根県に併合された。これに対し、旧・鳥取藩士の足立長郷らが設立した「共斃社」は、米穀管理運動を実施するにおいて、鳥取県再置を前面に押し出して主張した。これが山県有朋を動かし、14年9月に島根県から分離独立した。
富山県; 4年11月、現在の富山県部分は石川県の一部を編入し、新川(にいかわ)県となる。9年4月に、新川県は石川県に編入され消滅する。ただし倶利伽羅峠を境とする越中と加賀の文化の違いは大きく、安田財閥を生んだ越中の高い産業力を背景に、自由民権運動家の米沢紋三郎などが繰り返し分県を請願した。16年5月、石川県から旧・越中国の範囲が分離されて、富山県となる。
佐賀県; いまの佐賀県部分は、9年4月に三潴(みずま)県に編入され、8月にはそのまま長崎県に吸収される。憂国の政治結社といわれる「開進会」などが根強い復県運動を続け、これが県民の共感を呼んで、16年5月に長崎県から分離独立した。
宮崎県;6年1月、美々津県と都城県の東半分が合併され、おおむね旧・日向国の範囲で宮崎県が成立する。ところが9年8月に鹿児島県に統合され、10年の西南戦争を経たのちの16年5月に再置される。県会議員の川越 進は、再設置運動に力を尽くしたことで「宮崎県の父」と称される。(以上、富山・佐賀・宮崎の3県の再置は、同時に実現した)
奈良県;いまの奈良県部分は9年4月に堺県に合併され、さらに14年2月に堺県は廃され、大阪府の一部となる。大和郡山藩の士族らが設立した「第六十八銀行」の活動などによって地元の経済力が浮上したのを背景として、府会議員の恒岡直史らが再置県運動に尽力し、20年11月に大阪府から分離独立した。
香川県; 8年9月に香川県が再置されて1年も経ないのに、9年8月に愛媛県に編入される。これに対し地理的に遠くて不便である、地方税負担が不均衡であるなどの県民の不満は大きく、15年と18年に分県運動が盛り上がる。愛媛県会議長であった中野武英らが大隈重信や山県有朋に働きかけ、21年12月に愛媛県から分離し、香川県が再々置された。
大久保利通が率いる内務省は、明治9年の4月と8月に2度にわたり「府県大廃合」を実施して、狭小な県を隣の県に併合させる。この結果、全国が(北海道と琉球を除いて)3府35県に統合される。
この措置は西日本について行われ、富山・奈良・鳥取・香川・佐賀・宮崎の7県が近隣の県に併合され、県名を失う。さらに敦賀県(現・福井県)が分割され石川県と滋賀県へ併合され、名東県も分割され淡路国部分が兵庫県へ、阿波国部分が高知県へ移管される。
県名を失った事情について、四国関係の2県については、次のように語られた。
名東県が分割された理由として、巷間、次のように噂された。県内に自由民権派の政治結社の「自助社」があり、約2000人の社員を擁して、立憲政体の確立と国会開設を叫び官憲に激しく抵抗した。この鋭鋒をそらすため、県を無くしたといい、事実、名東県が廃されたことにより自助社は攻撃先を失う。幹部が逮捕されたこともあって、11年9月に解散した。
香川県が廃止された経緯について『香川県史』は次のように書く。戸長(町村長)の選出をめぐり、県議会で激しい対立となり、県人出身の官吏らは「公選制」を主張するが、中央から派遣された県令は従来通りの「任命制」を唱える。主張が通らないとみた県人の官吏らが、一斉に辞職する挙に出たところ、それほどに希望するならという趣旨であろうか、公選制を一部採用する愛媛県令のもとへ香川県を併合させた。
県名を無くした諸県では、地理的特性などに基づく反発感情が高まり、政治運動を活発化させる。分県運動を起こしたり、分離独立を請願したりすることで、次々に独立を果たした。動きは個別的だが、いずれも明治時代の前半までに完了し、ほぼ現在の府県の姿となる。(以下に述べるほか、隣り合う府県間で部分的な統合や分離があり、また境界の変更もあったが、それらの記述は割愛する)
徳島県:当時、府県会議員の被選挙権は国税10圓以上を納めた者とされたが、阿波を編入した高知県会の県会議員数は、阿波の31名に対し、土佐が27名であった。阿波の選出者の方が多いことから、12年10月の高知県会において、阿波選出の議員らが「阿波国分離」を提案した。これが中央政府を動かし、太政大臣三条実美が「13年3月をもって高知県から分離独立し、県名は徳島県になる」と発表した。ただしこの折に、淡路島の部分は徳島県域に含まれないままとなった。
福井県:4年11月、敦賀県が若狭国に越前国の南半分を加えて立県され、6年1月にほぼ現在の福井県の範囲となった。ところが9年8月に2分割され、それぞれ石川県と滋賀県に編入される。地租反対運動が続くなか、石川県令と越前出身の県会議員が激しくぶつかったことにより、石川県令が「旧・越前国の地は難治」と中央政府に提言した。これが契機となり、14年2月に[嶺北部分が石川県から/嶺南部分が滋賀県から]それそれ分離して統合される。県名が福井県と替わって、成立した。
鳥取県; 9年8月、東隣の島根県に併合された。これに対し、旧・鳥取藩士の足立長郷らが設立した「共斃社」は、米穀管理運動を実施するにおいて、鳥取県再置を前面に押し出して主張した。これが山県有朋を動かし、14年9月に島根県から分離独立した。
富山県; 4年11月、現在の富山県部分は石川県の一部を編入し、新川(にいかわ)県となる。9年4月に、新川県は石川県に編入され消滅する。ただし倶利伽羅峠を境とする越中と加賀の文化の違いは大きく、安田財閥を生んだ越中の高い産業力を背景に、自由民権運動家の米沢紋三郎などが繰り返し分県を請願した。16年5月、石川県から旧・越中国の範囲が分離されて、富山県となる。
佐賀県; いまの佐賀県部分は、9年4月に三潴(みずま)県に編入され、8月にはそのまま長崎県に吸収される。憂国の政治結社といわれる「開進会」などが根強い復県運動を続け、これが県民の共感を呼んで、16年5月に長崎県から分離独立した。
宮崎県;6年1月、美々津県と都城県の東半分が合併され、おおむね旧・日向国の範囲で宮崎県が成立する。ところが9年8月に鹿児島県に統合され、10年の西南戦争を経たのちの16年5月に再置される。県会議員の川越 進は、再設置運動に力を尽くしたことで「宮崎県の父」と称される。(以上、富山・佐賀・宮崎の3県の再置は、同時に実現した)
奈良県;いまの奈良県部分は9年4月に堺県に合併され、さらに14年2月に堺県は廃され、大阪府の一部となる。大和郡山藩の士族らが設立した「第六十八銀行」の活動などによって地元の経済力が浮上したのを背景として、府会議員の恒岡直史らが再置県運動に尽力し、20年11月に大阪府から分離独立した。
香川県; 8年9月に香川県が再置されて1年も経ないのに、9年8月に愛媛県に編入される。これに対し地理的に遠くて不便である、地方税負担が不均衡であるなどの県民の不満は大きく、15年と18年に分県運動が盛り上がる。愛媛県会議長であった中野武英らが大隈重信や山県有朋に働きかけ、21年12月に愛媛県から分離し、香川県が再々置された。
地租改正のその後
明治7年から9年にかけ、山形・群馬・茨城・三重・愛知・岐阜などの各地で「地租改正反対一揆」が起こる。押しつけ的な地租改正への反発をうたい、あるいは地租率の引き下げを求める運動で、処分者が全国で5万人を越えた。これに衝撃を受けた維新政府は、10年1月に地租率を3%から2.5%に引き下げる。
地租改正事業は14年11月をもって、全府県で完了する。一番遅くまでかかったのは、香川県域(当時は愛媛県に併合されていた)における林野に関する作業であったとされる。
地租改正により、江戸時代の年貢(幕末にはほとんど金納であった)と比較して、負担が増えたか減ったかが計算されている。四国について、その概略を示せば、次のとおり。
高知県は、全体で89万圓の減租になった。愛媛県は江戸期に年貢が重かった松山藩・宇和島藩の領域では20~30%の減租となったが、宇摩郡・新居郡はそれぞれ53.1%・31.9%の大幅な増租となり、県全体で14.2%の増租になった。徳島県では町村により区々だが、県全体で田畠については10%の減租で、山林・原野などを含めると8.5%の増租になった。香川県は、大野原地域の開墾が進んでいたので、水田について27%の増租であった。
ただしその後も、測量が不正確である、脱落地がある、共益地が課税対象となり税を払えない、入会地が官有地に編入され使えないなどを訴え、各地から修正要求が出る。そこで政府は17年3月に「地租条例」を公布し、地価に関する帳簿と図面の整備を行うことを名目に「地押し調査」(測量)を行い、実地の不整合を正す。
20年9月には、2府15県で特別地価修正が行われ、30万圓余の減租になった。22年8月にも、3府40県で地価が修正され、300万圓余の減租になった。
国家財政の歳入のなかで「地租がどの程度の割合を占めたか」について『明治前期財政経済史料集成』(大内兵衛など編)に、次のような記述がある。
国の歳入総額に占める割合は明治7年度81%/8年度78%で、このあたりの年度において、もっとも高い。10年度の地租率引き下げにより、10年度75%/11年度65%と、減少した。
その後、酒税・関税などの間接税が増徴され、諸産業からの営業税や所得税も増加する。地価の修正が行われたこともあり、明治20年度前後は40~50%であった。明治元年から18年度までの累計で計算すると、62%であった。
この間、土地所有について、制度変更が為される。明治13年に「土地売買譲渡規則」が制定され、土地の所有権移転は戸長役場の公証手続きで行い、地券の裏書は納税義務の移転を示すだけのものとなる。20年には「公証制度」「登記法」が実施に移され、地券は法的意味を失う。22年に、地券そのものが廃止される。
土地をめぐる税制環境は、その後も大きく変化する。明治31年(1898)に地租率が引き上げられ、2.5%から3.3%となる。さらに日露戦争が始まると、戦費調達のため「非常特別税」として、37年に地租率が4.3%、38年には5.5%へ増徴される。同時に、他の税源である営業税・所得税・酒造税・各種消費税についても、引き上げや新税導入が為される。37年に毛織物消費税と石油消費税が導入され、煙草の専売が始まる。38年には相続税・通行税・織物消費税が導入され、塩の専売が始まる。
こうした状況により『日本経済統計総観』によると、国税収入に占める地租の割合は、逓減する。明治33年に34.9%であったものが、38年に32%、43年に24%となる。
地租改正事業は14年11月をもって、全府県で完了する。一番遅くまでかかったのは、香川県域(当時は愛媛県に併合されていた)における林野に関する作業であったとされる。
地租改正により、江戸時代の年貢(幕末にはほとんど金納であった)と比較して、負担が増えたか減ったかが計算されている。四国について、その概略を示せば、次のとおり。
高知県は、全体で89万圓の減租になった。愛媛県は江戸期に年貢が重かった松山藩・宇和島藩の領域では20~30%の減租となったが、宇摩郡・新居郡はそれぞれ53.1%・31.9%の大幅な増租となり、県全体で14.2%の増租になった。徳島県では町村により区々だが、県全体で田畠については10%の減租で、山林・原野などを含めると8.5%の増租になった。香川県は、大野原地域の開墾が進んでいたので、水田について27%の増租であった。
ただしその後も、測量が不正確である、脱落地がある、共益地が課税対象となり税を払えない、入会地が官有地に編入され使えないなどを訴え、各地から修正要求が出る。そこで政府は17年3月に「地租条例」を公布し、地価に関する帳簿と図面の整備を行うことを名目に「地押し調査」(測量)を行い、実地の不整合を正す。
20年9月には、2府15県で特別地価修正が行われ、30万圓余の減租になった。22年8月にも、3府40県で地価が修正され、300万圓余の減租になった。
国家財政の歳入のなかで「地租がどの程度の割合を占めたか」について『明治前期財政経済史料集成』(大内兵衛など編)に、次のような記述がある。
国の歳入総額に占める割合は明治7年度81%/8年度78%で、このあたりの年度において、もっとも高い。10年度の地租率引き下げにより、10年度75%/11年度65%と、減少した。
その後、酒税・関税などの間接税が増徴され、諸産業からの営業税や所得税も増加する。地価の修正が行われたこともあり、明治20年度前後は40~50%であった。明治元年から18年度までの累計で計算すると、62%であった。
この間、土地所有について、制度変更が為される。明治13年に「土地売買譲渡規則」が制定され、土地の所有権移転は戸長役場の公証手続きで行い、地券の裏書は納税義務の移転を示すだけのものとなる。20年には「公証制度」「登記法」が実施に移され、地券は法的意味を失う。22年に、地券そのものが廃止される。
土地をめぐる税制環境は、その後も大きく変化する。明治31年(1898)に地租率が引き上げられ、2.5%から3.3%となる。さらに日露戦争が始まると、戦費調達のため「非常特別税」として、37年に地租率が4.3%、38年には5.5%へ増徴される。同時に、他の税源である営業税・所得税・酒造税・各種消費税についても、引き上げや新税導入が為される。37年に毛織物消費税と石油消費税が導入され、煙草の専売が始まる。38年には相続税・通行税・織物消費税が導入され、塩の専売が始まる。
こうした状況により『日本経済統計総観』によると、国税収入に占める地租の割合は、逓減する。明治33年に34.9%であったものが、38年に32%、43年に24%となる。
地租改正
地域に関し取り組むべき維新政府の課題のひとつに、年貢に代わって、土地からどういう税を徴取するかがあった。明治4年12月は廃藩置県から半年足らず後のことだが、東京府内の土地について武家地と町地の区別を無くし、そのうえですべての土地に地券を発行し、地価の1%に当たる金額の地租を取り立てるとした。
これを農地へも拡大しようとしたのであろう、4年9月に「田畠の勝手作」を許して土地利用の自由に踏み切り、5年2月に田畠の売買永代禁止令も廃して土地売買も自由にした。そのうえで地所の譲渡や売買の折に地券を交付するとしたが、地所によって地券の有無があるのは制度としておかしい。そこで5年7月に、全地所に地券を交付することとし、3カ月以内に実施するよう求めた。
農民にとり農地に税金がかかるのは嫌であるが、土地の私有権が法的に保障され、個人の財産になることは喜ばしい。ただし指示された現場では、実施の方法に不明なことが多く、地券発行の手続きが難航する。
江戸時代と同じように村方に丸投げして「村請け」とするのか、実際の土地が帳簿上の記載と異なるときは改めて測量(地押丈量)するのか、地主と小作人が並存する小作地の場合にどうするか、割地慣行(地味の良し悪しを均等にするため一定の期間ごとに農民同士が耕作地を交換する慣行)がある場合にどうするのか、など土地に関する権利関係が単純ではない。さらに「地価は人民の申告に依る」としたが、年々の豊凶により地価は変動するし、近接する田畠でも地味や水利条件により地価は異なるから、算定はむつかしい。
政府は、極力、簡略化して対応するよう指示するが、行政吏員も紙も不足する折から、事務負担が大きい。粛々と進める県もあるが、渋ったり取り止めたりする県も出て、地券調査を3か月後の5年10月までに完了することを求めた大蔵省の目論見は挫折した。
しかし政府としては、ともかくも税負担を公平かつ画一的なものとし、税収確保を図るのが急務である。6年7月に「地租改正法」を公布し、地券調査によって地価を定め、7年度から地価の3%を地租として賦課すると決定した。
同時に「地租改正条例」を制定し、地租への切り替えは県単位でなく郡や区ごとでもいい、年々の作柄による増・減税は実施しない、地租への切り替えが進まないところは従前の税法による、などと布告した。
さらに「施行規則」と「心得書」を定め、村請制は解除し、税法上の地所の所有者が責任をもって適実に申告するよう求める。また人民の申告した地価を「資本還元方式」によって算出する理論値[土地の年間総収益額から種もみ・肥料代・村入費などの諸経費(ただし労務費の控除は認めない)を差し引いた純利益額を、年利6%で除したもの]と照合するように指示した。
政府は4年5月に「新貨条例」を制定し、金本位制のもとで「圓」を通貨単位に統一した。5年8月に田畠の貢租は原則として金納とし、米納は例外的な場合に限る。6年6月には田畠を数量表示する際に「石高」の使用を禁じ「反別」とした。これにより「石高制」は完全に消滅した。
6年12月に、地租改正にともなう国の歳入額について旧貢租歳入額を維持する方針としたが、地価を“人民の申告”を原則としたので、歳入減収を避けられない。そこで7年11月には林野の民有地を拡大して有租地とし、8年8月に市街地の地租率1%を3%に引き上げ、8年10月に不適切な土地申告者には検見法(実際に検地する)を適用する、などの措置を講じた。
8年3月には内閣に「地租改正事務局」を設け、地価の算定に用いる米価は明治3~7年の5年間の平均とする。8年8月には、9年までに事務を完了するよう布達した。
ただし実際に地租改正事業に“着手した”府県の数について、明治5年1件(山口県),6年13件,7年23件,8年21件(徳島・愛媛を含む),9年8件(香川を含む)であった。
これを農地へも拡大しようとしたのであろう、4年9月に「田畠の勝手作」を許して土地利用の自由に踏み切り、5年2月に田畠の売買永代禁止令も廃して土地売買も自由にした。そのうえで地所の譲渡や売買の折に地券を交付するとしたが、地所によって地券の有無があるのは制度としておかしい。そこで5年7月に、全地所に地券を交付することとし、3カ月以内に実施するよう求めた。
農民にとり農地に税金がかかるのは嫌であるが、土地の私有権が法的に保障され、個人の財産になることは喜ばしい。ただし指示された現場では、実施の方法に不明なことが多く、地券発行の手続きが難航する。
