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王朝国家

 10世紀代の地方行政体制の変革は、地域社会に大きな変容をもたらし、この時期を「王朝国家」と呼ぶ考えが提起される。かつては律令制の形骸化が進み、古代国家の凋落期と理解されてきたのだが。
 しかし考えてみれば、国内統制が人的支配から土地支配に変わることは、中世の土地制度に繋がるもの。公権力も能動的に行使され貴族社会の栄華を生み出すわけであるから、中世に至る中間期と前向きに捉え、積極的な表現にしようというのである。

 10世紀後半からの地域社会の変容について、ひとつには実力者が交代した。古墳時代に国造などに選ばれた地方の豪族は、律令制下でも郡司・郷司などを務め、在地において徴税や運京業務に従事した。
 ところが受領の権限が強化されると、それぞれの徴税現場で国衙の要求に負名らがどう応じるかに立ち会うだけの存在となり、単なる徴税事務官に成り下がる。実際のところ考古学的にも、全国各地の「郡衙遺跡」は9世紀末からしだいに失われ、10世紀後半にはすべて消滅する。
 これに代わって「名」を背負う富農層などは、しだいに在地領主としての自立性を高め、以後に武家として力を発揮する者が現れる。

 国衙組織においても[守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(もく)]の四等官制が実体を失い、受領に直属する人びとが新しい組織において活躍する。
 国衙に、政所(文書・人事の管理)、税所(官物賦課の割り当て)、田所(土地資料・検田帳)、検非違所(犯罪・訴訟)、健児所(守衛・儀仗)などの目的に応じた組織が付置され、これを「目代(もくだい)」が統括する。
 これら組織の人材として、受領は一族の子弟・部下など「受領郎等」と呼ばれる側近をともなって任国に下った。必要な場合には京や在地で人材を募集したから、国衙の雑色人(スタッフ)として、高い能力をもつ行政官人も現れた。

 ただし受領体制は強引な徴税を進め勝ちで、現地で軋轢を起こすことを免れ得ない。受領任期4年の末期には貢納物を各所へ完納することに迫られ、自らへの蓄財もめざすから、苛斂誅求が起こりやすい。その手段として官物に高い税率を課したり、天災を蒙った損田(収穫できない田)の認定に過大な要求をしたりなどがあった。
 ここにおいて百姓らの不満が爆発し、国司を襲撃したり、苛政を京に上訴したりする事件が起こった。負名体制で納税責任者となった田堵や名主もたやすくは応じないから、郡司や富豪らと共謀して、受領を殺傷したり、その象徴である国印を奪ったりする事案もあった。これらを「国司苛政上訴」といい10世紀後半から11世紀前半にかけて頻発した。
 東洋大学の森 公章教授は、さまざまの史料から集めた事例を『古代豪族と武士の誕生』(吉川弘文館 2013)のなかで一覧する。このうちの四国関係の事例は、次表のとおりである。逆に、国司の善状を伝えるものもあるので、並記した。

国司苛政上訴.jpg

 官物の税率は段(反)あたり5~6斗がふつうとされるが、『春記』(参議・藤原資房の日記)には、1040年の讃岐国で1石5斗が賦課され、郡司が朝廷に訴えたことが記される。開墾田(治田)は本来、段別1束5把の田租を負担するだけでよかったが、段別10束以上になった例もあったという。
 上記の表に登場する弘宗王(ひろむねおう)について、広島大学の下向井龍彦教授は「国衙支配の再構成」と題する論文(『新版・古代の日本4 中国・四国』角川書店 1992 所収)のなかで、次の一文を記す。原文のまま引用する。
 “857年、讃岐権守 弘宗王は、国内百姓から告発され、政府が派遣した推問使の審理を受けて罪状を認め、在国のまま禁固された。のちに彼は越前国守の在任中にも、出挙数を増額し息利を私物化したかどで百姓から訴えられているが、他方で政府からは「すこぶる治名あり」との評価を得ていた”
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