池田合子神社古墳
円養寺遺跡から春日川に沿って丘陵を下りきると、上佐(うわさ)山の東麓に到る。上佐山は標高296mと高くはないが、高松平野の南部中央に阿讃山系から派生する山塊である。東麓では春日川支流の朝倉川が本流に合流するあたりに盆地状の氾濫原が広がり、竹元遺跡、中山田遺跡などの弥生遺跡がある。周辺の山麓には古墳群や廃寺など、古代遺跡が連なる。
「池田合子(ごうし)神社古墳」(高松市池田町)は、上佐山から東にのびる丘陵尾根の先端(標高52m/比高20m)にあった。墳長35m/後円径25m・くびれ幅5m/前方部先端幅7mを測るバチ型前方後円墳で、丸底土器など土師器片を採集した。
副葬品として、(舶載)波文縁方格規矩四獣鏡のほか、碧玉製管玉、鉄槍、鉇、斧の出土を伝える。神社の改修にともない削平され、古墳は消滅した。
“波文縁方格規矩四獣鏡”の航跡をたどっていくと、奈良盆地の東端にある「大和天神山古墳」(天理市柳本町)にたどりつく。畿内でもっとも古い柳本古墳群に属する前方後円墳で、伊射奈岐(いざなぎ)神社の境内にあり、纒向遺跡に近い。
墳長113m/後円部径56m/前方部幅50mを測り[後円部径=前方部長]の讃岐型である。段築なし、葺石なし、埴輪なし。竪穴式石槨[長さ6.1m×幅1.4m×高さ1.2m]は、讃岐産とみられる自然石の小口積みで、コウヤマキ製の木棺 [2.6m×0.76m]は区画化されて木櫃状であった。そこに水銀朱41kgが埋納され、まわりを銅鏡23面が取り囲んだ。
23面の内訳は、波文縁方格規矩鏡2、流雲文縁方格規矩鏡4、画紋帯神獣鏡4、内行花文鏡4、獣形鏡4、画像鏡2、斜縁変形神獣鏡2、(倭製)人物鳥獣文鏡1であり、魏鏡とされる典型的な三角縁神獣鏡が含まれず、より古い後漢鏡が中心であった。いずれも「奈良国立博物館」に収蔵され、重要文化財に指定された。
前方部から布留1式の二重口縁壺が出土し、3世紀後半ないし4世紀初の築造とみられる。
不思議なことに、大和天神山古墳には遺体を納めた形跡がまったく見当たらない。東側の道路を挟んで「行燈山古墳(崇神陵)」が隣接するので、その陪塚ではないかと推測される。第10代崇神天皇の大王陵であるから、その遺物を収めたものであろうという。大王(天皇)が在位した実年代は、西暦284~315年前後とするのが有力である。
池田合子神社古墳も、最古級の古墳様式を持ち、副葬品に波文縁方格規矩鏡があったから、被葬者は崇神大王時代の人物で、何らかの関わりがあったとの推論が可能である。
もっともこのことについて、新装なった「池田合子神社」の豪壮な社殿は何も語らない。神社はもともとこの地にあったのではなく、江戸時代に遷ってきたというから、古墳の方が先にあった。
名前もかつて池田八幡宮であったのを、現在の名前に改められた。神社の石碑によると“合子”は「凡(オフシ)神社」が転じたものという。巷間いわれるように“合祀”を意味するとか、国司の下に位する“郡司(ぐんし・ごうし)”がなまったものではないようだ。
「池田合子(ごうし)神社古墳」(高松市池田町)は、上佐山から東にのびる丘陵尾根の先端(標高52m/比高20m)にあった。墳長35m/後円径25m・くびれ幅5m/前方部先端幅7mを測るバチ型前方後円墳で、丸底土器など土師器片を採集した。
副葬品として、(舶載)波文縁方格規矩四獣鏡のほか、碧玉製管玉、鉄槍、鉇、斧の出土を伝える。神社の改修にともない削平され、古墳は消滅した。

“波文縁方格規矩四獣鏡”の航跡をたどっていくと、奈良盆地の東端にある「大和天神山古墳」(天理市柳本町)にたどりつく。畿内でもっとも古い柳本古墳群に属する前方後円墳で、伊射奈岐(いざなぎ)神社の境内にあり、纒向遺跡に近い。
墳長113m/後円部径56m/前方部幅50mを測り[後円部径=前方部長]の讃岐型である。段築なし、葺石なし、埴輪なし。竪穴式石槨[長さ6.1m×幅1.4m×高さ1.2m]は、讃岐産とみられる自然石の小口積みで、コウヤマキ製の木棺 [2.6m×0.76m]は区画化されて木櫃状であった。そこに水銀朱41kgが埋納され、まわりを銅鏡23面が取り囲んだ。
23面の内訳は、波文縁方格規矩鏡2、流雲文縁方格規矩鏡4、画紋帯神獣鏡4、内行花文鏡4、獣形鏡4、画像鏡2、斜縁変形神獣鏡2、(倭製)人物鳥獣文鏡1であり、魏鏡とされる典型的な三角縁神獣鏡が含まれず、より古い後漢鏡が中心であった。いずれも「奈良国立博物館」に収蔵され、重要文化財に指定された。
前方部から布留1式の二重口縁壺が出土し、3世紀後半ないし4世紀初の築造とみられる。
不思議なことに、大和天神山古墳には遺体を納めた形跡がまったく見当たらない。東側の道路を挟んで「行燈山古墳(崇神陵)」が隣接するので、その陪塚ではないかと推測される。第10代崇神天皇の大王陵であるから、その遺物を収めたものであろうという。大王(天皇)が在位した実年代は、西暦284~315年前後とするのが有力である。
池田合子神社古墳も、最古級の古墳様式を持ち、副葬品に波文縁方格規矩鏡があったから、被葬者は崇神大王時代の人物で、何らかの関わりがあったとの推論が可能である。

もっともこのことについて、新装なった「池田合子神社」の豪壮な社殿は何も語らない。神社はもともとこの地にあったのではなく、江戸時代に遷ってきたというから、古墳の方が先にあった。
名前もかつて池田八幡宮であったのを、現在の名前に改められた。神社の石碑によると“合子”は「凡(オフシ)神社」が転じたものという。巷間いわれるように“合祀”を意味するとか、国司の下に位する“郡司(ぐんし・ごうし)”がなまったものではないようだ。
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