江戸時代と同じように村方に丸投げして「村請け」とするのか、実際の土地が帳簿上の記載と異なるときは改めて測量(地押丈量)するのか、地主と小作人が並存する小作地の場合にどうするか、割地慣行(地味の良し悪しを均等にするため一定の期間ごとに農民同士が耕作地を交換する慣行)がある場合にどうするのか、など土地に関する権利関係が単純ではない。さらに「地価は人民の申告に依る」としたが、年々の豊凶により地価は変動するし、近接する田畠でも地味や水利条件により地価は異なるから、算定はむつかしい。
政府は、極力、簡略化して対応するよう指示するが、行政吏員も紙も不足する折から、事務負担が大きい。粛々と進める県もあるが、渋ったり取り止めたりする県も出て、地券調査を3か月後の5年10月までに完了することを求めた大蔵省の目論見は挫折した。
しかし政府としては、ともかくも税負担を公平かつ画一的なものとし、税収確保を図るのが急務である。6年7月に「地租改正法」を公布し、地券調査によって地価を定め、7年度から地価の3%を地租として賦課すると決定した。
同時に「地租改正条例」を制定し、地租への切り替えは県単位でなく郡や区ごとでもいい、年々の作柄による増・減税は実施しない、地租への切り替えが進まないところは従前の税法による、などと布告した。
さらに「施行規則」と「心得書」を定め、村請制は解除し、税法上の地所の所有者が責任をもって適実に申告するよう求める。また人民の申告した地価を「資本還元方式」によって算出する理論値[土地の年間総収益額から種もみ・肥料代・村入費などの諸経費(ただし労務費の控除は認めない)を差し引いた純利益額を、年利6%で除したもの]と照合するように指示した。
政府は4年5月に「新貨条例」を制定し、金本位制のもとで「圓」を通貨単位に統一した。5年8月に田畠の貢租は原則として金納とし、米納は例外的な場合に限る。6年6月には田畠を数量表示する際に「石高」の使用を禁じ「反別」とした。これにより「石高制」は完全に消滅した。
6年12月に、地租改正にともなう国の歳入額について旧貢租歳入額を維持する方針としたが、地価を“人民の申告”を原則としたので、歳入減収を避けられない。そこで7年11月には林野の民有地を拡大して有租地とし、8年8月に市街地の地租率1%を3%に引き上げ、8年10月に不適切な土地申告者には検見法(実際に検地する)を適用する、などの措置を講じた。
8年3月には内閣に「地租改正事務局」を設け、地価の算定に用いる米価は明治3~7年の5年間の平均とする。8年8月には、9年までに事務を完了するよう布達した。
ただし実際に地租改正事業に“着手した”府県の数について、明治5年1件(山口県),6年13件,7年23件,8年21件(徳島・愛媛を含む),9年8件(香川を含む)であった。
士族授産事業
秩禄処分が進むに従い、旧・士族は新たな職業に挑戦することとなる。多額の公債を得た士族のなかには農地を買って農業に転じた者があり、藩によっては「帰農法」を定めて、手当てを出したり貢租を減額したりした。家禄奉還者に農林牧畜業への転身を促すため、政府は未開拓地や官有地を通常価額の半額ほどで払い下げた。公債を売って学資に充て、士官・吏員・教員などに転じる者もいた。
商業に転じる者が多かったが、製造業を志す者もいた。とりわけ西南戦争が終わった明治12年から農商務省は旧・士族の起業を支援する体制を整え、困窮した士族の事業に対し、県を通じて無利子・無担保の資金を融通した。
明治15~28年の間に、勧業資本金や勧業委託金として、37道府県で183,531戸が実施する167事業に授産資金が交付され、これは士族の4割強に当たるとされる。産業別に見ると、養蚕・製糸64,757戸、絹・綿紡織56,278戸、雑工業(傘・足袋など)31,763戸、開墾事業21,492戸などであった。
四国でも、養蚕・製糸・製紙・機織りなどの事業に申請が殺到した。それぞれの『県史』は、会社組織で取り組んだ事業として次表のものを掲げる。
『徳島県史』は、本件に関し「製糸や足袋業などを起こそうとしたが、成功していない。多くは賃労働者になった」と記述する。
これらは「士族授産事業」と呼ばれ、成功するものもあったが失敗したものも多い。四苦八苦するようすは“武家の商法”と揶揄された。
士族授産の一環として、政府は12年10月に「開墾移住事業」を提起した。福島県安積(あさか)郡に政府が407千円余を投じて安積疎水を開削し、500戸の士族を限り旅費・開墾・家作の費用を補助して、4000町歩を開墾する計画であった。1戸あてに1~3町歩の土地を貸し付け、開墾が完了した後は無償で下付する予定とした。
『郡山の歴史』(福島県郡山市)によると、実際に入植した戸数は476戸で、これには四国から、高知の106戸・愛媛の17戸が含まれた。『明治維新経済誌研究』(本庄栄次郎編 改造社1930年刊行)は「久留米・鳥取・高知の各開墾社の事蹟がもっとも顕著」と記す。ただし入植しても脱落する者が続出し、明治20年代には8割が転出したとされる。借財を背負って、小作人になった者もあった。
『高知県史』によると、県関係で二つの入植集団があった。「共行社(後に高知開墾社)」の52名は安積郡対面ヶ原の開墾を指定されたが、後に人数を縮小して、山田ヶ原と広谷原に分散した。「高知協力組」は山田ヶ原と赤坂を開墾した。そこで高知からの移住先は、広谷原71戸、山田ケ原20戸、赤坂15戸になったとみられる。
高禄を得た華族や上級士族のなかには、金禄公債を鉄道や発電の会社設立に出資したり、株式購入に充てたりして、地域で「名士」の声望を維持する者もあった。
明治9年8月に「国立銀行条例」が改定された。12年6月までに全国で148の銀行が設立されるが、このうちの96行では、資本金の主たる出資者が華士族であった。
四国では、次の国立銀行が設立された。愛媛の第29国立銀行は、いまの伊予銀行の前身である。高知の第37国立銀行は、いまの四国銀行の前身である。香川の第114国立銀行は、そのまま百十四銀行となり、往時の名前を残す。
商業に転じる者が多かったが、製造業を志す者もいた。とりわけ西南戦争が終わった明治12年から農商務省は旧・士族の起業を支援する体制を整え、困窮した士族の事業に対し、県を通じて無利子・無担保の資金を融通した。
明治15~28年の間に、勧業資本金や勧業委託金として、37道府県で183,531戸が実施する167事業に授産資金が交付され、これは士族の4割強に当たるとされる。産業別に見ると、養蚕・製糸64,757戸、絹・綿紡織56,278戸、雑工業(傘・足袋など)31,763戸、開墾事業21,492戸などであった。
四国でも、養蚕・製糸・製紙・機織りなどの事業に申請が殺到した。それぞれの『県史』は、会社組織で取り組んだ事業として次表のものを掲げる。

『徳島県史』は、本件に関し「製糸や足袋業などを起こそうとしたが、成功していない。多くは賃労働者になった」と記述する。
これらは「士族授産事業」と呼ばれ、成功するものもあったが失敗したものも多い。四苦八苦するようすは“武家の商法”と揶揄された。
士族授産の一環として、政府は12年10月に「開墾移住事業」を提起した。福島県安積(あさか)郡に政府が407千円余を投じて安積疎水を開削し、500戸の士族を限り旅費・開墾・家作の費用を補助して、4000町歩を開墾する計画であった。1戸あてに1~3町歩の土地を貸し付け、開墾が完了した後は無償で下付する予定とした。
『郡山の歴史』(福島県郡山市)によると、実際に入植した戸数は476戸で、これには四国から、高知の106戸・愛媛の17戸が含まれた。『明治維新経済誌研究』(本庄栄次郎編 改造社1930年刊行)は「久留米・鳥取・高知の各開墾社の事蹟がもっとも顕著」と記す。ただし入植しても脱落する者が続出し、明治20年代には8割が転出したとされる。借財を背負って、小作人になった者もあった。
『高知県史』によると、県関係で二つの入植集団があった。「共行社(後に高知開墾社)」の52名は安積郡対面ヶ原の開墾を指定されたが、後に人数を縮小して、山田ヶ原と広谷原に分散した。「高知協力組」は山田ヶ原と赤坂を開墾した。そこで高知からの移住先は、広谷原71戸、山田ケ原20戸、赤坂15戸になったとみられる。
高禄を得た華族や上級士族のなかには、金禄公債を鉄道や発電の会社設立に出資したり、株式購入に充てたりして、地域で「名士」の声望を維持する者もあった。
明治9年8月に「国立銀行条例」が改定された。12年6月までに全国で148の銀行が設立されるが、このうちの96行では、資本金の主たる出資者が華士族であった。
四国では、次の国立銀行が設立された。愛媛の第29国立銀行は、いまの伊予銀行の前身である。高知の第37国立銀行は、いまの四国銀行の前身である。香川の第114国立銀行は、そのまま百十四銀行となり、往時の名前を残す。
秩禄処分
維新政府は廃藩置県によって、中央集権体制を確立する。その自信によってか、明治4年11月に、
早くも海外へ使節団が出発する(写真は使節団の出発風景を示す聖徳絵画館の絵葉書)。出国の経験を持たない政府の要人は、一刻も早く、海外の事情を見聞したかったのであろう。
岩倉具視が団長となって米欧を巡る予定で、多数の要人が日本を留守にする。そこで「使節団の外遊中には新しい制度改革はしない」ことを留守部隊に約束させたという。しかし留守を守る面々が直面する課題は多大かつ多様であり、いずれも待ったなしである。「いまこそ実力を発揮するとき」と勇み立つ者もいて、さまざまの改革が進む。
旧大名家の家臣であった武士は版籍奉還にともない、中央政権が県を通じて管理し[上級家臣は士族/下級家臣は卒族]とした。明治4年末には、それぞれの希望に応じて、農・工・商へ転向することを許可した。5年には卒族を廃し、すでに平民になった者を除いて、すべて士族とした。
廃藩置県により、士族と知藩事の主従関係が制度的に消滅したから、士族の去就は中央政府の課題になる。これまでの諸藩の努力によって、この段階では旧・家臣の家禄の約4割が整理されていたという。そこで、残る6割をどう扱うかの問題を「秩禄処分」という。
明治5年2月に政府は「家禄削減案」を内決し、家禄の3分の1を削り、残りの3分の2について6年分に相当する額の「禄券」を支給する方針を示した。禄券を売買自由としたから、大量発行により禄券の市場価格が下がると、士族は十分な生活資金を得られない可能性がある。そこで発行後の6年間に、毎年6分の1ずつを政府が買い上げることとし、その財源として外債(金利が低い)による調達を計画した。
しかしこの案には、士族は厳し過ぎると反発し、外債発行が成功しなかったこともあり、断念した。
次いで明治6年度以降分の支給分に関し、次の二つの案を示し、各人の望みにより選択できるとした。一案は「年々滅却の仕法」といい、6年度分からしだいに支給額を減らし、15年間で払い終えるとするもの。二案は「一時録券の仕法」で、希望者に8年間分の金券をひとまとめに与え、年1割の利子を毎年支給するもの。
これによる維新政府の財政負担は大きく、戊辰戦争時の戦功などへの賞典禄や社寺禄を合わせると、4年10月~5年12月間の政府支給額が通常歳出の37.8%を占めたという(時代の変わり目で税収が少なかったこともウエイトを高めた)。士族とその家族を含めた人口は194万人で、全人口3311万人のうちの6%であったから、いかにも士族偏重である。このほかにも政府は旧藩の負債(外債を含む)を受け継いだから、これらを合わせると歳入額の41%に達し、政府はなお秩禄処分の負担軽減を迫られる。
6年11月には「家禄税」を新設した。5石以下は非課税とするが、それを超える部分について、累進税率2~35.3%(平均税率は11.8%)を課するもの。これにより家禄支給額の10%余を減らした。
さらに6年12月に、100石以下の家禄について「奉還制度」を設ける。希望者には家禄の代わって、その6年相当分を[現金と秩禄公債(年利8%)の半々]で支給する制度を追加した。これにより家禄支給額を26%減らした。
9年8月には「金禄公債証書」の発行を条例化し、以後は家禄を石高ではなく金禄で表わし、家禄を30等級に分けて、利子付公債(年率5~7%)を付与することで代替する案を示した。狭義で「秩禄処分」というときは、この措置を指す。
すなわち世襲的であった家禄を、家の債権(財産)に置き換え、家の財産と見做す。その額について段階ごとに異なる(上に薄く下に厚い)利子付き公債を交付し、華・士族への家禄と種々の賞典禄を30年間で払い終えるとする。公債は6年目以降に現金で償還するとしこれは、政府の財政状況に応じて左右できるから、都合がいい。
この案に基づき華・士族が得る支給額を平均化して推計すると、階層ごとに次のようになるという。
・ 華族(旧藩主)は、華士族全体の0.2%を占める519人。1人平均で額面60,527円分の公債(利子5%)を交付され、年間3,026円の利子収入を見込める。
・ 上・中級士族は、華士族全体の4.9%を占める15.377人。1人平均で額面1,628円分の公債(利子6%)を交付され、年間97円の利子収入を見込める。
・ 下級士族は、華士族全体の83.7%を占める262,317人。1人平均で額面415円分の公債(利子7%)が交付され、年間29円の利子収入を見込める。
家族を養って家庭を維持するには、当時において最低でも年間100~120円が必要であったというから、華族や上級士族は利子収入だけで生活できたであろう。しかし中・下級士族は金利面で優遇されてはいるが、利子だけでは生活できず、他へ職を求めざるをえない。
ここに華・士族の家禄と賞典禄などに関する政府の負担案が終了し、江戸期に藩主と家臣が享受したの経済的特権が最終的に失われることに。かつての支配層が有した権利を、新政府が買い取る形で完全に解消したケースは、世界的にも稀有な例であるという。
6年1月「徴兵令」が布告されて、社会の安全を守るという武士の役割が、終焉した。
9年3月「廃刀令」が布告されて、武士の身分を表す誇りも、奪われた。

岩倉具視が団長となって米欧を巡る予定で、多数の要人が日本を留守にする。そこで「使節団の外遊中には新しい制度改革はしない」ことを留守部隊に約束させたという。しかし留守を守る面々が直面する課題は多大かつ多様であり、いずれも待ったなしである。「いまこそ実力を発揮するとき」と勇み立つ者もいて、さまざまの改革が進む。
旧大名家の家臣であった武士は版籍奉還にともない、中央政権が県を通じて管理し[上級家臣は士族/下級家臣は卒族]とした。明治4年末には、それぞれの希望に応じて、農・工・商へ転向することを許可した。5年には卒族を廃し、すでに平民になった者を除いて、すべて士族とした。
廃藩置県により、士族と知藩事の主従関係が制度的に消滅したから、士族の去就は中央政府の課題になる。これまでの諸藩の努力によって、この段階では旧・家臣の家禄の約4割が整理されていたという。そこで、残る6割をどう扱うかの問題を「秩禄処分」という。
明治5年2月に政府は「家禄削減案」を内決し、家禄の3分の1を削り、残りの3分の2について6年分に相当する額の「禄券」を支給する方針を示した。禄券を売買自由としたから、大量発行により禄券の市場価格が下がると、士族は十分な生活資金を得られない可能性がある。そこで発行後の6年間に、毎年6分の1ずつを政府が買い上げることとし、その財源として外債(金利が低い)による調達を計画した。
しかしこの案には、士族は厳し過ぎると反発し、外債発行が成功しなかったこともあり、断念した。
次いで明治6年度以降分の支給分に関し、次の二つの案を示し、各人の望みにより選択できるとした。一案は「年々滅却の仕法」といい、6年度分からしだいに支給額を減らし、15年間で払い終えるとするもの。二案は「一時録券の仕法」で、希望者に8年間分の金券をひとまとめに与え、年1割の利子を毎年支給するもの。
これによる維新政府の財政負担は大きく、戊辰戦争時の戦功などへの賞典禄や社寺禄を合わせると、4年10月~5年12月間の政府支給額が通常歳出の37.8%を占めたという(時代の変わり目で税収が少なかったこともウエイトを高めた)。士族とその家族を含めた人口は194万人で、全人口3311万人のうちの6%であったから、いかにも士族偏重である。このほかにも政府は旧藩の負債(外債を含む)を受け継いだから、これらを合わせると歳入額の41%に達し、政府はなお秩禄処分の負担軽減を迫られる。
6年11月には「家禄税」を新設した。5石以下は非課税とするが、それを超える部分について、累進税率2~35.3%(平均税率は11.8%)を課するもの。これにより家禄支給額の10%余を減らした。
さらに6年12月に、100石以下の家禄について「奉還制度」を設ける。希望者には家禄の代わって、その6年相当分を[現金と秩禄公債(年利8%)の半々]で支給する制度を追加した。これにより家禄支給額を26%減らした。
9年8月には「金禄公債証書」の発行を条例化し、以後は家禄を石高ではなく金禄で表わし、家禄を30等級に分けて、利子付公債(年率5~7%)を付与することで代替する案を示した。狭義で「秩禄処分」というときは、この措置を指す。
すなわち世襲的であった家禄を、家の債権(財産)に置き換え、家の財産と見做す。その額について段階ごとに異なる(上に薄く下に厚い)利子付き公債を交付し、華・士族への家禄と種々の賞典禄を30年間で払い終えるとする。公債は6年目以降に現金で償還するとしこれは、政府の財政状況に応じて左右できるから、都合がいい。
この案に基づき華・士族が得る支給額を平均化して推計すると、階層ごとに次のようになるという。
・ 華族(旧藩主)は、華士族全体の0.2%を占める519人。1人平均で額面60,527円分の公債(利子5%)を交付され、年間3,026円の利子収入を見込める。
・ 上・中級士族は、華士族全体の4.9%を占める15.377人。1人平均で額面1,628円分の公債(利子6%)を交付され、年間97円の利子収入を見込める。
