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初期(古代)荘園 

 「班田収授」は、天平年間(729-48)から延暦年間(782-805)までが制度の完成期とされる。この制度では耕作中の「熟田」を配布する趣旨であったから、当初から荒れ地や未墾地の扱いがが課題であった。
 そこで「墾田永代私有令」(743年)を定め、貴族に対して身分や官位に応じた限度を設けたうえで、開墾(自墾地系)・買得(墾田地系)・寄進によって私有地を増やすことを認めた。寺社に対しても「寺院墾田地許可令」(749年)で同じ法的根拠を与えた。ただし開墾された墾田(治田)は、基本的に年貢課役をともなう輸租田であり、不輸租の権利をもつ免田ではない。
 この機に「院宮王臣家」(皇族・貴族)や大寺社が、農村で力をつけた「富豪の輩(やから)」「堪百姓(力のある百姓)」いう富農層と連携して開発に取り組んだ。これは大いに進展し「大開発の時代」を迎えて、中央貴族などの所領が地方に広がった。8世紀後半から9世紀にかけて成立したこれらを「初期(古代)荘園」という。(当時は「庄園」と書いたが、学問上では「荘園」と書くのがふつう)

 ところが9世紀末から10世紀にかけて、これら初期荘園の多くが荒廃した。専属の耕作者がいなかったからで、浮浪人や逃亡人らを集めるのは不安定だし、口分田をもつ公民に請作(賃租)を依頼するのは郡司など地元有力者の協力が必要であった。
 醍醐天皇の「延喜荘園整理令」(902年)から、朝廷も抑制に転じた。荘園の拡大が国衙を通じる国庫収入の抑制に働くし、院宮王臣家が山川薮沢を占固して百姓の生業を妨害するのが理由とされた。ただし一挙に解決せず、繰り返し整理令が出された。

 このとき荘園を顕著に増やしたのが東大寺である。「造東大寺司」という国の組織が設けられ、在地の国司や郡司も協力した。東大寺の墾田限度は全国で4000町とされ、23カ国/92か所に初期荘園が形成された。四国でも、これまで封戸が見えなかった阿波と伊予にも、東大寺荘園が初見する。西大寺、仁和寺系寺院、神護寺領も見受けられる。
 阿波国名方郡の「新島荘」について、立券前後に作成された絵図が正倉院に現存する。本荘・枚方・大豆処の3地区から成り、湿地帯のなかに港も備え、産品の集散地であったことが窺える。比定地は鮎喰川沿いなど、いくつかの説がある。

 <阿波>
 新島荘(名方郡) 墾田・陸田合わせて42町余を造東大寺司が設定した。998年には田地84町余・水田1.5町・陸地83町余に増えるが、しだいに力を失う [749年 阿波国徴古雑抄]
 勝浦荘(名方郡) 東大寺領 [844年 阿波国牒]
 <讃岐>
 西大寺領塩山(多度郡) 高志和麻呂が献じた田地  [780年 西大寺流記資財帳]
 西大寺領墾田(鴨部郷) 坂本毛人が献じた塩山(製塩用の薪を採る山)[同上]
 <伊予> 
 新居荘(新居郡) 東大寺領 田4町余・畠88町余。998年には田3町余・陸地(荒廃地)93町とあるが、1153年を最後として見えない [756年 東大寺東南院文書]
 苧津(おつ)荘(伊予郡) 貞願寺領 藤原良相が施入した田49町余 [867年仁和寺文書]
 <土佐>
 久満荘(土佐郡)・田村荘(香美郡) 神護寺領 空海の弟子が伝法料として施入した (826年)
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