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弥生時代(3)-高地性集落

 弥生時代中期の終わりごろ、つまり紀元前後のBC1世紀後半~AD1世紀前半に、中四国の瀬戸内海沿岸を中心に「高地性集落」が爆発的に出現し、やがて消える。水田農耕には適さない山頂や急峻な丘陵地に造られたから、北九州勢力が近畿へ東遷する動向に対応したものかと、軍事的要素が考古学の話題になった。

 「半田山遺跡」(西条市)は道前平野の背後の丘陵地にある。竪穴式住居4,5棟から成り、丘陵下の「池ノ内遺跡」の物見的役割を果たしていたと想定される。紫雲出山遺跡.JPG
 「紫雲出山遺跡」(三豊市詫間町)は荘内半島にあり、瀬戸内海を見晴るかす比高340mの山頂にある(写真)。集落の目的について調査に携わった広瀬常雄氏は「農耕に適しない土地でありながら収穫具としての石包丁が多数出土しており(遺跡の軍事性は)にわかに決しがたい」と書く。(『日本の古代遺跡8 香川』保育社 昭和58)
 香川県内では高地性集落はかなり一般的な存在で、北谷遺跡(荘内半島)、心経山遺跡(丸亀市広島)、烏帽子山遺跡(坂出市)、城山遺跡(坂出市)、擂鉢谷遺跡(高松市石清尾山)などもある。これらの遺跡では矢じり用の石鏃のほか、収穫用具の石包丁も多数出土する。
 対岸の岡山県では、この時期の高地性集落に「貝殻山遺跡」がある。児島半島の東端に近い標高280mにあり、吉備の山々はもちろん、瀬戸内海から讃岐方面を望む。竪穴式住居6棟を検出し、遺物として製塩土器・石包丁・石槍・鉄鏃・分銅型土製品・紡錘車などを出土した。内外の集団に対する見張りと通報の役割を担ったとの推定がある。
 このように実際に調査を担当した研究者は、この時期の高地性集落が政治的・軍事的緊張を反映したと見るより、情報収集が狙いとの見方を示す。鉄器への需要が高まるなかで各集落では稲の貯蔵が進み、集落間の利害関係が浮上して、周囲への監視能力が求められた。瀬戸内海沿岸は北九州と近畿を結ぶ動線上にあり、ヒトとモノの動きが活発なだけに、その情報が求められたのであろう。

 高地性集落に第2波があり、弥生後期のAD1~2世紀に北陸・東海などにも現れた。『魏志倭人伝』にいう「倭国大乱」のときにあたり、100m未満の丘陵地に継続的に存在し、一時的集落ではない。実際に戦闘があったかは不明だが、拠点集落の間で緊張が高まり、防御的意味も込めて、高地に集落を拓くことが増えたのであろう。四国の徳島県や高知県にも、高地性集落が現れる。
 「大谷尻遺跡」(徳島県三好市)は吉野川中流域の北岸にあり、川の両岸を見渡す大規模な集落。約1万㎡の丘陵頂部の平坦面に環濠集落があり、遺跡の半分ほどの発掘段階だが、住居跡13棟・貯蔵穴・焼土抗多数を検出した。
 「檜はちまき遺跡」「カネガ谷遺跡」(ともに鳴門市)は吉野川下流域の北岸にあり、眼下に平野部を望む。弥生中期末から後期初頭にかけての集落で、崖状の切り出しがあったり、環濠があったりで、恒常的な居住地を造った意図が窺える。
 「バーガ森北斜面遺跡」(高知県伊野町)は、弥生中期から後期にかけての高地性集落で、出土した石鏃が平地の遺跡のものに比べ、大型かつ強力であった。このほか高知県央にも高地性集落があった。
 対岸の岡山県では「高越遺跡」(井原市)が内陸部の小田川沿いの高越山に位置し、比高約100mの南緩斜面にある。弥生後期後葉には少なくとも竪穴式住居7棟があり、短期的な集落ではないようだ。柳瀬昭彦氏は「対外的な見張りというよりも吉備全体のまとまりとしての内部情報伝達の一端を担うという役割があったのではないか。そして、そのためには流通経路沿いの、それぞれが有視可能な小高い丘陵ごとに高越遺跡のような集落を置き、それらがそれぞれに通信基地の役割を果たした」と書く。(『吉備の弥生集落』吉備人出版 2007)

 さらに高地性集落の第3波が、AD3世紀に東海・北陸・中国地方西部で頻出することが指摘される。すでに「前方後円墳体制」(邪馬台国)が形成されつつある時代で、統一政権の成立に関する緊張を反映したものであろう。
 このように高地性集落が存在した理由は、地域により時代により、さまざまの要素があった。鉄器の普及と稲作の収穫物の蓄えが進むなかで、集落間に緊張が生まれた。他の集落に対して優位に立つため、見張り・牽制・示威などの機能が求められ、ときに戦闘・防御の意気込みを表明したであろう。山陰地方には、聖域と考えざるをえない高地性集落もあるという。



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