・ 下級士族は、華士族全体の83.7%を占める262,317人。1人平均で額面415円分の公債(利子7%)が交付され、年間29円の利子収入を見込める。
家族を養って家庭を維持するには、当時において最低でも年間100~120円が必要であったというから、華族や上級士族は利子収入だけで生活できたであろう。しかし中・下級士族は金利面で優遇されてはいるが、利子だけでは生活できず、他へ職を求めざるをえない。
ここに華・士族の家禄と賞典禄などに関する政府の負担案が終了し、江戸期に藩主と家臣が享受したの経済的特権が最終的に失われることに。かつての支配層が有した権利を、新政府が買い取る形で完全に解消したケースは、世界的にも稀有な例であるという。
6年1月「徴兵令」が布告されて、社会の安全を守るという武士の役割が、終焉した。
9年3月「廃刀令」が布告されて、武士の身分を表す誇りも、奪われた。
新政反対一揆・旧藩主引き留め一揆など
江戸時代を封建制と呼ぶのは、幕府が一定の基準を示しつつも、地域ごとの財政(税制を含む)や兵制を各藩に任せていたからであろう。これに対して維新政府は、廃藩置県により地域行政の枢要部分を中央政権のもとに結集し、全国を均一的にした。政治的な大きい変革が、さしたる抵抗も受けずに行われたようにみえ、これには当時の在日外国人がずいぶん驚いたようである。そのことを綴る報告文が残されている。
この変革により旧藩主とその家臣の境遇は大きく変化するが、農・工・商に従事する人びとも、将来への見通しが分からず不安を抱いた。そこで維新政府は、廃藩置県直後の明治4年7月25日に「廃藩置県によっても、今年は税制改革を行わず、旧の慣習によって徴収する」旨を布告し、直ちには税負担を変えないと公言した。 ただし社会の騒擾を、完全に鎮めることはできなかった。
戊辰戦争を戦った東北諸藩は、廃藩や領地削減があったのに加え、明治2年が大凶作となる。このため4年にかけて、甲斐・胆沢・日田・福島などで「新政反対一揆」が起こった。これらで、は手持ちの藩札を還付すること、藩への貸し付けを返済することなどが要求された。
西日本においても、将来への不安に貧困・凶作・物価騰貴が加わり、一揆や打ちこわしが頻発した。明治4年の7月から12月までの間に、中国・四国地方では、23件の騒動があったという。かつて藩主であった知藩事が上京する折を捉えて、表向きは旧藩主の留任を求める形を採り「旧藩主引き留め一揆」と呼ばれたが、その実は藩札の買取りや税負担の軽減を求めたものがあった。
中国地方では、姫路県・生野県(現・兵庫県)・清末県(現・山口県)で騒動があったが、広島県で4年8月に起こった「武一騒動」が最大規模とされる。武一という農民を中心に最大10万人が参加し、約200軒の公的機関や豪農・豪商の邸宅を襲った。新政府は発足当初のこととして、中欧政権は厳しい処罰を求めたので、中心人物の多くが死罪になった。
四国における明治初期の民衆騒動には、次のような事案があった。
明治3年の3月から4月にかけ、宇和島県野村などで「野村騒動」が起こり、それが吉田県三間地区の「三間騒動」に波及した。木蝋の原料となる櫨(ハゼ)の実を地域の農民が栽培していたところ、その買い上げ価格の低落を機に、引き上げや庄屋など村方役人の不当を訴えた。要求がある程度受け入れられたことで、収束した。
4年8月には、大洲城下で「大洲騒動」があった。藩札価値が暴落したのをきっかけに、手成村と戒ノ川村の農民が鉄砲・竹槍を手に蜂起し、若宮河原に屯集して小屋を構えた。これに呼応して各地で騒動が起こり、参加者は最大で2万人を超えたという。表向きは知藩事の留任要求を掲げるが、その実は新政府下における租税や産物の買い上げ価格に関する要求が狙いであったようだ。県の大参事が責任を感じて自殺したこと、一定の要求が達成されたことなどで収まった。
同じ4年8月に、松山県山間部の浮穴郡久万山(くまやま)地方において、神仏分離令に動揺した3000人ほどが、知藩事の留任を訴えて屯集した。これが久米郡の打ちこわしに波及し「久万山・久米騒動」と呼ばれる。一揆勢は松山城下へ向けて行進を始め、参加者を増やしながら久米郡の八幡神社に到ったところで、県が軍隊を送って発砲した。これにより一揆勢は解散し、40~50人が入牢となった。
4年7月に、高松知藩事の松平頼聡が東京へ向けて出港しようとすると、主として東讃からの人びとが高松城下に集まり、上京阻止の行動に出た。御座船を陸上に引き上げたり、小舟で港を埋め尽したりして、まさに「旧藩主引き留め一揆」の状況が現出する。騒動は各地に広がり、1万人を超える人びとが村役人・豪商・豪農などの邸宅を打ちこわした。そのため知藩事の出立は、予定より20日ほど遅れたという。将来に向けた生活不安のほか、藩札処理について十分な説明がなかったことが原因とされる。
6年6月には「西讃竹槍騒動(西讃農民騒動)」が起こる。明治5年に学制が施行され学校経費が住民の負担になったこと、6年に徴兵令が制定されたことなどへの反対を訴えるもの。一揆勢は、当時は名東県下にあった讃岐西部の7郡を行進し、2万人以上に膨れ上がり、130か村において「官」に関連する建物599か所(うち小学校が48か所)を襲ったという。多数の者が捕縛され、7名が死刑に処された。
4年12月から5年1月にかけ、高知県北部の山間地で一大農民騒動が起こる。五台山の洋風病院で西洋人(異人)の医師が治療に当たったのが「日本人から膏(あぶら)を採り西洋人の滋養にまわしている」という流言飛語を生み、人びとを動揺させたのが原因とされ「膏(あぶら)取り騒動」と呼ばれる(騒動指導者の教育水準は高く、これに疑問を呈する意見もある)。檄文が回され、山間の村々に伝播して、約1000人が土佐郡本川郷の登川原に屯集した。首謀者数名が捕らえられ、斬首などに処された。
7年12月の幡多郡川登村などにおいて、兵務省の壮丁調査をきっかけに「徴兵反対」を訴える農民530人ほどが、銃器などを携え川登村妹尾谷に屯集した。幡多支庁の説諭により大事には至らなかったが、数名が処分された。
この変革により旧藩主とその家臣の境遇は大きく変化するが、農・工・商に従事する人びとも、将来への見通しが分からず不安を抱いた。そこで維新政府は、廃藩置県直後の明治4年7月25日に「廃藩置県によっても、今年は税制改革を行わず、旧の慣習によって徴収する」旨を布告し、直ちには税負担を変えないと公言した。 ただし社会の騒擾を、完全に鎮めることはできなかった。
戊辰戦争を戦った東北諸藩は、廃藩や領地削減があったのに加え、明治2年が大凶作となる。このため4年にかけて、甲斐・胆沢・日田・福島などで「新政反対一揆」が起こった。これらで、は手持ちの藩札を還付すること、藩への貸し付けを返済することなどが要求された。
西日本においても、将来への不安に貧困・凶作・物価騰貴が加わり、一揆や打ちこわしが頻発した。明治4年の7月から12月までの間に、中国・四国地方では、23件の騒動があったという。かつて藩主であった知藩事が上京する折を捉えて、表向きは旧藩主の留任を求める形を採り「旧藩主引き留め一揆」と呼ばれたが、その実は藩札の買取りや税負担の軽減を求めたものがあった。
中国地方では、姫路県・生野県(現・兵庫県)・清末県(現・山口県)で騒動があったが、広島県で4年8月に起こった「武一騒動」が最大規模とされる。武一という農民を中心に最大10万人が参加し、約200軒の公的機関や豪農・豪商の邸宅を襲った。新政府は発足当初のこととして、中欧政権は厳しい処罰を求めたので、中心人物の多くが死罪になった。
四国における明治初期の民衆騒動には、次のような事案があった。
明治3年の3月から4月にかけ、宇和島県野村などで「野村騒動」が起こり、それが吉田県三間地区の「三間騒動」に波及した。木蝋の原料となる櫨(ハゼ)の実を地域の農民が栽培していたところ、その買い上げ価格の低落を機に、引き上げや庄屋など村方役人の不当を訴えた。要求がある程度受け入れられたことで、収束した。
4年8月には、大洲城下で「大洲騒動」があった。藩札価値が暴落したのをきっかけに、手成村と戒ノ川村の農民が鉄砲・竹槍を手に蜂起し、若宮河原に屯集して小屋を構えた。これに呼応して各地で騒動が起こり、参加者は最大で2万人を超えたという。表向きは知藩事の留任要求を掲げるが、その実は新政府下における租税や産物の買い上げ価格に関する要求が狙いであったようだ。県の大参事が責任を感じて自殺したこと、一定の要求が達成されたことなどで収まった。
同じ4年8月に、松山県山間部の浮穴郡久万山(くまやま)地方において、神仏分離令に動揺した3000人ほどが、知藩事の留任を訴えて屯集した。これが久米郡の打ちこわしに波及し「久万山・久米騒動」と呼ばれる。一揆勢は松山城下へ向けて行進を始め、参加者を増やしながら久米郡の八幡神社に到ったところで、県が軍隊を送って発砲した。これにより一揆勢は解散し、40~50人が入牢となった。
4年7月に、高松知藩事の松平頼聡が東京へ向けて出港しようとすると、主として東讃からの人びとが高松城下に集まり、上京阻止の行動に出た。御座船を陸上に引き上げたり、小舟で港を埋め尽したりして、まさに「旧藩主引き留め一揆」の状況が現出する。騒動は各地に広がり、1万人を超える人びとが村役人・豪商・豪農などの邸宅を打ちこわした。そのため知藩事の出立は、予定より20日ほど遅れたという。将来に向けた生活不安のほか、藩札処理について十分な説明がなかったことが原因とされる。
6年6月には「西讃竹槍騒動(西讃農民騒動)」が起こる。明治5年に学制が施行され学校経費が住民の負担になったこと、6年に徴兵令が制定されたことなどへの反対を訴えるもの。一揆勢は、当時は名東県下にあった讃岐西部の7郡を行進し、2万人以上に膨れ上がり、130か村において「官」に関連する建物599か所(うち小学校が48か所)を襲ったという。多数の者が捕縛され、7名が死刑に処された。
4年12月から5年1月にかけ、高知県北部の山間地で一大農民騒動が起こる。五台山の洋風病院で西洋人(異人)の医師が治療に当たったのが「日本人から膏(あぶら)を採り西洋人の滋養にまわしている」という流言飛語を生み、人びとを動揺させたのが原因とされ「膏(あぶら)取り騒動」と呼ばれる(騒動指導者の教育水準は高く、これに疑問を呈する意見もある)。檄文が回され、山間の村々に伝播して、約1000人が土佐郡本川郷の登川原に屯集した。首謀者数名が捕らえられ、斬首などに処された。
7年12月の幡多郡川登村などにおいて、兵務省の壮丁調査をきっかけに「徴兵反対」を訴える農民530人ほどが、銃器などを携え川登村妹尾谷に屯集した。幡多支庁の説諭により大事には至らなかったが、数名が処分された。
県の統廃合と名称変更
廃藩置県により全国は302県となるが、いかにも数が多いから、当初から統廃合が課題であった。ひとつの県の規模を30~40万石にするとの目標のもと、大藩のもとに近隣の県を併合したり律令制の国域を意識したりによって統合し、モザイク状に細分化された状態の改善を図る。これにより、明治4年11月に(北海道と琉球を除き)全国が3府72県になる。四国は、次の5県に統合された。
香川県(30万国)―高松・丸亀の両県を統合し、倉敷県のうちの讃岐領を吸収する。
名東(みょうどう)県(44万石)―徳島・淡路の両県を統合する。4年7月に淡路の津名郡43か村を除いて徳島県としたが、11月には津名郡43か村も加えて、名東県となる。
松山県(24万国)―松山・西条・小松・今治の諸県を統合する。江戸期に幕府領であった東予の23か村は一時、倉敷県と丸亀県に属したが、松山県に移す。
宇和島県(22万国)―宇和島・大洲・吉田・新谷の諸県を統合する。
高知県(49万石)―4年9月の大蔵省案では高知県と中村県に分けたが、11月に訂正して、高知県に統合する。
これに併せて知藩事の後任となる県の長官を「県令」とし、大参事・参事など県の上層幹部とともに、随時に任命する(明治19年7月に県令を「知事」に改称)。このとき県の幹部に、他県の出身者を充てた場合に「住民の旧藩意識を一掃するには旧藩名を用いるのを取り止めるべき」との上申が為されたという。
そこで大蔵省の原案で旧藩名を転用していた18の県名を取り消し、県庁所在地が存在する「郡名」に替えた。四国では、県庁所在地の高松と徳島が、それぞれ香川郡と名東郡に所在するので、香川県と名東県に変更となる。
ただし雄藩や大藩であった鹿児島・熊本・高知・岡山・和歌山・静岡などでは、県令などに当該県の出身者を充てたので、こうした変更がなかったとされる。
この方針を受け継いだのか。明治5年になって伊予の2県の県名を変更し、併せて両県の境界線を地理的利便性などに基づき、数か所で調整する。
5年2月、松山県が「石鐵県」に改称される。名前の由来は地域に石鎚山があることによるとされるが、それが誤記され、石鉄(セキテツ)県という名前になったようだ。
5年6月、宇和島県が「神山県」に替わる。地域に出石(いずし)山という名山があることに拠ったという。
しかしこの県名変更は、長続きしなかった。6年2月に、石鉄・神山の両県が統合され「愛媛県」となる。地元は、律令制下の国名を転用して「伊予県」という名前を要望したというが、許されなかった。そこで『古事記』の一節に「伊予の国をエヒメ(愛比売)といひ」とあるのをもとに、エヒメを提案して、了承された。漢字表記については、半井梧庵が著した伊予国地誌の題名に『愛媛面影』とあったのが採用されたという。(『古事記』では、讃岐をイヒヨリヒコ、阿波をオホゲツヒメ、土佐をタケヨリワケと言い、四国を南北に分けても東西に分けても男女の組み合わせになっていた)
これと同時期である6年2月に、香川県が名東県の管轄下に入り、廃止される。しかし名東県議会において阿・讃の両勢力が財政問題で激しく対立し、県政が停滞した。讃岐出身の官員らが熱心に懇願し、2年余を経た8年9月に香川県が再置される。
こうしてみると、維新政府は各地の県名を自在に扱った印象である。讃岐出身の新聞記者の宮武外骨は「政府が県名を賞罰的に扱った」として、大略、次のような論陣を張った。
「新政府は県名を決める際に、戊辰戦争時に各藩が薩長勢力に協力的であったかどうかを考慮した。つまり薩長に協力した“忠勤藩”であったか、これにたてついた“朝敵藩”であったか、あるいは傍観的ないし曖昧な態度であった“日和見藩”(曖昧県)であったかを見定めて、後2者を懲罰的に扱った。県名に藩の名前を使わせず、代わりに県庁所在地がある「郡名」としたり、「山川」の名前にしたりしたので、県の名前と県庁が所在する市の名前が一致しない。(もっともさまざまな理由で、地域で中心的市が県庁所在地にならなかった場合には、両者が一致する)」
この論の妥当性を、現在の「県名」と「県庁所在地の市名」から、検証してみよう。
薩長土肥の四県はまさに忠勤藩である。九州の諸藩も薩長勢力に立てつかなかったので、九州7県と山口県・高知県では、県名と県庁が所在する市名が一致する。
広島県で両者が一致するのは、長州藩に近接することで長州征伐のときに征長総督府が置かれるなどして、長州の毛利家と安芸の浅野家の交流が深かった。岡山県・鳥取県を治めた池田家は、幕末時に一橋斉昭の男子を養子に迎え、尊皇論を説いた。
東北において秋田県で両者が一致するのは、戊辰戦争のとき、もっとも早く勤皇側に転じたことが理由であろう。(青森・山形・福島・新潟・長野などで両者が一致するのは、地域の中心市ではなかったところに県庁が置かれた)
和歌山や静岡などの大藩(県)では、当地の出身者が県令などに選ばれ、地元の要望どおりに両者が一致した。
これらに対し、多くの県において、県名と県庁所在地の市名とが一致しない。これが中央政府の決定によるのか、あるいは県令などで着任した者が個別に上申した結果なのか。経緯は不明だが、沸騰する社会情勢のもと、人的要素が大きく働いて県名が決まったといえそうだ。
香川県(30万国)―高松・丸亀の両県を統合し、倉敷県のうちの讃岐領を吸収する。
名東(みょうどう)県(44万石)―徳島・淡路の両県を統合する。4年7月に淡路の津名郡43か村を除いて徳島県としたが、11月には津名郡43か村も加えて、名東県となる。
松山県(24万国)―松山・西条・小松・今治の諸県を統合する。江戸期に幕府領であった東予の23か村は一時、倉敷県と丸亀県に属したが、松山県に移す。
宇和島県(22万国)―宇和島・大洲・吉田・新谷の諸県を統合する。
高知県(49万石)―4年9月の大蔵省案では高知県と中村県に分けたが、11月に訂正して、高知県に統合する。
これに併せて知藩事の後任となる県の長官を「県令」とし、大参事・参事など県の上層幹部とともに、随時に任命する(明治19年7月に県令を「知事」に改称)。このとき県の幹部に、他県の出身者を充てた場合に「住民の旧藩意識を一掃するには旧藩名を用いるのを取り止めるべき」との上申が為されたという。
そこで大蔵省の原案で旧藩名を転用していた18の県名を取り消し、県庁所在地が存在する「郡名」に替えた。四国では、県庁所在地の高松と徳島が、それぞれ香川郡と名東郡に所在するので、香川県と名東県に変更となる。
ただし雄藩や大藩であった鹿児島・熊本・高知・岡山・和歌山・静岡などでは、県令などに当該県の出身者を充てたので、こうした変更がなかったとされる。
この方針を受け継いだのか。明治5年になって伊予の2県の県名を変更し、併せて両県の境界線を地理的利便性などに基づき、数か所で調整する。
5年2月、松山県が「石鐵県」に改称される。名前の由来は地域に石鎚山があることによるとされるが、それが誤記され、石鉄(セキテツ)県という名前になったようだ。
5年6月、宇和島県が「神山県」に替わる。地域に出石(いずし)山という名山があることに拠ったという。
