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纏向型前方後円墳の登場

 いよいよ古墳時代の話に入る。古墳時代は3世紀中葉の箸墓古墳の登場をもって始まるとされるが、この時期を前後して墳形の試行錯誤と思われる前方後円墳が列島各地で築かれる。そのひとつが纏向(まきむく)型前方後円墳であり、奈良県桜井市の旧・纏向村に由来する「纏向遺跡」の一角に5基がある。
 この墳形のとされる纏向石塚古墳の墳形を上空から鳥瞰すると、同じ奈良盆地の橿原市城殿(きどの)町で検出された瀬田遺跡の突出部付き円形周溝墓に酷似する。規模では4:1ほどの開きがあるが、これが纏向型前方後円墳の起源であることは間違いない。形状の特徴として、前方部(突出部)がしっかりとバチ型に開き、後円部の径に比べて短い。[前方部長÷後円部径]の値は0.5前後である。時代の推移に応じて次第に大きくなるようだが。
 纏向型5基の築造時期に関しさまざまの意見があるが、おおむね箸墓古墳と併行する。「桜井市纏向学研究センター」の見方に沿い、古いものから順に挙げていくと次のとおり。

 「纏向石塚古墳」(桜井市太田)は、墳長99m/後円部径68-69m/前方部長31mを測る。名前のとおり石で覆われたであろうが、戦時中に高射砲台とされて大きく変容した。周濠から鋤・鍬・鶏型木製品・弧文円板などの木製品が出土し、2世紀第3四半期~3世紀初頭の築造とされる。
 「纏向矢塚古墳」(桜井市太田)は、墳長93m/後円部径64m/前方部(復元)長32mで、埋葬部未調査。3世紀の中葉以前の築造だが、詳細時期未詳。
 「纏向勝山古墳」(桜井市東田)は、墳長115m/後円部径70m/前方部長45mである。周溝からの遺物に庄内2式~布留0式のものがあった。築造時期の決め手に欠けるが、3世紀前半∼中葉の築造とされる。ホケノ山古墳.JPG
 「ホケノ山古墳」(桜井市箸中)は、墳長80m/後円部径55m/前方部長25mを測り、5基のなかで唯一葺石があった。発掘調査により、埋葬部は「石囲い木槨」構造で、舟形木棺が用いられていた。副葬品として画紋帯神獣鏡2・内行花文鏡1・鉄剣類・鉄製農工具があり、二重口縁壺・小形丸底鉢などを出土した。築造時期は庄内3式期とされ、箸墓古墳にやや先行するとの見方が一般的である。(写真)
 埋葬構造の類似性や吉野川南岸の三波川層で産する「阿波青石」(緑泥片岩)が用いられていることからも、東瀬戸内地域との親縁性は明らかである。徳島県には「被葬者は阿波の出身者」とする主張がある。近くの大神(おおみわ)神社は、被葬者を第10代崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)とする。
 「東田(ひがいだ)大塚古墳」(桜井市東田)は、墳長120m/後円部径68m/前方部長50m前後と、他の4基に比べ前方部が長い。周濠などから東海系の蓋をもつ大型複合口縁壺のほか、布留0式の遺物が出土した。3世紀後半の築造が推定され、箸墓古墳より後出する。

 纏向型前方後円墳は列島内で一定の広がりを見せたようで、前項で取りあげた吉備の「宮山古墳」「矢藤治山古墳」のほか、上総・伊予・筑前にある事例も該当するであろうか。いずれも[前方部長÷後円部径]の値が0.5前後である。
 「神門(ごうど)古墳群」(市原市惣社)は、養老川下流域の北岸にある前方後円墳3基・方墳3基・円墳1基から成る。5号・4号・3号の順に築造され、しだいに前方部が発達した。3世紀代の築造だが、詳細時期では意見が分かれる。5号墳が現状保存され、他は消滅した。
 「5号墳」は、復元墳長42.6m/後円部径30∼32.5m/前方部長12mで、浣腸器型に近い。鉄剣1・鉄鏃(近江・東海系)2・ガラス玉6・高坏などを出土した。東日本でもっとも古い古墳とされる。
 「4号墳」は、墳長49m/後円(楕円)部径33×30m/前方部長13mを測り、近畿系の土器を出土した。鉄剣1・鉄槍1・鉄鏃(定角式)41・管玉31・ガラス玉394・鉇1のほか、祭祀用土器を出土した。
 「3号墳」は、復元墳長53.5m/後円部径33.5m/前方部長20mと前方部が長い。短剣1・鉄槍1・鉄鏃(柳葉式)1・鉇1・管玉10・ガラス玉103のほか、東海系の高坏・壺などを出土した。

 「大久保1号墳」(愛媛県西条市小松町)は、中山川右岸の微高地にある。墳長24m/後円部径15.7m/前方部長8.3mを測り、前方部はくびれ幅6.6m/先端幅9.0mとバチ型に開く。葺石があった可能性があり、二重口縁壺・直口壺が見出された。築造時期は庄内3式併行を推定。中国の「燕」でBC5世紀頃に作られた鋳造鉄斧が出土したことで知られる大久保遺跡の一角を占める。
 
 「那珂八幡古墳」(福岡市博多区那珂)は、奴国の中心地である福岡平野の中央にあり、墳丘上に那珂八幡社の社殿が建つ。墳長86-86.4m/後円部径51.5-52.5m/前方部長34-34.4mで、前方部は南側の側縁が直線的ではなく,くびれ部から隅角に向けてゆるやかに広がる。[後円部径:前方部長]=8:5であり、糟屋郡粕原町の戸原王塚古墳(墳長48m)も同形であることなどから、地元では「北九州型」と称し、纏向型とは異なる墳形とする。三角縁神獣鏡を出土したから、古墳時代初期の築造。九州最古の古墳とされる。


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