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庸(養)

 「庸」の古訓は“チカラシロ”とされ、元来は正丁(21~60歳の男性)と次丁(61歳以上の男性と正丁の障碍者)に対し労役を課するものであった。宮都で年間10日の労役に服することを基本としたが、全国に適用できないから代えて布2丈6尺(約7.9m)を納めさせ、次丁はその半分とした。畿内諸国については、宮殿や寺社の造営あるいは有事の軍事動員に備える必要があり免除された。706年からは半減となった。
 かつての部民制において「名代(なしろ)」制のもと、地方から布・綿・米・塩など生活必需品を京進させる「養」と呼ぶ制度があった。地方豪族の子弟が一定期間、大王・王族の身辺に出仕して、舎人(トネリ)・采女(ウネメ)として奉仕し、警固役の靱負(ユゲヒ)や食膳の準備をする膳夫(カシワデ)を務めることもあった。
 これら在京中の子弟に生活必需品を送るのが「養」で、子弟を送った豪族だけではなく、地域全体で負担した。したがって律令制下の「庸」と前代の「養」とを、地方民は同じような感覚で受け止めたであろう。

 「調」は大蔵省に納められ官人の給料に充てられたのに対し「庸」は民部省に代納物を納め、仕丁や采女の衣食料に充当した。「延喜式」のころには、調・庸・中男作物が事実上一体化し、「巻24 主計上」に並記される国ごとの貢進額のみが意味を持つようになる。
 四国各国に「庸」として義務づけられた産品は、次のとおり。韓櫃(カラビツ)とは、ヒノキなどの細板を折り曲げて作る方形で大型の箱。蓋付きで、湿気を避けるため4~6本の脚が付いた。主として衣服や経典を入れるのに用いられ、唐櫃とも書く。

 阿波国 白木の韓櫃12合     自余はコメで輸せ
 讃岐国 白木の韓櫃20合     自余はコメで輸せ
 伊予国 白木の韓櫃28合     自余はコメで輸せ
 土佐国 白木の韓櫃14合     自余はワタ、コメで輸せ

 このほか律令には規定がないが「雑徭」(クサグサノミユキ)という労役があった。令制国の国司が住民に課すもので、国衙の雑用や土木工事に従事させた。正丁は年間60日を限度とし、次丁は正丁の2分の1、中男は正丁の4分の1であった。795年に半減され、以後は正丁のみ年間30日となった。
 
 令制国が調・庸・中男作物などの産品を宮都へ運ぶ労役(「運京・うんきょう」という)も、各国の負担であった。延喜式の「巻24 主計上」に、運京の法定日数が記され、違期はきびしく咎められた。四国に関するものは次のとおり。延喜式 駅路図.png

 阿波国 上 9日、 下 5日、海路11日
 讃岐国 上12日、下 6日、海路12日
 伊予国 上16日、下 8日、海路14日
 土佐国 上35日、下18日、海路25日

「上」は荷物を持って上京するに要する日数、「下」は空荷になった帰途の日数で、当然、帰りの方は日数が短い。
 海路は回漕の場合の日数で、貨物輸送には便宜な面があるが、遭難すればすべての荷を失うから貢進物は陸送を原則とした。土佐からの貢納船が遭難したとの記事があり、遭難した場合の損害の負担割合も定められた。
 写真は愛媛県西予市にある「愛媛歴史文化博物館」の展示で、796(延暦15)年以降の四国を通る「駅路図」である。国府の場所を現代の地名で記すと、阿波は徳島市国府町、讃岐は坂出市付近、伊予は今治市付近、土佐国は南国市付近となる。
 陸路の輸送は、おそらく駅路経由によるものであろうが、海路については港や海路をどう推定するか、河川輸送を含めるかなどがからみ、特定がむつかしい。

 9世紀の後半ごろから、陸には群盗・海には海賊が発生し、運京が大きな課題を抱える。奪われた荷は運京を請け負った郡司や富豪層の責任になるが、被害を埋めるための略奪・襲撃や被害届の偽装を誘発し、追補令が出され、差し押さえ騒動が起こる等々と世情が混乱する。これがやがて武士の発生に繋がる。
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