しかしこの県名変更は、長続きしなかった。6年2月に、石鉄・神山の両県が統合され「愛媛県」となる。地元は、律令制下の国名を転用して「伊予県」という名前を要望したというが、許されなかった。そこで『古事記』の一節に「伊予の国をエヒメ(愛比売)といひ」とあるのをもとに、エヒメを提案して、了承された。漢字表記については、半井梧庵が著した伊予国地誌の題名に『愛媛面影』とあったのが採用されたという。(『古事記』では、讃岐をイヒヨリヒコ、阿波をオホゲツヒメ、土佐をタケヨリワケと言い、四国を南北に分けても東西に分けても男女の組み合わせになっていた)
これと同時期である6年2月に、香川県が名東県の管轄下に入り、廃止される。しかし名東県議会において阿・讃の両勢力が財政問題で激しく対立し、県政が停滞した。讃岐出身の官員らが熱心に懇願し、2年余を経た8年9月に香川県が再置される。
こうしてみると、維新政府は各地の県名を自在に扱った印象である。讃岐出身の新聞記者の宮武外骨は「政府が県名を賞罰的に扱った」として、大略、次のような論陣を張った。
「新政府は県名を決める際に、戊辰戦争時に各藩が薩長勢力に協力的であったかどうかを考慮した。つまり薩長に協力した“忠勤藩”であったか、これにたてついた“朝敵藩”であったか、あるいは傍観的ないし曖昧な態度であった“日和見藩”(曖昧県)であったかを見定めて、後2者を懲罰的に扱った。県名に藩の名前を使わせず、代わりに県庁所在地がある「郡名」としたり、「山川」の名前にしたりしたので、県の名前と県庁が所在する市の名前が一致しない。(もっともさまざまな理由で、地域で中心的市が県庁所在地にならなかった場合には、両者が一致する)」
この論の妥当性を、現在の「県名」と「県庁所在地の市名」から、検証してみよう。
薩長土肥の四県はまさに忠勤藩である。九州の諸藩も薩長勢力に立てつかなかったので、九州7県と山口県・高知県では、県名と県庁が所在する市名が一致する。
広島県で両者が一致するのは、長州藩に近接することで長州征伐のときに征長総督府が置かれるなどして、長州の毛利家と安芸の浅野家の交流が深かった。岡山県・鳥取県を治めた池田家は、幕末時に一橋斉昭の男子を養子に迎え、尊皇論を説いた。
東北において秋田県で両者が一致するのは、戊辰戦争のとき、もっとも早く勤皇側に転じたことが理由であろう。(青森・山形・福島・新潟・長野などで両者が一致するのは、地域の中心市ではなかったところに県庁が置かれた)
和歌山や静岡などの大藩(県)では、当地の出身者が県令などに選ばれ、地元の要望どおりに両者が一致した。
これらに対し、多くの県において、県名と県庁所在地の市名とが一致しない。これが中央政府の決定によるのか、あるいは県令などで着任した者が個別に上申した結果なのか。経緯は不明だが、沸騰する社会情勢のもと、人的要素が大きく働いて県名が決まったといえそうだ。
廃藩置県
版籍奉還に続いて地方統治をすっきりさせるには、藩のすべてを廃し、中央政府が直轄する「府」と「県」に置き換えることであろう。しかし維新政府を主導する薩摩・長州両藩の有力者らは、慎重であった。出身母体の藩を消滅させることは、彼らがかつて仕えた殿様の拠って立つ基盤を最終的に消滅させることを意味する。両藩はいまも雄藩として存在しているから、大きな遠慮がある。
とりわけ薩摩藩では、最後の藩主・島津茂久の実父で「国父」と呼ばれた島津久光が意気軒高としている。いまにも上京して徳川家に替わり“島津家が全国に号令せむ”との勢いである。
長州藩では、戊辰戦争で活躍した諸隊を解散して常備隊に編成替えしたところ「脱退騒動」が起こる。除隊する者が各地に屯集したり、隣藩に移ったりして、政府への反対運動に乗り出す者もいる。
こうした薩摩・長州の両藩の動きを警戒し、各地で体制固めも動きが出た。四国では、土佐藩が自藩の改革に取り組むいっぽう、四国の13藩を招集して「四国会議」を開催する。新政府に混乱があれば、四国勢が一致結束して事に当たろう、との狙いとみられた。
第1回会議は丸亀において、明治2年4月に開かれる。以後は、半年おきに琴平で開催することなり「琴陵会議」と呼ばれる。四国の各藩は琴平に「公儀人」を駐在させて、本藩・東京・京都間の連絡役を担わせる。
しかし3年9月に第4回会議が琴平で開かれたのを最後に、解散する。惜しむ声もあったが、解散の理由として、公儀人などを琴平に常駐させるのに経費がかさむことの苦情があった、維新政府が難色を示した、などが挙げられる。
版籍奉還後の藩のあり方については、諸藩からはもちろん、政府内の官僚からもさまざまの意見表明や建議が相次ぐ。四国でも、次のような動きがあった。
3年12月、高知藩は藩内で「人民平均之理」を掲げ、官員や兵隊をどちらの側からも選抜することを明らかにし、士族・平民の階級を否定する布告を発する。これを藩政改革に前向きな米沢・福井・彦根などの藩に呼び掛ける。
4年1月、徳島知藩事の蜂須賀茂韶は、藩屏の名を廃する、知藩事を知州事に改める、藩域を2,3県ないし4,5県に分ける、などの諸点を建議する。4月ごろ、この意見が調整され、徳島・鳥取・熊本・名古屋の四藩が官制改革につき18カ条の「大藩同心意見書」を発表する。内容には、諸外国の圧力や農民の騒擾に対処するため財政基盤の確立が必要であること、そのため藩を廃して州・郡・県を設置すること、現石高2万石以下の小藩や県を合併すること、などが盛られた。
先々項で述べた「御親兵」が明治4年春に具体化し始めたこともあり、これを維持するためにも、政府は財政の充実を迫られる。いよいよ廃藩置県に踏み切る覚悟が定まり、薩長の有力者数名が数日前に謀った手順にしたがい「廃藩置県」が断行される。これが明治4年7月14日に、次のような次第で遂行される。
① 版籍奉還を率先して建議した長州・薩摩・肥前・土佐の知藩事四名(土佐は代理)に対し、天皇が「藩を廃し県と為す」ことを告げる。
② 次いで、廃藩と知藩事辞職を建議して自主的に廃藩活動を始めていた名古屋・熊本・鳥取・徳島の四名の知藩事を呼び出し、建議を褒める勅語を天皇が発する。
③ 午後には突然、在京する知藩事56名を呼び出し、廃藩置県を宣言する詔書を渡す。東京を離れている知藩事には、9月中に帰京するよう命じる。
以上により、261の藩が廃され、261の県が生まれる。すでに直轄地とされていた3府41県と合わせて、3府302県体制になる。3府とは、東京府・京都府・大阪府である。
かたがた知藩事を一斉に罷免し、旧藩を離れて東京へ転居するよう命じる。引き続き旧藩の「現石高の10分の1」の家禄を与えるとしたから、文句の出ようがない。
さらに、各藩の藩札は廃藩置県当日の価格により後日に中央政府の通貨と引き換えること、県の事務は従来どおり藩の大参事以下が執ること、などを沙汰した。
着手に慎重を重ねて「廃藩置県」に踏み切ったが、案外に反対の声は小さかった。諸藩は商人などから既往債務の返済を迫られており、藩札を回収するのも事実上、無理であった。これらを維新政府が面倒を見るというのであるから、文句のつけようがない。
薩摩の島津家をはじめとする大名家が、了承するかどうかが危ぶまれた。そこで島津久光には特別に鹿児島藩の賞典禄5万石を与え、家を独立させる配慮をした。久光に上京を求めたが、久光は応じず、一晩中、花火を打ち上げて鬱憤を晴らしたという。
とりわけ薩摩藩では、最後の藩主・島津茂久の実父で「国父」と呼ばれた島津久光が意気軒高としている。いまにも上京して徳川家に替わり“島津家が全国に号令せむ”との勢いである。
長州藩では、戊辰戦争で活躍した諸隊を解散して常備隊に編成替えしたところ「脱退騒動」が起こる。除隊する者が各地に屯集したり、隣藩に移ったりして、政府への反対運動に乗り出す者もいる。
こうした薩摩・長州の両藩の動きを警戒し、各地で体制固めも動きが出た。四国では、土佐藩が自藩の改革に取り組むいっぽう、四国の13藩を招集して「四国会議」を開催する。新政府に混乱があれば、四国勢が一致結束して事に当たろう、との狙いとみられた。
第1回会議は丸亀において、明治2年4月に開かれる。以後は、半年おきに琴平で開催することなり「琴陵会議」と呼ばれる。四国の各藩は琴平に「公儀人」を駐在させて、本藩・東京・京都間の連絡役を担わせる。
しかし3年9月に第4回会議が琴平で開かれたのを最後に、解散する。惜しむ声もあったが、解散の理由として、公儀人などを琴平に常駐させるのに経費がかさむことの苦情があった、維新政府が難色を示した、などが挙げられる。
版籍奉還後の藩のあり方については、諸藩からはもちろん、政府内の官僚からもさまざまの意見表明や建議が相次ぐ。四国でも、次のような動きがあった。
3年12月、高知藩は藩内で「人民平均之理」を掲げ、官員や兵隊をどちらの側からも選抜することを明らかにし、士族・平民の階級を否定する布告を発する。これを藩政改革に前向きな米沢・福井・彦根などの藩に呼び掛ける。
4年1月、徳島知藩事の蜂須賀茂韶は、藩屏の名を廃する、知藩事を知州事に改める、藩域を2,3県ないし4,5県に分ける、などの諸点を建議する。4月ごろ、この意見が調整され、徳島・鳥取・熊本・名古屋の四藩が官制改革につき18カ条の「大藩同心意見書」を発表する。内容には、諸外国の圧力や農民の騒擾に対処するため財政基盤の確立が必要であること、そのため藩を廃して州・郡・県を設置すること、現石高2万石以下の小藩や県を合併すること、などが盛られた。
先々項で述べた「御親兵」が明治4年春に具体化し始めたこともあり、これを維持するためにも、政府は財政の充実を迫られる。いよいよ廃藩置県に踏み切る覚悟が定まり、薩長の有力者数名が数日前に謀った手順にしたがい「廃藩置県」が断行される。これが明治4年7月14日に、次のような次第で遂行される。
① 版籍奉還を率先して建議した長州・薩摩・肥前・土佐の知藩事四名(土佐は代理)に対し、天皇が「藩を廃し県と為す」ことを告げる。
② 次いで、廃藩と知藩事辞職を建議して自主的に廃藩活動を始めていた名古屋・熊本・鳥取・徳島の四名の知藩事を呼び出し、建議を褒める勅語を天皇が発する。
③ 午後には突然、在京する知藩事56名を呼び出し、廃藩置県を宣言する詔書を渡す。東京を離れている知藩事には、9月中に帰京するよう命じる。
以上により、261の藩が廃され、261の県が生まれる。すでに直轄地とされていた3府41県と合わせて、3府302県体制になる。3府とは、東京府・京都府・大阪府である。
かたがた知藩事を一斉に罷免し、旧藩を離れて東京へ転居するよう命じる。引き続き旧藩の「現石高の10分の1」の家禄を与えるとしたから、文句の出ようがない。
さらに、各藩の藩札は廃藩置県当日の価格により後日に中央政府の通貨と引き換えること、県の事務は従来どおり藩の大参事以下が執ること、などを沙汰した。
着手に慎重を重ねて「廃藩置県」に踏み切ったが、案外に反対の声は小さかった。諸藩は商人などから既往債務の返済を迫られており、藩札を回収するのも事実上、無理であった。これらを維新政府が面倒を見るというのであるから、文句のつけようがない。
薩摩の島津家をはじめとする大名家が、了承するかどうかが危ぶまれた。そこで島津久光には特別に鹿児島藩の賞典禄5万石を与え、家を独立させる配慮をした。久光に上京を求めたが、久光は応じず、一晩中、花火を打ち上げて鬱憤を晴らしたという。
版籍奉還
維新政府は発足当初の地方行政組織として、徳川家領・旗本領・公家領・寺社領など政府直轄地とした箇所が多い地域のうち、東京・大坂・京都の枢要地に「府」を置き、その他の神奈川県・新潟県・兵庫県・倉敷県などには「県」を置いた。これらの行政責任者として、府には「府知事」、県には「県令」を中央から送り込む。
そのいっぽう従来の「藩」のほとんどが存続しているから、当時の地方組織として、府・藩・県の三つが混在した。これを「府藩県三治制」と呼ぶ。
中央政府に属する地域とそうでない地域があるのは、不自然であり、対外的にも説明しにくい。また現在の大阪市八尾市域には、河内県のほか、淀・郡山・狭山などの藩領がモザイク状に混在したといい、複雑ともなった。
中央政府が財政や外交問題に対処するにおいて、地方統制が斉一的でないことが弱点であると認識される。そこで「府・藩・県の三治一致」をどう図るかが、課題になる。
徳川慶喜に倣って各藩も領地を天皇に返してはどうか、などの意見が出る。中央権力が維新政府に移った以上、土地(版)と人民(籍)も天皇に奉還するべきであるとの考えにより「王土王民論」が語られる。
こうした提案は、中央政府の有力者のみならず、各藩の藩主からも提起される。藩主の威信は低下したから、封土をいったん天皇に還し、改めて天皇の権威によって身分保障を得たいとの考えに立つ。
そうしたなか、維新政府の樹立を中心的に進めた「薩長土肥」の四藩を代表する有力者が会談し、諸藩に対し模範を示すためとして決断する。明治2年1月、四藩の旧・藩主が連名によって「版籍奉還」を上表した。
他の藩からも続々と追随する動きが出て、5月までに262藩が版籍奉還を願い出た。2年6月には「天皇がこれらを聞き届ける」との宣言を発して、版籍奉還が実現し、諸藩の土地も天皇のものとなる。出遅れた諸藩の願い出も、明治3年中にすべて提出された。
ここにおいて諸藩の大名は、改めて天皇により任命される「知藩事」となる。政府は諸藩に対し、現時点における総石高や藩士数のほか、物産・人口・戸数・絵図などの報告を求める。これ以降において、藩の石高は江戸時代に決められた表高ではなく、実際の収穫量に応じた「現石高」で表すことに。これには種々の物産の生産高なども、換算して合算する。
知藩事は「華族」となり、本籍を東京へ移して、明治2年9月までに帰京するよう求められる。現石高の10分の1を家禄として与えられたから、不満のありようがない。世襲を認めないとされたが、実際に世襲を拒否された例はなかったとされる。
藩の家臣については[上級家臣は士族/足軽など下級家臣は卒族]とされ、従来どおり各藩に属したから、知藩事との主従関係が形式的に無くなる。各藩の家禄合計は現石高の10分の1を超えないこととされたので、藩によっては士・卒の家禄を、画一的に平均化したり10分の1にしたりする動きもあった。これには当然ながら、反発も出る。
版籍奉還にともない、政府は3年9月に「藩制」を公布し、藩政改革を指示する。各藩に陸海軍の軍事費を割り当て、さらに職員数と俸禄の是正、累積債務の償還、藩札の回収などを命じた。当時の藩は、平均すると年間収入額の3倍に及ぶ借金を抱えたとされるから、対応できた藩はほとんどなかったであろう。
そこで中小の藩のなかから、財政が立ち行かないことを理由に廃藩を願い出て、近隣の大藩や大県に併合されるものが出る。明治2年12月、群馬の吉井藩が岩鼻県に、河内の狭山藩が堺県に合併される。3年7月に盛岡藩が廃されて盛岡県となり、10月には長岡藩が柏崎県に合併されるなどと続いた。かくして廃藩置県が断行される明治4年7月までの間に、17の藩と武家が消滅した。
これには四国で二藩が含まれた。京極高典が申し出て、4年2月に多度津藩が倉敷県に合併され消滅する。表高が1万石のところ、現石高は7400石であった。また京極朗徹が申し出て、4年4月に丸亀藩が丸亀県となり政府直轄地となる。表高が51,512石のところ、現石高は33,120石であった。
明治3年には、阿波・因幡・肥後・尾張など有力藩の知事からも、辞職願が出されたという。版籍奉還が行われても、旧大名家とその家臣団によって実質的統治が行われているから「府藩県制」のもとでも、混乱が続く。
そのいっぽう従来の「藩」のほとんどが存続しているから、当時の地方組織として、府・藩・県の三つが混在した。これを「府藩県三治制」と呼ぶ。
中央政府に属する地域とそうでない地域があるのは、不自然であり、対外的にも説明しにくい。また現在の大阪市八尾市域には、河内県のほか、淀・郡山・狭山などの藩領がモザイク状に混在したといい、複雑ともなった。
中央政府が財政や外交問題に対処するにおいて、地方統制が斉一的でないことが弱点であると認識される。そこで「府・藩・県の三治一致」をどう図るかが、課題になる。
徳川慶喜に倣って各藩も領地を天皇に返してはどうか、などの意見が出る。中央権力が維新政府に移った以上、土地(版)と人民(籍)も天皇に奉還するべきであるとの考えにより「王土王民論」が語られる。
こうした提案は、中央政府の有力者のみならず、各藩の藩主からも提起される。藩主の威信は低下したから、封土をいったん天皇に還し、改めて天皇の権威によって身分保障を得たいとの考えに立つ。
そうしたなか、維新政府の樹立を中心的に進めた「薩長土肥」の四藩を代表する有力者が会談し、諸藩に対し模範を示すためとして決断する。明治2年1月、四藩の旧・藩主が連名によって「版籍奉還」を上表した。
他の藩からも続々と追随する動きが出て、5月までに262藩が版籍奉還を願い出た。2年6月には「天皇がこれらを聞き届ける」との宣言を発して、版籍奉還が実現し、諸藩の土地も天皇のものとなる。出遅れた諸藩の願い出も、明治3年中にすべて提出された。
ここにおいて諸藩の大名は、改めて天皇により任命される「知藩事」となる。政府は諸藩に対し、現時点における総石高や藩士数のほか、物産・人口・戸数・絵図などの報告を求める。これ以降において、藩の石高は江戸時代に決められた表高ではなく、実際の収穫量に応じた「現石高」で表すことに。これには種々の物産の生産高なども、換算して合算する。
知藩事は「華族」となり、本籍を東京へ移して、明治2年9月までに帰京するよう求められる。現石高の10分の1を家禄として与えられたから、不満のありようがない。世襲を認めないとされたが、実際に世襲を拒否された例はなかったとされる。
藩の家臣については[上級家臣は士族/足軽など下級家臣は卒族]とされ、従来どおり各藩に属したから、知藩事との主従関係が形式的に無くなる。各藩の家禄合計は現石高の10分の1を超えないこととされたので、藩によっては士・卒の家禄を、画一的に平均化したり10分の1にしたりする動きもあった。これには当然ながら、反発も出る。
版籍奉還にともない、政府は3年9月に「藩制」を公布し、藩政改革を指示する。各藩に陸海軍の軍事費を割り当て、さらに職員数と俸禄の是正、累積債務の償還、藩札の回収などを命じた。当時の藩は、平均すると年間収入額の3倍に及ぶ借金を抱えたとされるから、対応できた藩はほとんどなかったであろう。
そこで中小の藩のなかから、財政が立ち行かないことを理由に廃藩を願い出て、近隣の大藩や大県に併合されるものが出る。明治2年12月、群馬の吉井藩が岩鼻県に、河内の狭山藩が堺県に合併される。3年7月に盛岡藩が廃されて盛岡県となり、10月には長岡藩が柏崎県に合併されるなどと続いた。かくして廃藩置県が断行される明治4年7月までの間に、17の藩と武家が消滅した。
これには四国で二藩が含まれた。京極高典が申し出て、4年2月に多度津藩が倉敷県に合併され消滅する。表高が1万石のところ、現石高は7400石であった。また京極朗徹が申し出て、4年4月に丸亀藩が丸亀県となり政府直轄地となる。表高が51,512石のところ、現石高は33,120石であった。
明治3年には、阿波・因幡・肥後・尾張など有力藩の知事からも、辞職願が出されたという。版籍奉還が行われても、旧大名家とその家臣団によって実質的統治が行われているから「府藩県制」のもとでも、混乱が続く。
問題山積の維新政府
ところで明治2(1869)年ともなれば、維新政府も仕事に取り掛からなければならない。しかし山積する問題は多種かつ膨大で、どこからどう手をつければいいのか分からないほど。(以下、年号は主として元号表記を用いて、多くの場合に「明治」の表記を省略し、西暦表記を補助的とする)
まず「財政問題」が深刻である。戊辰戦争に多額の戦費を要したこともあり、維新政府の財政は立ち行かない。発足当初の財政収入は、徳川慶喜に辞官納地させた幕府領のほか、かつての旗本領・公家領・寺社領などがあり、加えて戊辰戦争の結果、東北諸藩から没収した土地があった。
これらの石高を合計すると860万石程度で、全国は3,000万石とされたから、残りの2100万石余は、従来通り諸藩の領有のままである。年貢によって政府の歳入となるのは、石高の4割程度と推定されるから、政府の歳入は350万石程度である。
これでは政府の台所を賄えない。そこで大商人や大神社などに献金を命じたり、豪商から借上げたりした。讃岐の金刀比羅宮も土佐藩から命じられ、明治元年に1000両を献金した。(写真はそのことを記す「金刀比羅宮史料」、榊原収氏の提供)
政府は和紙で作った「太政官札」を発行するが、多量に発行すれば価値が下がってしまう。諸藩も財源不足で、収入は年貢のほか、藩内で産出する農工品の販売に頼るしかない。もはや藩札発行は不可能だし、地元商人からの調達や借上げもできない。
「対外問題」でも、緊急に対応すべき諸課題に直面した。1866年5月に諸外国と締結した「改税約書」によって、輸入品の大部分につき、税率が5%に引き下げられる。これにより関税自主権を有しなかったことが認識され、不平等条約の改定が喫緊の課題となる。
しかし在日する外国代表団は万事において強硬である。幕末に横浜に駐屯する英仏軍は、要請しても撤収せず、撤退したのは明治8年である。折からロシアは、樺太への進出を進めている。朝鮮国に対して開国を勧めるが、国書の不受理政策を墨守し、これから一歩も出ようとしない。
諸外国と渡り合って交渉するには、欧米に倣って中央集権体制を構築し、国内の世論を背景に国を挙げて打開を図るよりない。そこで政府は、明治2年4月に各藩・各界の代表者からなる「公議所」を開設し、国の主張の糾合をめざす。ところがこの場において、維新政府と諸藩は意見が対立し、紛糾するばかり。
さらに中央集権体制を進めるに当たっての課題に「兵員問題」があった。薩摩・長州・土佐の三藩では、戊辰戦争で活躍した藩兵が多数残っており、これが財政負担となるうえに、処遇上の問題が浮上した。
長州藩においては、諸部隊を解散しようとしたところ、明治2年末に脱退騒動を誘発し、反乱を指導する者らが近隣の諸藩に逃亡し、維新政府に反対を唱える不満分子と結びつくことが起こる。
薩摩藩の藩兵は、西郷隆盛が指導するところであるが、維新政府の方針に不満を表明して、明治3年9月に在京部隊をすべて薩摩へ引き揚げてしまう。そこで12月、岩倉具視が薩摩に赴き、薩・長・土の三藩の藩兵を上京させる構想を説く。
藩の財政負担が減ることでもあるから異論はなく、三藩の合意が得られて、8000人ほどの規模で成る「三藩親兵」が組織され、皇居の警護に当たることに。明治4年春には兵員の東京終結が始まり、ここに中央政府が支配下に置く軍事力が生まれ、反・政府的な動きがあっても、対応できる体制が整う。明治5年、これら兵員は近衛兵と改称された。
このほかにも、教育・殖産・医療・電信・輸送を初め、政府が緊急に取り組み、確立・整備すべき課題は山積である。しかし本稿では、四国に焦点を当てつつ日本の歴史をたどるとの趣旨から、次項以下では、とりあえず維新政府の「地方統制」の取り組み状況について、話を進める。
まず「財政問題」が深刻である。戊辰戦争に多額の戦費を要したこともあり、維新政府の財政は立ち行かない。発足当初の財政収入は、徳川慶喜に辞官納地させた幕府領のほか、かつての旗本領・公家領・寺社領などがあり、加えて戊辰戦争の結果、東北諸藩から没収した土地があった。
これらの石高を合計すると860万石程度で、全国は3,000万石とされたから、残りの2100万石余は、従来通り諸藩の領有のままである。年貢によって政府の歳入となるのは、石高の4割程度と推定されるから、政府の歳入は350万石程度である。
これでは政府の台所を賄えない。そこで大商人や大神社などに献金を命じたり、豪商から借上げたりした。讃岐の金刀比羅宮も土佐藩から命じられ、明治元年に1000両を献金した。(写真はそのことを記す「金刀比羅宮史料」、榊原収氏の提供)
政府は和紙で作った「太政官札」を発行するが、多量に発行すれば価値が下がってしまう。諸藩も財源不足で、収入は年貢のほか、藩内で産出する農工品の販売に頼るしかない。もはや藩札発行は不可能だし、地元商人からの調達や借上げもできない。
「対外問題」でも、緊急に対応すべき諸課題に直面した。1866年5月に諸外国と締結した「改税約書」によって、輸入品の大部分につき、税率が5%に引き下げられる。これにより関税自主権を有しなかったことが認識され、不平等条約の改定が喫緊の課題となる。
しかし在日する外国代表団は万事において強硬である。幕末に横浜に駐屯する英仏軍は、要請しても撤収せず、撤退したのは明治8年である。折からロシアは、樺太への進出を進めている。朝鮮国に対して開国を勧めるが、国書の不受理政策を墨守し、これから一歩も出ようとしない。
諸外国と渡り合って交渉するには、欧米に倣って中央集権体制を構築し、国内の世論を背景に国を挙げて打開を図るよりない。そこで政府は、明治2年4月に各藩・各界の代表者からなる「公議所」を開設し、国の主張の糾合をめざす。ところがこの場において、維新政府と諸藩は意見が対立し、紛糾するばかり。
さらに中央集権体制を進めるに当たっての課題に「兵員問題」があった。薩摩・長州・土佐の三藩では、戊辰戦争で活躍した藩兵が多数残っており、これが財政負担となるうえに、処遇上の問題が浮上した。
長州藩においては、諸部隊を解散しようとしたところ、明治2年末に脱退騒動を誘発し、反乱を指導する者らが近隣の諸藩に逃亡し、維新政府に反対を唱える不満分子と結びつくことが起こる。
薩摩藩の藩兵は、西郷隆盛が指導するところであるが、維新政府の方針に不満を表明して、明治3年9月に在京部隊をすべて薩摩へ引き揚げてしまう。そこで12月、岩倉具視が薩摩に赴き、薩・長・土の三藩の藩兵を上京させる構想を説く。
藩の財政負担が減ることでもあるから異論はなく、三藩の合意が得られて、8000人ほどの規模で成る「三藩親兵」が組織され、皇居の警護に当たることに。明治4年春には兵員の東京終結が始まり、ここに中央政府が支配下に置く軍事力が生まれ、反・政府的な動きがあっても、対応できる体制が整う。明治5年、これら兵員は近衛兵と改称された。
このほかにも、教育・殖産・医療・電信・輸送を初め、政府が緊急に取り組み、確立・整備すべき課題は山積である。しかし本稿では、四国に焦点を当てつつ日本の歴史をたどるとの趣旨から、次項以下では、とりあえず維新政府の「地方統制」の取り組み状況について、話を進める。
維新直後の四国
明治維新は日本に近代の幕を開け、近世とされる江戸時代を終わらせた。無血革命とされるが「戊辰戦争」と呼ぶ内戦もあり、これが天下の帰趨を決め、政治構造を大きく転換させる。それぞれの地域において社会騒擾があり、時代変革の記憶が明確に刻まれた。
近畿では「鳥羽・伏見の戦い」があり、中部日本を討幕軍が縦断し、関東で上野戦争があり、東北では奥羽越列藩同盟が結成されて悲劇的な戦闘もあった。さらに戦火は北海道に及んで、箱館戦争があった。このように戦争の惨禍が現実化し、勝利した討幕軍は東北諸藩などに大幅な減封や他地域への転封を命じたから、直接的な混乱や苦難の経験があった。
しかし四国では、高松・松山両藩の城受け取りに土佐藩兵その他が進軍するなどしたが、激しい戦闘はなかった。そのためか、積極的・主体的に「明治維新」に取り組んだ土佐国を除き、その他の四国域では時代変革を象徴するような騒動があった。大きな変革があったとき、副作用のように、何らかの事変が起こるものであろうか。
明治2(1869)年9月、高松藩の軍務局に属する14名が、家老職の松崎渋右衛門を高松城内の桜馬場で襲撃して、斬殺した。「松崎渋右衛門殺害事件」と呼ばれる事件で、原因としては、戊辰戦争時の責任をとり切腹した家老二人の遺族の扱いに対する不満が、藩内で高まったためとの説がある。(写真は、現代の桜馬場)
松崎は勤皇派の人物として知られ、榎井に居住した日柳燕石とも交流があった。1865年2月、藩内における対立から投獄されるが、高松藩が朝敵とされるに及んで出獄した。藩主・松平頼聡が藩政から退いた後は、高松藩の家老職に就いて、新政府との交渉に当たった。
藩が松崎の死を自殺と届け出たのを、松崎と親しかった維新政府の要人に暴かれ、露顕する。高松藩の14名は死罪、これを含め86名が断罪された。4年7月、前藩主でこのとき知藩事であった松平頼聡も、政府に対し虚偽の報告をしたとして、閉門40日を命じられる。
明治3年5月、徳島藩では「稲田騒動(庚午事変)」が起こる。維新政府は諸藩に対する横並びの処置として、徳島藩主・蜂須賀茂韶(もちあき)を知藩事に、上級家臣を士族に、下級家臣を卒族とした。
これに対し徳島藩で淡路島を管轄する稲田家が、猛然と異議を申し立て「稲田家の当主を知藩事に、家臣全員を士族に」と要求する。幕末期において、徳島本藩の藩主が幕府将軍の子息であるから、尊王の立場では動けない分、稲田家が代わって勤皇側で活躍した。これが徳島藩を利したとの自負があるし、戊辰戦争の現場では稲田家のことが他藩から「稲田藩」と呼ばれた。
維新政府は他藩との横並びからこの要求を認めないが、稲田家はあくまでも要求を取り下げない。このことが徳島本藩の藩士らの怒りに火をつけ、3年5月に洲本の稲田家を襲う。洲本藩士らは抵抗しなかったが、屋敷は全焼し、15名が戦死した。
政権の発足当初の騒動であったため、これに維新政府がきびしく対処する。首謀した本藩藩士10名を打首に(後には腹に変更)、26名は八丈島へ流罪などに処した。
稲田家に対しては新しく藩を立てるという趣旨であろうか、北海道に新天地を与えて移住を命じ、かつての稲田家の知行高である1.4万石の現米を与える。稲田家の550人ほどが北海道へ移住するが、後続の一隊は紀州沖で海難事故に遭って、移住を取り止めた。
愛媛県では、明治3年の3~5月の間に、南予の宇和島を中心に「村方騒動」が頻発した。野村・三間郷・津島郷・青石郷・三崎浦などにおいて、貧農らが中心となり「御一新」「世直し」を旗印に、徒党を組んで蜂起した。
物価騰貴や商人の買い占めを理由に、年貢減免や庄屋の非法・罷免を訴えるが、叶わない。維新政府は自分らの期待にそぐわないとを考えたか、庄屋や豪商へ押しかけ、強訴した。(このころ富山・長野・新潟などでも、同じような年貢減免などを訴える農民一揆があった)
なお、伊予国において幕府領であった宇摩・新居両郡の23カ村には、戊辰戦争時に土佐藩兵が進駐し、川之江に民政局を置いた。土佐藩は別子銅山への経営関与を求めたが、維新政府は許さなかった。
明治4年7月、丸亀藩では旧藩士から維新政府の官吏となった土肥大作が襲撃され、負傷する「五十人組事件」があった。
昌平黌に学んだ大作は、尊王攘夷派の志士とも交流があり、藩内を勤皇派にまとめようとするが、1866年に放火の疑いで幽閉される。しかし68年に丸亀藩に高松藩討伐の命令が出されると幽閉を解かれ、討伐軍の参謀を務めた。
維新後は新政府へ出仕し、廃藩置県に向けて丸亀藩の藩債整理などを行った。そのとき家禄の大幅削減に不満をもつ旧・丸亀藩士の50人ほどに、襲撃される。大作はこれに応戦し、民部省に届け出て進退を伺うが「伺うに及ばない」との返答がある。
明治5年、大作は、新治県(現・群馬県)へ参事として赴任するが、その旅の途次に自死した。時代の転換によって、境遇や人間関係が激変したことに、堪えられなかったのか。
近畿では「鳥羽・伏見の戦い」があり、中部日本を討幕軍が縦断し、関東で上野戦争があり、東北では奥羽越列藩同盟が結成されて悲劇的な戦闘もあった。さらに戦火は北海道に及んで、箱館戦争があった。このように戦争の惨禍が現実化し、勝利した討幕軍は東北諸藩などに大幅な減封や他地域への転封を命じたから、直接的な混乱や苦難の経験があった。
しかし四国では、高松・松山両藩の城受け取りに土佐藩兵その他が進軍するなどしたが、激しい戦闘はなかった。そのためか、積極的・主体的に「明治維新」に取り組んだ土佐国を除き、その他の四国域では時代変革を象徴するような騒動があった。大きな変革があったとき、副作用のように、何らかの事変が起こるものであろうか。
明治2(1869)年9月、高松藩の軍務局に属する14名が、家老職の松崎渋右衛門を高松城内の桜馬場で襲撃して、斬殺した。「松崎渋右衛門殺害事件」と呼ばれる事件で、原因としては、戊辰戦争時の責任をとり切腹した家老二人の遺族の扱いに対する不満が、藩内で高まったためとの説がある。(写真は、現代の桜馬場)
松崎は勤皇派の人物として知られ、榎井に居住した日柳燕石とも交流があった。1865年2月、藩内における対立から投獄されるが、高松藩が朝敵とされるに及んで出獄した。藩主・松平頼聡が藩政から退いた後は、高松藩の家老職に就いて、新政府との交渉に当たった。
藩が松崎の死を自殺と届け出たのを、松崎と親しかった維新政府の要人に暴かれ、露顕する。高松藩の14名は死罪、これを含め86名が断罪された。4年7月、前藩主でこのとき知藩事であった松平頼聡も、政府に対し虚偽の報告をしたとして、閉門40日を命じられる。
明治3年5月、徳島藩では「稲田騒動(庚午事変)」が起こる。維新政府は諸藩に対する横並びの処置として、徳島藩主・蜂須賀茂韶(もちあき)を知藩事に、上級家臣を士族に、下級家臣を卒族とした。
これに対し徳島藩で淡路島を管轄する稲田家が、猛然と異議を申し立て「稲田家の当主を知藩事に、家臣全員を士族に」と要求する。幕末期において、徳島本藩の藩主が幕府将軍の子息であるから、尊王の立場では動けない分、稲田家が代わって勤皇側で活躍した。これが徳島藩を利したとの自負があるし、戊辰戦争の現場では稲田家のことが他藩から「稲田藩」と呼ばれた。
維新政府は他藩との横並びからこの要求を認めないが、稲田家はあくまでも要求を取り下げない。このことが徳島本藩の藩士らの怒りに火をつけ、3年5月に洲本の稲田家を襲う。洲本藩士らは抵抗しなかったが、屋敷は全焼し、15名が戦死した。
政権の発足当初の騒動であったため、これに維新政府がきびしく対処する。首謀した本藩藩士10名を打首に(後には腹に変更)、26名は八丈島へ流罪などに処した。
稲田家に対しては新しく藩を立てるという趣旨であろうか、北海道に新天地を与えて移住を命じ、かつての稲田家の知行高である1.4万石の現米を与える。稲田家の550人ほどが北海道へ移住するが、後続の一隊は紀州沖で海難事故に遭って、移住を取り止めた。
愛媛県では、明治3年の3~5月の間に、南予の宇和島を中心に「村方騒動」が頻発した。野村・三間郷・津島郷・青石郷・三崎浦などにおいて、貧農らが中心となり「御一新」「世直し」を旗印に、徒党を組んで蜂起した。
物価騰貴や商人の買い占めを理由に、年貢減免や庄屋の非法・罷免を訴えるが、叶わない。維新政府は自分らの期待にそぐわないとを考えたか、庄屋や豪商へ押しかけ、強訴した。(このころ富山・長野・新潟などでも、同じような年貢減免などを訴える農民一揆があった)
なお、伊予国において幕府領であった宇摩・新居両郡の23カ村には、戊辰戦争時に土佐藩兵が進駐し、川之江に民政局を置いた。土佐藩は別子銅山への経営関与を求めたが、維新政府は許さなかった。
明治4年7月、丸亀藩では旧藩士から維新政府の官吏となった土肥大作が襲撃され、負傷する「五十人組事件」があった。
昌平黌に学んだ大作は、尊王攘夷派の志士とも交流があり、藩内を勤皇派にまとめようとするが、1866年に放火の疑いで幽閉される。しかし68年に丸亀藩に高松藩討伐の命令が出されると幽閉を解かれ、討伐軍の参謀を務めた。
維新後は新政府へ出仕し、廃藩置県に向けて丸亀藩の藩債整理などを行った。そのとき家禄の大幅削減に不満をもつ旧・丸亀藩士の50人ほどに、襲撃される。大作はこれに応戦し、民部省に届け出て進退を伺うが「伺うに及ばない」との返答がある。
明治5年、大作は、新治県(現・群馬県)へ参事として赴任するが、その旅の途次に自死した。時代の転換によって、境遇や人間関係が激変したことに、堪えられなかったのか。
明治維新
あらかじめ誰がどこまでを予期していたのであろうか。次のような手順で新政府が樹立される。
① 1867(慶応3)年10月3日、土佐藩主・山内容堂は、公儀政体の設立をめざし、将軍・徳川慶喜に「大政奉還建白書」を提出する。続いて広島藩主・浅野茂長(もちなが)も、類似の建議を行う。併行して薩摩・長州・広島の3藩は、慶喜が大政奉還を受け入れないことを見越して、政体変革のための共同出兵に合意する。
しかし慶喜は提案を受け入れ、67年10月14日に「大政奉還」の上表を朝廷に提出し、10日後に将軍職の辞職も願い出た。慶喜は、西周にヨーロッパ諸国の政体を研究させており、その後の政体において力を振う構想を抱いていたのであろう。
② 概念的に無政府状態が現出したところで、歴史の流れが急変する。1867年12月9日、薩摩・土佐・尾張・広島・越前の5藩の藩兵が御所を封鎖し、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・岩倉具視ら数人が策謀し「王政復古」のクーデターを起こす。
摂関制と幕府制の2つの政体を廃し、天皇のもとに太政官を置いて新政権の樹立を宣言する。太政官に総裁・議定・参与の三職を設け、総裁に皇族の有栖川宮、議定に公家のほか、先の5藩の藩主を任命する。参与には岩倉具視らの公家のほか、5藩から3名ずつを任命し、西郷・大久保・後藤象二郎らの就任を予定した。
③ 12月9日夜の小御所会議において、一会桑を構成した京都守護職(松平容保)と京都所司代(松平定敬)の職が廃される。慶喜の辞官納地(内大臣辞職と徳川領の返上)については山内容堂と岩倉具視の間で激論が交わされる。
京には、薩摩・長州・広島の藩兵に対峙して、会津・桑名ほかの藩兵が満ちている。一触即発の状態を避けて人心が収まるまでとして、12日に慶喜と幕府・会桑軍は大坂城へ移る。
④ 京の政治情勢は一枚岩ではない。薩摩藩の強引さへの批判も強く、土佐・広島の両藩は京都南郊への派兵に応じない。松平春嶽と山内容堂が巻き返して、慶喜が太政官の議定職に就くことがほぼ決まった、との報が大坂に届く。
1868(慶応4)年1月2日、慶喜が上洛する前触れとして、大坂にいた幕府・会桑軍が京へ向かう。3日、これに薩摩軍が発砲して、戦端が開かれ「鳥羽・伏見の戦い」となる。「社会に覚醒をもたらすには大きなイベントが必要である」とのシナリオに沿った動きが現実化する。
⑤ 慶喜に従うのは、幕府・会桑軍のほか、高松・松山・大垣・津藩から寄せ集めの藩兵である。数には勝るものの、政権奪取に燃える薩長軍のような必死さはない。4日午後に「錦旗」が翻り、幕府軍の戦意がくじかれる。津の藤堂藩が寝返ったことによって、薩長軍が優勢となり、天下の帰趨が決まる。(そういえば関が原合戦の前にも、藤堂高虎が秀吉の死後、いち早く徳川方に転じて豊臣政権を弱体化させた)
慶喜は6日夜に大坂城を脱し、海軍の旗艦で江戸へ戻る。ひたすら恭順の意を示したことによって戦争被害が最小限に留まるが、慶喜の本心はどこにあったのか。慶喜が早くから馴染んだ水戸学が、尊王を基本としたことが、意思決定に影響を与えたと推察される。ただし京で発足した新政府(以下、維新政府という)は、ここぞとばかりに慶喜追悼令を発し、長州兵が大坂城を接収する。
⑥ 維新政府は対外和親を布告し、各国公使に王政復古を通達し、政権の正統性を宣言する。欧米諸国には「万国普通の公法」をもって対応し、従来の対外条約を遵守すると言明した。
1868年2月、維新政府は機構を定め、各国公使と謁見する。3月に「五カ条の御誓文」を発し、万世一系の天皇が日本国の主宰者として朝野に権威を持つこと、広く意見を聞いて万機公論に決することなどを宣言した。
⑦ 西日本の各地へは、1~2月に鎮撫・追悼総督として、天皇の代理人である公家を派遣する。4月、江戸城が無血開城される。維新政府は徳川家に駿府70万石を与え徳川家達に家督相続を認めるが、ほかの幕府領は接収して政府の直轄地とし、府と県を置く。
⑧ 4月、英公使から天皇に対し英女王の信任状を呈され、国際的認知を得る。(諸外国はこれまで表向き局外中立を宣言したが、イギリス公使は実質的に薩長方を応援した)
維新政府は諸藩の大名に対し、幕府から与えられた「領地宛行状」を回収するよう命じた。(ただし完全には回収できなかったとされる)
⑨ 5月、江戸の上野戦争で、政府軍が勝利する。ただし東北・越後方面の円滑な制圧には失敗し、5月に奥羽25藩が参加して「奥羽列藩同盟」が結ばれ、これに越後6藩も加わる。戦火は東日本の各地に及び、長岡城・白河城・二本松城・会津城などで激しい戦闘があったが、9月には終結した。
9月、維新政府は「明治」と改元し「一世一元の制」を定める。天皇は京を出立し、ゆるゆると巡幸して、10月に東京(7月に江戸から改称)へ到着した。
⑩ 12月、榎本武揚や土方歳三など、旧・幕府勢力の一部が北海道に渡り、五稜郭に籠る。1869(明治2)年5月、五稜郭が開城し、箱館戦争が終わった。
① 1867(慶応3)年10月3日、土佐藩主・山内容堂は、公儀政体の設立をめざし、将軍・徳川慶喜に「大政奉還建白書」を提出する。続いて広島藩主・浅野茂長(もちなが)も、類似の建議を行う。併行して薩摩・長州・広島の3藩は、慶喜が大政奉還を受け入れないことを見越して、政体変革のための共同出兵に合意する。
しかし慶喜は提案を受け入れ、67年10月14日に「大政奉還」の上表を朝廷に提出し、10日後に将軍職の辞職も願い出た。慶喜は、西周にヨーロッパ諸国の政体を研究させており、その後の政体において力を振う構想を抱いていたのであろう。
② 概念的に無政府状態が現出したところで、歴史の流れが急変する。1867年12月9日、薩摩・土佐・尾張・広島・越前の5藩の藩兵が御所を封鎖し、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・岩倉具視ら数人が策謀し「王政復古」のクーデターを起こす。
摂関制と幕府制の2つの政体を廃し、天皇のもとに太政官を置いて新政権の樹立を宣言する。太政官に総裁・議定・参与の三職を設け、総裁に皇族の有栖川宮、議定に公家のほか、先の5藩の藩主を任命する。参与には岩倉具視らの公家のほか、5藩から3名ずつを任命し、西郷・大久保・後藤象二郎らの就任を予定した。
③ 12月9日夜の小御所会議において、一会桑を構成した京都守護職(松平容保)と京都所司代(松平定敬)の職が廃される。慶喜の辞官納地(内大臣辞職と徳川領の返上)については山内容堂と岩倉具視の間で激論が交わされる。
京には、薩摩・長州・広島の藩兵に対峙して、会津・桑名ほかの藩兵が満ちている。一触即発の状態を避けて人心が収まるまでとして、12日に慶喜と幕府・会桑軍は大坂城へ移る。
④ 京の政治情勢は一枚岩ではない。薩摩藩の強引さへの批判も強く、土佐・広島の両藩は京都南郊への派兵に応じない。松平春嶽と山内容堂が巻き返して、慶喜が太政官の議定職に就くことがほぼ決まった、との報が大坂に届く。
1868(慶応4)年1月2日、慶喜が上洛する前触れとして、大坂にいた幕府・会桑軍が京へ向かう。3日、これに薩摩軍が発砲して、戦端が開かれ「鳥羽・伏見の戦い」となる。「社会に覚醒をもたらすには大きなイベントが必要である」とのシナリオに沿った動きが現実化する。
⑤ 慶喜に従うのは、幕府・会桑軍のほか、高松・松山・大垣・津藩から寄せ集めの藩兵である。数には勝るものの、政権奪取に燃える薩長軍のような必死さはない。4日午後に「錦旗」が翻り、幕府軍の戦意がくじかれる。津の藤堂藩が寝返ったことによって、薩長軍が優勢となり、天下の帰趨が決まる。(そういえば関が原合戦の前にも、藤堂高虎が秀吉の死後、いち早く徳川方に転じて豊臣政権を弱体化させた)
慶喜は6日夜に大坂城を脱し、海軍の旗艦で江戸へ戻る。ひたすら恭順の意を示したことによって戦争被害が最小限に留まるが、慶喜の本心はどこにあったのか。慶喜が早くから馴染んだ水戸学が、尊王を基本としたことが、意思決定に影響を与えたと推察される。ただし京で発足した新政府(以下、維新政府という)は、ここぞとばかりに慶喜追悼令を発し、長州兵が大坂城を接収する。
⑥ 維新政府は対外和親を布告し、各国公使に王政復古を通達し、政権の正統性を宣言する。欧米諸国には「万国普通の公法」をもって対応し、従来の対外条約を遵守すると言明した。
1868年2月、維新政府は機構を定め、各国公使と謁見する。3月に「五カ条の御誓文」を発し、万世一系の天皇が日本国の主宰者として朝野に権威を持つこと、広く意見を聞いて万機公論に決することなどを宣言した。
⑦ 西日本の各地へは、1~2月に鎮撫・追悼総督として、天皇の代理人である公家を派遣する。4月、江戸城が無血開城される。維新政府は徳川家に駿府70万石を与え徳川家達に家督相続を認めるが、ほかの幕府領は接収して政府の直轄地とし、府と県を置く。
⑧ 4月、英公使から天皇に対し英女王の信任状を呈され、国際的認知を得る。(諸外国はこれまで表向き局外中立を宣言したが、イギリス公使は実質的に薩長方を応援した)
維新政府は諸藩の大名に対し、幕府から与えられた「領地宛行状」を回収するよう命じた。(ただし完全には回収できなかったとされる)
⑨ 5月、江戸の上野戦争で、政府軍が勝利する。ただし東北・越後方面の円滑な制圧には失敗し、5月に奥羽25藩が参加して「奥羽列藩同盟」が結ばれ、これに越後6藩も加わる。戦火は東日本の各地に及び、長岡城・白河城・二本松城・会津城などで激しい戦闘があったが、9月には終結した。
9月、維新政府は「明治」と改元し「一世一元の制」を定める。天皇は京を出立し、ゆるゆると巡幸して、10月に東京(7月に江戸から改称)へ到着した。
⑩ 12月、榎本武揚や土方歳三など、旧・幕府勢力の一部が北海道に渡り、五稜郭に籠る。1869(明治2)年5月、五稜郭が開城し、箱館戦争が終わった。
四侯会議
1866年12月4日、慶喜は将軍宣下を受け、15代将軍・徳川慶喜となる。30歳である。その直後の12月25日、孝明天皇(36歳)が急逝する(天然痘による病死説のほか毒殺説もある)。67年1月、睦仁親王(のちの明治天皇)が16歳で践祚する。
天皇から自由になった慶喜は、67年3月に大坂城で英蘭仏米の四国代表と謁見し、外交権の掌握を鮮明にする。このとき兵庫開港を確約したとされ、将軍・慶喜が権力に固執する姿に、在京する薩摩藩士の西郷隆盛や大久保利通らは危機感を抱く。一会桑政権のもと、慶喜との応酬では何度も煮え湯を飲まされて、政局の主導権を握れなかった。
慶喜を牽制するため、薩摩藩が主導し、67年4月に「四侯会議」を招集する。四侯とは、松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・島津久光の四名である。阿部正弘が老中首座であったとき(1845-55年)、雄藩を代表して幕政に意見を述べて「四賢侯」と呼ばれたが、その後に薩摩藩主の島津斉彬が没したので、異母弟の島津久光に代わった。
四侯会議の主題は、長州藩処分寛典(朝敵とされている長州藩の赦免)と英蘭仏米が迫る兵庫開港につき、勅許を得ることであったが、どちらを先議するかにつき意見が対立する。久永・宗城は長州藩処分寛典を先に論ずべきとし、慶喜は兵庫開港が差し迫った問題であると主張した。春嶽は妥協策として、両案件の勅許奏請を同時に行うことを提案したとされる。
ところがここにおいて、外交権掌握を自認する慶喜が独自の行動に出る。67年5月、摂政のほか、春嶽・宗城も出席する朝議の場において、慶喜が深夜に及ぶ熱弁をふるうことで、兵庫開港の勅許を得てしまう。四侯会議は骨抜きとなって、瓦解した。
幕府創設時以来の経緯によって、四侯はそれぞれに異なった事情を抱えており、それが対立の背景にあった。
松平春嶽(慶永)は、越前藩32万石の藩主である。「御三卿」のひとつの田安家に生まれ、英明で知られ、越前松平家の養子となった。御三卿は8代将軍・吉宗により、将軍の後嗣を出すことを狙いに設けられた家系であり、越前藩の藩祖は家康の次男・結城秀康であるから、2代将軍・秀忠の兄に当たる。春嶽は、徳川家の分身として幕府を支える立場にいながら、それを超える気概を有したであろう。
山内容堂は、土佐藩の藩主である。藩祖の山内一豊は、家康によって掛川6.8万石から土佐20万石(表高)に取り立てられたという、徳川家への「恩顧」の記憶がある。容堂自身も分家から登用されて、将軍家の許しがあってこそ藩主になれた。(外様大名の筑前藩黒田家、肥後藩細川家などにも、同様の恩顧の思いがあったとされる)
伊達宗城(むねなり)は、宇和島伊達藩10万石の藩主である。藩祖の伊達秀宗は、伊達政宗の長男であり、政宗の次男が継いだ仙台伊達本藩への対抗心がある。宗城自身も旗本の山口家から宇和島藩に養子として招かれ、事績を挙げる意気込みがあった。
島津久光は、薩摩藩の10代藩主・島津斉興の五男である。異母兄である島津斉彬と藩主の座を争い、正室の子である斉彬が11代藩主となるが、斉彬が卒すると遺言によって久光の長男の忠義が12代藩主となる。久光は藩主の実父として藩政を後見する立場となり、無位無官ながら「国父」と呼ばれる。遠く薩摩から上洛・参府して国政に意見を述べることがあり、1862年の生麦事件は、久光の行列にイギリス人4名が乗馬で乗り込んできたことにより起こった。
薩摩の島津家と長州の毛利家は、ともに鎌倉時代に歴史に登場した名家であるが、新興の徳川家からは、圧迫された記憶しかない。(安芸藩浅野家も徳川家に対し苦い思いを胚胎していたようで、のちに王政復古のクーデターに参加する)
幕末期にいたって各藩は財政ひっ迫に苦労するが、薩摩藩には琉球貿易によって利益を得た。それにともない貨幣鋳造を許された立場を利して、贋金を造った(天保通宝を250万両私鋳した)という。
当時の政治情勢において、幕府に替わる何らかの「公儀政体」を樹立する必要性が広く認識されつつあったが、諸侯会議も四侯会議も失敗に終わった。これらにおいて雄藩の大名らが大きく譲り合い、慶喜も含めて何らかの妥協に達しておれば、新時代の政体の基盤を醸成できたかも知れない。そうであればその後の歴史は大きく変わり、大名ら自身も権勢を維持する立場に残れたであろう。
しかし新時代の政治主体は、過去をいったん清算する下位からの運動によってしか、作り得ないものであろうか。西郷隆盛や大久保利通など在京する藩士らは、政治の主導権を握ることに邁進して、武力行使も辞さない体制を整える。すでに薩長軍事同盟が結ばれ、岩倉具視など王政復古派の公家との連携もできた。「平公家」と呼ばれ、五摂家に属さない下級公家には、諸藩の大名との縁戚関係などがない。
この気配を察したのか、土佐の後藤象二郎が京に現れる。平和裏に将軍職を廃し、政権を朝廷に返す大政奉還により、新しい公儀政体を樹立することを薩摩藩に説く。薩摩藩は慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、それを機に武力に訴えることを幸便と考えたか、67年6月に「薩土盟約」を結ぶ。
67年8月ごろから東海・関西・四国にかけて「ええじゃないか」を叫び、踊り狂う民衆の姿が広がる。急進派の公家らは67年10月付の「討幕の密勅」(形式が整っておらず偽勅とされる)を用意し、薩・長の両藩主に下す。薩摩藩の陰謀によるのか、10月ごろから江戸で騒擾が頻発し、幕命により12月に庄内藩兵が江戸三田の薩摩藩邸を焼き打ちした。
天皇から自由になった慶喜は、67年3月に大坂城で英蘭仏米の四国代表と謁見し、外交権の掌握を鮮明にする。このとき兵庫開港を確約したとされ、将軍・慶喜が権力に固執する姿に、在京する薩摩藩士の西郷隆盛や大久保利通らは危機感を抱く。一会桑政権のもと、慶喜との応酬では何度も煮え湯を飲まされて、政局の主導権を握れなかった。
慶喜を牽制するため、薩摩藩が主導し、67年4月に「四侯会議」を招集する。四侯とは、松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・島津久光の四名である。阿部正弘が老中首座であったとき(1845-55年)、雄藩を代表して幕政に意見を述べて「四賢侯」と呼ばれたが、その後に薩摩藩主の島津斉彬が没したので、異母弟の島津久光に代わった。
四侯会議の主題は、長州藩処分寛典(朝敵とされている長州藩の赦免)と英蘭仏米が迫る兵庫開港につき、勅許を得ることであったが、どちらを先議するかにつき意見が対立する。久永・宗城は長州藩処分寛典を先に論ずべきとし、慶喜は兵庫開港が差し迫った問題であると主張した。春嶽は妥協策として、両案件の勅許奏請を同時に行うことを提案したとされる。
ところがここにおいて、外交権掌握を自認する慶喜が独自の行動に出る。67年5月、摂政のほか、春嶽・宗城も出席する朝議の場において、慶喜が深夜に及ぶ熱弁をふるうことで、兵庫開港の勅許を得てしまう。四侯会議は骨抜きとなって、瓦解した。
幕府創設時以来の経緯によって、四侯はそれぞれに異なった事情を抱えており、それが対立の背景にあった。
松平春嶽(慶永)は、越前藩32万石の藩主である。「御三卿」のひとつの田安家に生まれ、英明で知られ、越前松平家の養子となった。御三卿は8代将軍・吉宗により、将軍の後嗣を出すことを狙いに設けられた家系であり、越前藩の藩祖は家康の次男・結城秀康であるから、2代将軍・秀忠の兄に当たる。春嶽は、徳川家の分身として幕府を支える立場にいながら、それを超える気概を有したであろう。
山内容堂は、土佐藩の藩主である。藩祖の山内一豊は、家康によって掛川6.8万石から土佐20万石(表高)に取り立てられたという、徳川家への「恩顧」の記憶がある。容堂自身も分家から登用されて、将軍家の許しがあってこそ藩主になれた。(外様大名の筑前藩黒田家、肥後藩細川家などにも、同様の恩顧の思いがあったとされる)
伊達宗城(むねなり)は、宇和島伊達藩10万石の藩主である。藩祖の伊達秀宗は、伊達政宗の長男であり、政宗の次男が継いだ仙台伊達本藩への対抗心がある。宗城自身も旗本の山口家から宇和島藩に養子として招かれ、事績を挙げる意気込みがあった。
島津久光は、薩摩藩の10代藩主・島津斉興の五男である。異母兄である島津斉彬と藩主の座を争い、正室の子である斉彬が11代藩主となるが、斉彬が卒すると遺言によって久光の長男の忠義が12代藩主となる。久光は藩主の実父として藩政を後見する立場となり、無位無官ながら「国父」と呼ばれる。遠く薩摩から上洛・参府して国政に意見を述べることがあり、1862年の生麦事件は、久光の行列にイギリス人4名が乗馬で乗り込んできたことにより起こった。
薩摩の島津家と長州の毛利家は、ともに鎌倉時代に歴史に登場した名家であるが、新興の徳川家からは、圧迫された記憶しかない。(安芸藩浅野家も徳川家に対し苦い思いを胚胎していたようで、のちに王政復古のクーデターに参加する)
幕末期にいたって各藩は財政ひっ迫に苦労するが、薩摩藩には琉球貿易によって利益を得た。それにともない貨幣鋳造を許された立場を利して、贋金を造った(天保通宝を250万両私鋳した)という。
当時の政治情勢において、幕府に替わる何らかの「公儀政体」を樹立する必要性が広く認識されつつあったが、諸侯会議も四侯会議も失敗に終わった。これらにおいて雄藩の大名らが大きく譲り合い、慶喜も含めて何らかの妥協に達しておれば、新時代の政体の基盤を醸成できたかも知れない。そうであればその後の歴史は大きく変わり、大名ら自身も権勢を維持する立場に残れたであろう。
しかし新時代の政治主体は、過去をいったん清算する下位からの運動によってしか、作り得ないものであろうか。西郷隆盛や大久保利通など在京する藩士らは、政治の主導権を握ることに邁進して、武力行使も辞さない体制を整える。すでに薩長軍事同盟が結ばれ、岩倉具視など王政復古派の公家との連携もできた。「平公家」と呼ばれ、五摂家に属さない下級公家には、諸藩の大名との縁戚関係などがない。
この気配を察したのか、土佐の後藤象二郎が京に現れる。平和裏に将軍職を廃し、政権を朝廷に返す大政奉還により、新しい公儀政体を樹立することを薩摩藩に説く。薩摩藩は慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、それを機に武力に訴えることを幸便と考えたか、67年6月に「薩土盟約」を結ぶ。
67年8月ごろから東海・関西・四国にかけて「ええじゃないか」を叫び、踊り狂う民衆の姿が広がる。急進派の公家らは67年10月付の「討幕の密勅」(形式が整っておらず偽勅とされる)を用意し、薩・長の両藩主に下す。薩摩藩の陰謀によるのか、10月ごろから江戸で騒擾が頻発し、幕命により12月に庄内藩兵が江戸三田の薩摩藩邸を焼き打ちした。
長州処分 & 諸侯会議
ときの幕府にとって、幕長戦争で恭順の意を示した長州藩をどう処置するかという課題が残り、これを「長州処分」という。幕府草創期の家康から家光にいたる時代には、諸藩を罰するために、改易や廃藩などの処分を頻発した。ただし8代将軍・吉宗以降は、大名を敵視して改易した例はなく、これをどうするかは重い課題である。
いっぽう、その後の長州藩内では「朝廷や幕府の意に沿って攘夷の行動をしたのだから何も悪いことをしていない」と主張する勢力が次第に優勢となり、内戦状態となる。そのなかで、幕長戦争において「純一恭順」を示した保守派に代わって、「武備恭順」を唱える正義派が優勢となり、高杉晋作などが抗幕の姿勢を強める。
薩摩藩内でも今後の政局を見据え、長州藩という雄藩の力を残しておいた方がいいのではないか、とする考え方が強まる。1865年4月にアメリカの南北戦争が終わり、不用になった最新式の小銃がアジア市場に溢れていた。朝敵とされている長州藩がこれを購入するのは憚れたので、薩摩藩の名目で購入し、長州藩がこれを多量に入手した。
この折を幸便とし、土佐の脱藩浪士である坂本龍馬と中岡慎太郎が仲介し、66年1月21日に「薩長同盟」が秘密裏に締結される。内容は、薩摩・長州両藩が戦時には相互に兵力を融通すること、朝廷に対しては互いに有利な計らいを依頼することなどであり、抗幕を目的とする軍事盟約であった。
「長州処分」について、朝廷・幕府間で妥協が成立し、66年1月22日(つまり薩長同盟の翌日)に勅許が下る。処分案は、当時36万石である長州藩の「10万石削減および藩主父子の蟄居」を内容とし、これを長州藩が受諾すれば、然るべき者に家督相続を認めることとする。
しかし「何も悪くはない」とする正義派が優勢である長州藩は、この処分案を無視する。このため、長州藩を罰する第2次幕長戦争が提起されるが、外国の圧迫が続くなか国内で戦火を交えることへの批判が強く、参加をしぶる藩が少なくない。4月、薩摩藩は(薩長同盟に基づき)長州への出兵を拒否した。
66年6月、幕府軍と21藩の藩兵を合わせた10万人の征長軍が編成され、長州へ向かい、大島口・芸州口(安芸)・石州口(石見)・小倉口の4カ所が戦場となる。これらのうち大島口の周防大島は長州藩の領内であるが、そのほかは領外であり、長州はこの戦いを「四境戦争」と呼ぶ。
「大島口」では、6月7日に幕府軍艦が周防大島を砲撃したことにより、戦端が開かれる。8日には松山藩の先鋒隊1000人が、伊予灘を渡って周防大島の南岸に上陸し、その後、2500人まで増員された。
これに対して15日に、周防大島の奪還をめざし、長州藩の奇兵隊が島の西端に上陸する。双方お激戦となるが、長州藩が装備する(銃身にらせん状の溝がある)エンピール銃が松山藩の(銃身に溝のない)ゲーベル銃より、命中精度や射程で勝れていることは明らかである。劣勢となった松山兵は、17日に興居島へ引揚げた。
この折の戦闘で、松山藩は戦死者12名・負傷者23名を出した。その後、長州藩は松山藩兵が周防大島で民家を焼いたことを問題視する。松山藩は遺憾の意を表して、金150両を献じたが、送り返されてきて、決着しない。
「石州口」では、長州軍が中立の津和野藩を経て、7月に浜田城を陥落させ、石見銀山をも制圧した。民衆は長州軍を支持したという。
「芸州口」が主戦場で、艦砲射撃や小銃を撃ち合い、激戦となる。全体的に見れば征長軍の方が質量ともに勝れていたとされるが、戦線は膠着し、9月に休戦する。
「小倉口」では、現地総督を務めた幕府老中の小笠原長行の作戦・指揮が宜しきを得ず、不満を抱いた肥後藩が7月に無断で撤兵を始め、久留米藩など諸隊も続いた。小倉藩兵は孤軍となりながらよく戦ったが、孤立無援をおそれて、城と城下に火を放って退却した。
その報を聞いて、京にいた慶喜は8月に参陣を取りやめる。将軍・家茂の死去が8月に発表され、これを理由に9月に芸州口と石州口へ、解兵が命じられる。征長戦争が終わり、一つの藩すら制圧できないことが露呈し、幕府の権威は大きく失墜した。
将軍・家茂は、66年7月20日に大坂城で卒した。一橋慶喜はこれまで、徳川宗家の相続は私事であるとして受け入れたが、公事である将軍就任を固辞してきた。このため「将軍空位期」が生まれる。
この事態を打開するため「諸侯会議」の開催が企図され、66年9月に朝命により、24藩の藩主・前藩主・世嗣らに京への招集が命じられた。しかし多くの藩主らは情勢観望を決め込んだのか、実際に上京した藩主は9名に留まった。
彼らは慶喜と面談して、慶喜が将軍宣下を受けること、長州藩に寛大な処分を求めることなどの意見を述べて帰国した。諸侯会議は、政局転換の契機とならなかった。
いっぽう、その後の長州藩内では「朝廷や幕府の意に沿って攘夷の行動をしたのだから何も悪いことをしていない」と主張する勢力が次第に優勢となり、内戦状態となる。そのなかで、幕長戦争において「純一恭順」を示した保守派に代わって、「武備恭順」を唱える正義派が優勢となり、高杉晋作などが抗幕の姿勢を強める。
薩摩藩内でも今後の政局を見据え、長州藩という雄藩の力を残しておいた方がいいのではないか、とする考え方が強まる。1865年4月にアメリカの南北戦争が終わり、不用になった最新式の小銃がアジア市場に溢れていた。朝敵とされている長州藩がこれを購入するのは憚れたので、薩摩藩の名目で購入し、長州藩がこれを多量に入手した。
この折を幸便とし、土佐の脱藩浪士である坂本龍馬と中岡慎太郎が仲介し、66年1月21日に「薩長同盟」が秘密裏に締結される。内容は、薩摩・長州両藩が戦時には相互に兵力を融通すること、朝廷に対しては互いに有利な計らいを依頼することなどであり、抗幕を目的とする軍事盟約であった。
「長州処分」について、朝廷・幕府間で妥協が成立し、66年1月22日(つまり薩長同盟の翌日)に勅許が下る。処分案は、当時36万石である長州藩の「10万石削減および藩主父子の蟄居」を内容とし、これを長州藩が受諾すれば、然るべき者に家督相続を認めることとする。
しかし「何も悪くはない」とする正義派が優勢である長州藩は、この処分案を無視する。このため、長州藩を罰する第2次幕長戦争が提起されるが、外国の圧迫が続くなか国内で戦火を交えることへの批判が強く、参加をしぶる藩が少なくない。4月、薩摩藩は(薩長同盟に基づき)長州への出兵を拒否した。
66年6月、幕府軍と21藩の藩兵を合わせた10万人の征長軍が編成され、長州へ向かい、大島口・芸州口(安芸)・石州口(石見)・小倉口の4カ所が戦場となる。これらのうち大島口の周防大島は長州藩の領内であるが、そのほかは領外であり、長州はこの戦いを「四境戦争」と呼ぶ。
「大島口」では、6月7日に幕府軍艦が周防大島を砲撃したことにより、戦端が開かれる。8日には松山藩の先鋒隊1000人が、伊予灘を渡って周防大島の南岸に上陸し、その後、2500人まで増員された。
これに対して15日に、周防大島の奪還をめざし、長州藩の奇兵隊が島の西端に上陸する。双方お激戦となるが、長州藩が装備する(銃身にらせん状の溝がある)エンピール銃が松山藩の(銃身に溝のない)ゲーベル銃より、命中精度や射程で勝れていることは明らかである。劣勢となった松山兵は、17日に興居島へ引揚げた。
この折の戦闘で、松山藩は戦死者12名・負傷者23名を出した。その後、長州藩は松山藩兵が周防大島で民家を焼いたことを問題視する。松山藩は遺憾の意を表して、金150両を献じたが、送り返されてきて、決着しない。
「石州口」では、長州軍が中立の津和野藩を経て、7月に浜田城を陥落させ、石見銀山をも制圧した。民衆は長州軍を支持したという。
「芸州口」が主戦場で、艦砲射撃や小銃を撃ち合い、激戦となる。全体的に見れば征長軍の方が質量ともに勝れていたとされるが、戦線は膠着し、9月に休戦する。
「小倉口」では、現地総督を務めた幕府老中の小笠原長行の作戦・指揮が宜しきを得ず、不満を抱いた肥後藩が7月に無断で撤兵を始め、久留米藩など諸隊も続いた。小倉藩兵は孤軍となりながらよく戦ったが、孤立無援をおそれて、城と城下に火を放って退却した。
その報を聞いて、京にいた慶喜は8月に参陣を取りやめる。将軍・家茂の死去が8月に発表され、これを理由に9月に芸州口と石州口へ、解兵が命じられる。征長戦争が終わり、一つの藩すら制圧できないことが露呈し、幕府の権威は大きく失墜した。
将軍・家茂は、66年7月20日に大坂城で卒した。一橋慶喜はこれまで、徳川宗家の相続は私事であるとして受け入れたが、公事である将軍就任を固辞してきた。このため「将軍空位期」が生まれる。
この事態を打開するため「諸侯会議」の開催が企図され、66年9月に朝命により、24藩の藩主・前藩主・世嗣らに京への招集が命じられた。しかし多くの藩主らは情勢観望を決め込んだのか、実際に上京した藩主は9名に留まった。
彼らは慶喜と面談して、慶喜が将軍宣下を受けること、長州藩に寛大な処分を求めることなどの意見を述べて帰国した。諸侯会議は、政局転換の契機とならなかった。
一会桑勢力(政権)
1864年3月、将軍・家茂が19歳に達したので、一橋慶喜は将軍後見職を辞し、新設の禁裏守衛総督に任命される。会津藩主・松平容保は62年閏8月に京都守護職になっており、64年4月には容保の実弟である桑名藩主・松平定敬が、京都所司代に任命される。
ここに一橋慶喜・会津藩主・桑名藩主が京に揃い、三者が協調して「一会桑(いちかいそう)」と呼ぶ体制の素地が整う。欧米諸国から開国を迫られ、国内では攘夷派と現実対応派の対立が続くなか、この体制がしばらく政局を動かすことに。
1864年6月、京都河原町の長州藩の定宿である「池田屋」に、長州・土佐・肥後など諸藩出身の尊王攘夷派の志士が集まっていた。これを新選組隊士と会津藩兵が襲撃して、約30名が落命しあるいは捕縛された。これを「池田屋事件」という。
くわえて63年5月の下関事件に対する報復のため、英仏蘭米の四国艦隊が下関を砲撃する、との予告が入る。こうした状況下、京から追放されている長州藩は、危機的状況を突破のため、一発逆転を狙い直接的行動に打って出る。
何としても天皇に攘夷を訴えるとして、64年7月、長州兵約1500人が京へ攻め上り、京都御所を警備する諸藩の兵との戦いとなる。大砲の砲撃によって、火は市街に燃え広がり、洛中の家屋28,000軒余を焼失した。これを「禁門の変」または「蛤御門の変」という。
この折の戦場で、一橋慶喜が総指揮をとり、会津・桑名藩を含めた諸藩の兵が協調することにより、長州兵を背走させる。この経験を踏まえ、孝明天皇と慶喜の信頼関係をもとに「一会桑政権」と呼ぶべき政治主体が、京で誕生する。以後一両年の間、慶喜は幕府を代表しつつもかなり自立的に行動し、政局を主導して、いくつかの点で事態を進展させた。
64年7月23日、「禁門の変」は天皇に銃口を向ける由々しきことであるとして、朝廷は幕府に長州征討の勅命をくだす。尾張藩の前藩主・徳川慶勝が征討総督となり、第1次幕長戦争の運びとなる。西国の21藩に命令が下され、15万人の兵が動員され、攻撃開始日は11月に設定された。
この間、予告どおり64年8月に、四国連合艦隊17隻と兵員5000名余が下関に来襲する。長州藩の砲台を破壊し、上陸して村を焼き払い、3日間に50人の死傷者が出た。これを馬関戦争という。長州藩は降伏し、英仏蘭米の四国から300万ドルの賠償金を要求されると「攘夷は幕府に命令された」として、幕府に転嫁した。
馬関戦争の敗北により、長州藩の戦意は衰え「純一恭順」を主張する保守派の意見が藩を支配する。藩家老3名が責任をとって切腹し、恭順の姿勢を示したことによって、12月に長州征討が中止される。
孝明天皇が望んだ横浜鎖港については、63年12月に「横浜鎖港談判使節団」が渡仏して交渉に当たっていたが、成功しない。却って、団員らは西洋文明の強力を実感して、帰国する。これを踏まえて64年12月、慶喜が孝明天皇に、横浜鎖港が実行不可能であることを納得させた。
ここにおいて外国勢力は、日本を代表する政府として、江戸幕府の能力に不安を抱き始めた。イギリス公使パークスとフランス公使ロッシュらが共同して、通商条約勅許と兵庫開港などの要求を、朝廷に直接ぶつけることを企図する。65年9月、英仏蘭米の四国公使が連合艦隊9隻に乗り込んで大坂湾に至り、要求に対する回答がなければ、入京も辞さないと迫る。
慶喜が必死に言上したことにより、孝明天皇は長く拒んできた通商条約を、65年10月に勅許した。しかし天皇は意地となって、兵庫開港は認めない。このほか関税率改定の要求については、江戸で交渉することになる。
ここに一橋慶喜・会津藩主・桑名藩主が京に揃い、三者が協調して「一会桑(いちかいそう)」と呼ぶ体制の素地が整う。欧米諸国から開国を迫られ、国内では攘夷派と現実対応派の対立が続くなか、この体制がしばらく政局を動かすことに。
1864年6月、京都河原町の長州藩の定宿である「池田屋」に、長州・土佐・肥後など諸藩出身の尊王攘夷派の志士が集まっていた。これを新選組隊士と会津藩兵が襲撃して、約30名が落命しあるいは捕縛された。これを「池田屋事件」という。
くわえて63年5月の下関事件に対する報復のため、英仏蘭米の四国艦隊が下関を砲撃する、との予告が入る。こうした状況下、京から追放されている長州藩は、危機的状況を突破のため、一発逆転を狙い直接的行動に打って出る。
何としても天皇に攘夷を訴えるとして、64年7月、長州兵約1500人が京へ攻め上り、京都御所を警備する諸藩の兵との戦いとなる。大砲の砲撃によって、火は市街に燃え広がり、洛中の家屋28,000軒余を焼失した。これを「禁門の変」または「蛤御門の変」という。
この折の戦場で、一橋慶喜が総指揮をとり、会津・桑名藩を含めた諸藩の兵が協調することにより、長州兵を背走させる。この経験を踏まえ、孝明天皇と慶喜の信頼関係をもとに「一会桑政権」と呼ぶべき政治主体が、京で誕生する。以後一両年の間、慶喜は幕府を代表しつつもかなり自立的に行動し、政局を主導して、いくつかの点で事態を進展させた。
64年7月23日、「禁門の変」は天皇に銃口を向ける由々しきことであるとして、朝廷は幕府に長州征討の勅命をくだす。尾張藩の前藩主・徳川慶勝が征討総督となり、第1次幕長戦争の運びとなる。西国の21藩に命令が下され、15万人の兵が動員され、攻撃開始日は11月に設定された。
この間、予告どおり64年8月に、四国連合艦隊17隻と兵員5000名余が下関に来襲する。長州藩の砲台を破壊し、上陸して村を焼き払い、3日間に50人の死傷者が出た。これを馬関戦争という。長州藩は降伏し、英仏蘭米の四国から300万ドルの賠償金を要求されると「攘夷は幕府に命令された」として、幕府に転嫁した。
馬関戦争の敗北により、長州藩の戦意は衰え「純一恭順」を主張する保守派の意見が藩を支配する。藩家老3名が責任をとって切腹し、恭順の姿勢を示したことによって、12月に長州征討が中止される。
孝明天皇が望んだ横浜鎖港については、63年12月に「横浜鎖港談判使節団」が渡仏して交渉に当たっていたが、成功しない。却って、団員らは西洋文明の強力を実感して、帰国する。これを踏まえて64年12月、慶喜が孝明天皇に、横浜鎖港が実行不可能であることを納得させた。
ここにおいて外国勢力は、日本を代表する政府として、江戸幕府の能力に不安を抱き始めた。イギリス公使パークスとフランス公使ロッシュらが共同して、通商条約勅許と兵庫開港などの要求を、朝廷に直接ぶつけることを企図する。65年9月、英仏蘭米の四国公使が連合艦隊9隻に乗り込んで大坂湾に至り、要求に対する回答がなければ、入京も辞さないと迫る。
慶喜が必死に言上したことにより、孝明天皇は長く拒んできた通商条約を、65年10月に勅許した。しかし天皇は意地となって、兵庫開港は認めない。このほか関税率改定の要求については、江戸で交渉することになる。
尊王攘夷
1863(文久3)年は、幕末史を画する年となる。朝廷と幕府が一枚岩ではないことが露呈し、朝野の議論は沸騰する。世情は、新たに“天皇”という権威の源を見出し、江戸幕府に替わる権力となるのかを見定めようとする。
「尊王」が、天皇・朝廷の権威の復興をめざす言葉となる。常陸国水戸藩において2代藩主・徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂事業を通じて育まれ、江戸中期に盛んになった国学の影響を受け、9代藩主・徳川斉昭(なりあき)のとき「後期水戸学」として体系化された思想とされる。
外国勢力の圧迫が続くなか、これが外国や外国人を排斥する「攘夷」の主張と結びついて「尊王攘夷」となり、国が主体性を維持すべき言葉として叫ばれる。幕府は実際に政権を担当し、日々内外の力の差を感じており、開国せざるを得ないとする姿勢にあるから、当然ながらこれに背馳する。
「攘夷か開国か」の選択は、倒幕・佐幕の議論とも絡まって政局が混迷し、雄藩の藩主らは幕政への参画を求める。国の前途を憂える中・下級藩士も、脱藩して京へ駆けつけ、草莽の志士となって時勢に身を投じる。
このとき在京する長州藩士などの行動によって、攘夷運動が高まりを見せる。誰が主導したのか定かではないが、孝明天皇が大和へ行幸して神武天皇陵などを参拝し、これを機に各地で郷土防衛の民衆運動を起こし、外国船を砲撃するという「大和国親征攘夷運動」の噂が広がる。ただしこれは、公武一体で攘夷を進めようとする孝明天皇の本意には、そぐわなかったようだ。
1863(文久3)年8月18日の真夜中過ぎ、天皇の命により御所内でクーデターが起こる。会津藩1500人と薩摩藩150人ほどが御所の九つの門を固めるなか、急進的攘夷派の公家である三条実美ら七名が、退去を命じられて長州へ向かう(七郷の都落ち)。1000余人の長州兵も、これに従い背走した。これを「文久の政変」あるいは「八月十八日の政変」という。
この政変を受け、天皇・朝廷は国事を論ずる新たな場の設定を模索する。63年12月、公家に有力大名を交えて「参預会議」を設けることとし、参預に一橋慶喜のほか、越前藩主・松平慶永(春嶽)、会津藩主・松平容保、土佐藩主・山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城にくわえ、(少し遅れて)薩摩藩の島津久永の6名を任命した(ただし容保は辞退)。
島津久永は薩摩藩主ではないが、11代藩主・島津斉彬が1858年に卒したとき、遺言で久光の長男・忠義が12代藩主となる。久光は、藩主の実父として後見の立場にあることで「国父」と呼ばれた。
討議の課題は、攘夷実行策として孝明天皇が強く望んだ「横浜鎖港」である。条約によって一旦開港した横浜を、再び閉じることを意味した。64年3月には、その先駆けとして、水戸藩の過激派・天狗党が筑波山で挙兵する動きがあった。
しかし横浜鎖港は、内外の実情を知る者らの賛同を得られるはずもない。参預会議は意見対立によって機能不全となり、3か月後に空中分解した。
この時期、日本の近海に到来した外国勢力は、我が国を開国させることに向け、一歩もひかない姿勢であったとみられる。現に、大きな対外事件が継起した。
61年3月、ロシア軍艦ポサードニク号が対馬列島に来航した。乗組員は勝手に島に上陸して留まり、対馬の永久租借などを要求した。幕府の要請により、イギリス公使・オールコックが介入し、イギリス軍艦2隻が回航して示威を行った。これにより、来航から半年後に退去した。
62年8月、薩摩藩の久光の行列に、乗馬で割り込んできたイギリス人4名を、薩摩藩士が死傷させる事件が起こった(生麦事件)。これへの報復として、63年5月にイギリス東洋艦隊7隻が薩摩湾に侵入し、鹿児島市街を砲撃した(薩英戦争)。幕府と薩摩藩が賠償金を払った。
幕府が攘夷開始日と設定した63年5月10日に、長州藩が実際に攘夷の行動に出て、沖合を通る仏・蘭・米の商船や軍艦を砲撃した。これに対し6月に、米・仏艦隊が報復砲撃を行い、長州藩の軍艦や砲台を破壊した(下関事件)。
当時、もっとも強力な外国勢力であったのはイギリスである。「自由貿易帝国主義」を基本とし、圧倒的な軍事力に基づきアジア諸国に貿易拡大を強要し、貿易利益を追求した。我が国の対応によっては、中国における「アヘン戦争」(1840-42)や「アロー戦争」(1856-60)と同様の経緯を経て、直後の条約で植民地化する事態もあり得たという。
1853~56年に英・仏両国が、ロシアとクリミア戦争で戦火を交えた。このことが我が国への圧力を、少なからず弱めたであろう。また1861年4月に、アメリカで南北戦争が始まる。ペリーとハリスにより、対日圧力の先端を切った米国であったが、その余裕がなくなった。
「尊王」が、天皇・朝廷の権威の復興をめざす言葉となる。常陸国水戸藩において2代藩主・徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂事業を通じて育まれ、江戸中期に盛んになった国学の影響を受け、9代藩主・徳川斉昭(なりあき)のとき「後期水戸学」として体系化された思想とされる。
外国勢力の圧迫が続くなか、これが外国や外国人を排斥する「攘夷」の主張と結びついて「尊王攘夷」となり、国が主体性を維持すべき言葉として叫ばれる。幕府は実際に政権を担当し、日々内外の力の差を感じており、開国せざるを得ないとする姿勢にあるから、当然ながらこれに背馳する。
「攘夷か開国か」の選択は、倒幕・佐幕の議論とも絡まって政局が混迷し、雄藩の藩主らは幕政への参画を求める。国の前途を憂える中・下級藩士も、脱藩して京へ駆けつけ、草莽の志士となって時勢に身を投じる。
このとき在京する長州藩士などの行動によって、攘夷運動が高まりを見せる。誰が主導したのか定かではないが、孝明天皇が大和へ行幸して神武天皇陵などを参拝し、これを機に各地で郷土防衛の民衆運動を起こし、外国船を砲撃するという「大和国親征攘夷運動」の噂が広がる。ただしこれは、公武一体で攘夷を進めようとする孝明天皇の本意には、そぐわなかったようだ。
1863(文久3)年8月18日の真夜中過ぎ、天皇の命により御所内でクーデターが起こる。会津藩1500人と薩摩藩150人ほどが御所の九つの門を固めるなか、急進的攘夷派の公家である三条実美ら七名が、退去を命じられて長州へ向かう(七郷の都落ち)。1000余人の長州兵も、これに従い背走した。これを「文久の政変」あるいは「八月十八日の政変」という。
この政変を受け、天皇・朝廷は国事を論ずる新たな場の設定を模索する。63年12月、公家に有力大名を交えて「参預会議」を設けることとし、参預に一橋慶喜のほか、越前藩主・松平慶永(春嶽)、会津藩主・松平容保、土佐藩主・山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城にくわえ、(少し遅れて)薩摩藩の島津久永の6名を任命した(ただし容保は辞退)。
島津久永は薩摩藩主ではないが、11代藩主・島津斉彬が1858年に卒したとき、遺言で久光の長男・忠義が12代藩主となる。久光は、藩主の実父として後見の立場にあることで「国父」と呼ばれた。
討議の課題は、攘夷実行策として孝明天皇が強く望んだ「横浜鎖港」である。条約によって一旦開港した横浜を、再び閉じることを意味した。64年3月には、その先駆けとして、水戸藩の過激派・天狗党が筑波山で挙兵する動きがあった。
しかし横浜鎖港は、内外の実情を知る者らの賛同を得られるはずもない。参預会議は意見対立によって機能不全となり、3か月後に空中分解した。
この時期、日本の近海に到来した外国勢力は、我が国を開国させることに向け、一歩もひかない姿勢であったとみられる。現に、大きな対外事件が継起した。
61年3月、ロシア軍艦ポサードニク号が対馬列島に来航した。乗組員は勝手に島に上陸して留まり、対馬の永久租借などを要求した。幕府の要請により、イギリス公使・オールコックが介入し、イギリス軍艦2隻が回航して示威を行った。これにより、来航から半年後に退去した。
62年8月、薩摩藩の久光の行列に、乗馬で割り込んできたイギリス人4名を、薩摩藩士が死傷させる事件が起こった(生麦事件)。これへの報復として、63年5月にイギリス東洋艦隊7隻が薩摩湾に侵入し、鹿児島市街を砲撃した(薩英戦争)。幕府と薩摩藩が賠償金を払った。
幕府が攘夷開始日と設定した63年5月10日に、長州藩が実際に攘夷の行動に出て、沖合を通る仏・蘭・米の商船や軍艦を砲撃した。これに対し6月に、米・仏艦隊が報復砲撃を行い、長州藩の軍艦や砲台を破壊した(下関事件)。
当時、もっとも強力な外国勢力であったのはイギリスである。「自由貿易帝国主義」を基本とし、圧倒的な軍事力に基づきアジア諸国に貿易拡大を強要し、貿易利益を追求した。我が国の対応によっては、中国における「アヘン戦争」(1840-42)や「アロー戦争」(1856-60)と同様の経緯を経て、直後の条約で植民地化する事態もあり得たという。
1853~56年に英・仏両国が、ロシアとクリミア戦争で戦火を交えた。このことが我が国への圧力を、少なからず弱めたであろう。また1861年4月に、アメリカで南北戦争が始まる。ペリーとハリスにより、対日圧力の先端を切った米国であったが、その余裕がなくなった。
江戸幕末史の幕開け
いよいよ日本は、近代とされる明治時代に入る。このブログは四国の事情を中心に書いているが、幕末から明治に移る激動期については、新しい研究が次々に付加された。かつては流布されていなかった事実がたくさん明らかにされているので、しばらくは四国の視点を離れ全国の視点に立って、歴史過程を追う。
江戸幕府の対外政策は、外国との交易につき、一部の港を開き一部の国との取引のみを許した。さらに日本人の出国・入国をともに禁じる海禁政策を採ったので「鎖国」と呼ばれる。これに対し1700年代の終わり頃から、外国船がしきりに我が国の近海に出没し、開港場の増加や交易の拡大を迫る。
その象徴的な事案が、1854(嘉永7)年3月の黒船来航である。アメリカのペリー提督率いる蒸気船4隻が浦賀に来航し、交渉を求めて東京湾に入る。この圧迫を受け、幕府老中・阿部正弘は「日米和親条約」を締結し、下田・箱館の開港と外国船に対する薪水・食料・石炭の供給などを約束した。英・露とも同様の条約を結ぶ。幕府は念のため、事後的に朝廷に対し条約締結の許可を求めたところ、格別の反応はなく了承された。
次いではアメリカ総領事・ハリスが下田に留まり、開港場をさらに増やし、関税協定と外国人居留地の設定などを内容とする条約締結を迫る。このたびは幕府が朝廷に事前許可を求めたところ、見通しがくるい、天皇が勅許を与えない。しかしハリスの要求は極めて強硬で、1858(安政5)年6月、大老・井伊直弼は「日米修好通商条約」を締結する。同時に英仏露蘭の4カ国とも同様の条約を結ぶ。
政権を担当して対外折衝に当たる幕閣の面々は、直接的に外国の圧力を受け、海外の情報にも接している。1841年の「アヘン戦争」とその後の中国の状況などを知り、内外の国力差を実感しているから、海禁政策(鎖国)を順次に解き、国を開かざるを得ないと考えている。
ところが背後にいる天皇・朝廷は、開国に強く反対し「事前に勅許を得なかった」ことを責めて、あくまでも勅許を与えない。万世一系を謳う天皇の権威が揺らぐことを懸念したのか、何をどこまで恐れたのかは、明確でない。
58年8月、朝廷から幕府を経由せずに直接、水戸藩に対し、調印した条約の再考を求める勅書が出されていたことが判明する。朝廷が幕府を通さずに各藩へ命令を発することは、これまでの慣例にはなかった。これを戊午(ぼご)の密勅という。
井伊直弼は激怒する。反対派の声を抑えることによって条約勅許を得ようとして、59年5月にかけ幕府を批判したり攘夷を主張したりする約100名を処分した。これを「安政の大獄」という。吉田松陰や橋本佐内など7名を刑死させ、反対派の藩主に蟄居などを命じ、有力公家を辞官に追い込んだ。
ところが60年3月、これに反発した水戸浪士らが、登城途中の大老・井伊直弼を襲撃し、横死させて「桜田門外の変」となる。これにより、幕府の権威は大きく失墜した。
ここにおいて国事を進めるのに新たな体制が必要であると考えた朝廷は、60年7月、江戸へ勅使を派遣し、幕府に指示を与える。将軍後見職に、水戸藩主・徳川斉昭の七男で一橋家の養子となった一橋慶喜を就ける。将軍候補に擬せられたことがあった人物で、その有能さが知られていた。併せて福井藩主・松平慶永(春嶽と号した)を政事総裁職とし、朝廷と幕府の結びつきを図る。
慶喜と春嶽の両名に幕閣が協力し、挙国一致体制の推進をめざす。その一環として、途絶えていた将軍の上洛を図り、大名の参勤交代制を緩和し(3年に1度とした)、諸儀礼の簡素化を進めるなどした。これを「文久の改革」と呼ぶ。
ここに朝幕関係が逆転し、これ以降の政局の中心は、江戸幕府から京の天皇・朝廷に移る。儀礼の場でも、朝廷が幕府の上位に立つ。
幕府も体制を建て直そうとして公武合体策を模索する。孝明天皇の異母妹である和宮と14代将軍・家茂との婚姻をめざし、朝廷を説得するため、10年以内に鎖国に戻すことを約束したことで、62年2月に皇女降嫁が実現する。ただしこれを推進した老中・安藤信正は、62年1月の「坂下門外の変」で襲われ、4月に老中を罷免される。
1862年末、公家の三条実美らが勅使として江戸へ下向し、幕府に奉勅攘夷を約束させる。春嶽らは「攘夷」の無謀を訴えることにより、条約の勅許を得て時局の収拾を図ろうとしていたが、その目論見は潰えた。
江戸幕府の対外政策は、外国との交易につき、一部の港を開き一部の国との取引のみを許した。さらに日本人の出国・入国をともに禁じる海禁政策を採ったので「鎖国」と呼ばれる。これに対し1700年代の終わり頃から、外国船がしきりに我が国の近海に出没し、開港場の増加や交易の拡大を迫る。
その象徴的な事案が、1854(嘉永7)年3月の黒船来航である。アメリカのペリー提督率いる蒸気船4隻が浦賀に来航し、交渉を求めて東京湾に入る。この圧迫を受け、幕府老中・阿部正弘は「日米和親条約」を締結し、下田・箱館の開港と外国船に対する薪水・食料・石炭の供給などを約束した。英・露とも同様の条約を結ぶ。幕府は念のため、事後的に朝廷に対し条約締結の許可を求めたところ、格別の反応はなく了承された。
次いではアメリカ総領事・ハリスが下田に留まり、開港場をさらに増やし、関税協定と外国人居留地の設定などを内容とする条約締結を迫る。このたびは幕府が朝廷に事前許可を求めたところ、見通しがくるい、天皇が勅許を与えない。しかしハリスの要求は極めて強硬で、1858(安政5)年6月、大老・井伊直弼は「日米修好通商条約」を締結する。同時に英仏露蘭の4カ国とも同様の条約を結ぶ。
政権を担当して対外折衝に当たる幕閣の面々は、直接的に外国の圧力を受け、海外の情報にも接している。1841年の「アヘン戦争」とその後の中国の状況などを知り、内外の国力差を実感しているから、海禁政策(鎖国)を順次に解き、国を開かざるを得ないと考えている。
ところが背後にいる天皇・朝廷は、開国に強く反対し「事前に勅許を得なかった」ことを責めて、あくまでも勅許を与えない。万世一系を謳う天皇の権威が揺らぐことを懸念したのか、何をどこまで恐れたのかは、明確でない。
58年8月、朝廷から幕府を経由せずに直接、水戸藩に対し、調印した条約の再考を求める勅書が出されていたことが判明する。朝廷が幕府を通さずに各藩へ命令を発することは、これまでの慣例にはなかった。これを戊午(ぼご)の密勅という。
井伊直弼は激怒する。反対派の声を抑えることによって条約勅許を得ようとして、59年5月にかけ幕府を批判したり攘夷を主張したりする約100名を処分した。これを「安政の大獄」という。吉田松陰や橋本佐内など7名を刑死させ、反対派の藩主に蟄居などを命じ、有力公家を辞官に追い込んだ。
ところが60年3月、これに反発した水戸浪士らが、登城途中の大老・井伊直弼を襲撃し、横死させて「桜田門外の変」となる。これにより、幕府の権威は大きく失墜した。
ここにおいて国事を進めるのに新たな体制が必要であると考えた朝廷は、60年7月、江戸へ勅使を派遣し、幕府に指示を与える。将軍後見職に、水戸藩主・徳川斉昭の七男で一橋家の養子となった一橋慶喜を就ける。将軍候補に擬せられたことがあった人物で、その有能さが知られていた。併せて福井藩主・松平慶永(春嶽と号した)を政事総裁職とし、朝廷と幕府の結びつきを図る。
慶喜と春嶽の両名に幕閣が協力し、挙国一致体制の推進をめざす。その一環として、途絶えていた将軍の上洛を図り、大名の参勤交代制を緩和し(3年に1度とした)、諸儀礼の簡素化を進めるなどした。これを「文久の改革」と呼ぶ。
ここに朝幕関係が逆転し、これ以降の政局の中心は、江戸幕府から京の天皇・朝廷に移る。儀礼の場でも、朝廷が幕府の上位に立つ。
幕府も体制を建て直そうとして公武合体策を模索する。孝明天皇の異母妹である和宮と14代将軍・家茂との婚姻をめざし、朝廷を説得するため、10年以内に鎖国に戻すことを約束したことで、62年2月に皇女降嫁が実現する。ただしこれを推進した老中・安藤信正は、62年1月の「坂下門外の変」で襲われ、4月に老中を罷免される。
1862年末、公家の三条実美らが勅使として江戸へ下向し、幕府に奉勅攘夷を約束させる。春嶽らは「攘夷」の無謀を訴えることにより、条約の勅許を得て時局の収拾を図ろうとしていたが、その目論見は潰えた。
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