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日本の産業革命(1)

 「産業革命」について、従来の経済理論は、18世紀の後半にイギリスで起こったビッグ・イベントであるとされた。ところが最近は「産業が変容する度合いがその他の時期と比べてさほど大きかったわけではない」との意見も提起されているらしい。
 ただし日本の産業革命は、明治期の「文明開化」の掛け声とともに、まことに大きな経済的・社会的な変革をもたらした。物品を加工する工程に欧米諸国から、近代科学技術に基づく機械制生産方式が導入され、効率化されて大規模な経済価値の産出方式が生まれた。
 これにより近世社会を支えた農業に代わって「工業」が経済活動の中核となる「資本主義体制社会」が現出する。これが日本では1880年代の後半に始まり、その後の20年ほどの間に遂行された。
 ここでは、日本の産業革命において象徴的に継起した経済事象をたどる。

 幕末から明治期にかけて、日本が対外交易の門戸を開いたとき、主たる輸出品となったのは生糸・産卵紙・茶であった。これら3品目が1868年(明治元)における輸出総額の89.6%を占めた。とくに産卵紙は、フランスとドイツで微粒子病が発生したことで輸出が激増し、1品目で輸出総額の59.4%を占めた。3品目に続いて、蝋(ろう)・番茶・玉糸・葉昆布・薬種諸品・鯣(するめ)・椎茸などが輸出された。82年(明治15)においても、生糸・産卵紙・茶の3品目が、輸出総額の70.9%を占めた。
 この状況に鑑み、政府は藩営前橋製糸場(70年)や官営富岡製糸場(72年)などを開設し、製糸工程の機械化をめざして、座繰り製糸からの脱却を図る。小規模事業者が集中する長野・山梨・岐阜などでは、1870年代後半からヨーロッパ式の器械製糸技術が導入され、これに独自の考案が加わって、1894年には器械製糸の生産高が座繰り製糸のそれを超えたとされる。ただし製糸業は特定地域の養蚕業を基礎とするから、同様の革新が列島において広汎に広がることがない。

 いっぽう日本の輸入品では、綿糸・綿布の木綿類やラシャ・毛布の毛製品などが大きなウエイトを占めた。1868年(明治元)の輸入総額において、繊維品が59.3%で、砂糖類(赤砂糖・白砂糖など)の8.6%が続いた。82年(明治15)の輸入構成比でも、木綿類38%・毛製品9.7%・砂糖類15.4%となり、3品目合計で輸入総額の63.1%を占めた。
 江戸時代における日本の綿糸生産は、国産の棉花を原料とする家内工業で、手紡績や水車を動力に用いる「ガラ紡」であった。そこへイギリスで機械生産された安価で良質な綿糸が輸入され、日本の棉作農家は苦境に陥る。日本で広く栽培されていた“太くて短い”棉花は、機械織りには適しないことが分かる。
 政府は綿紡績の機械化を企図し、1878年(明治11)にイギリスから2000錘の新鋭紡績機械2基を輸入し、愛知と広島に官営紡績所を設けた。翌年にはさらにイギリスへ新鋭設備10基を発注し、奈良・山梨・栃木・静岡(2工場)・三重・岡山(2工場)・長崎の民間9工場に払い下げた。しかし規模が小さいこともあって、採算が取れない。

 渋沢栄一の指導により、1882年(明治15)に資本金25万円で「大阪紡績」が設立される。当初はイギリス式のミュール精紡機を備えたが、70年代にアメリカで実用化されたリング精紡機の方が適合的なことが判明した。80年代後半に、15,000錘の設備を整え、外国産の棉花を採用し、昼夜二交代の連続操業を行うことで、経営が軌道に乗る。
 この成功を受けて、86年に「三重紡績」、87年に「天満紡績」「鐘淵紡績」が、各界からの資本を得て設立される。91年の大阪府下には、平野・摂津・浪花・天満・桑原・泉州・堂島に工場があり、翌年には「岸和田紡績」が設立され、近代的大型機械を擁する綿紡績工場の建設が全国的なブームとなる。90年代後半の瀬戸内8県には、紡績工場47(全国シェア63.5%)/設備66万錘(全国シェア68.5%)があった。
 これら近代的設備に、欧米諸国に比して安価な労働力が結びついて、綿糸が日本の主力輸出品となる。日本では、1890年(明治33)に綿糸の生産量が輸入量を超えて国産化を達成し、97年に輸出量が輸入量を超えたことで国際競争力を獲得した、とされる。

 かたがた1881年(明治14)に松方正義が蔵相に就任し、西南戦争の折に政府が増発した不換紙幣の整理を強力に行い、日本銀行が発行する兌換紙幣に代替した。この過程が経済に緊縮効果をもたらす(松方デフレ)が、86年には終息して経済が活況に向かい「第1次企業勃興期」(1886~89)が訪れる。
 新たな生産と経営方式が、機械化が可能な他の産業にも波及し、近代的工場の開設が続く。その周辺には新しい働き場所を求めて、各地から若年女子を含めた働き手が集まる。ここに産業に投資をして利益を得ようとする資産家が生まれ、いっぽう工場で働いて賃金を得ようとする労働者層が形成される。経済活動において「資本と賃労働」という機能的に相対する立場に立つ人びとが並存し、これが社会に広がることにより「資本主義社会」が誕生する。

 このように産業革命を把握するにおいて、綿紡績業で資本主義的生産体制が成立した事実を重視する立場を「綿業中心説」という。当然ながら、新たな生産方式がさまざまの産業に波及する過程では、これに適合するように、会社法規や金融システムなど、社会諸制度の変革が行われる。
 このとき資本を投下する側に参画したのは、対外交易の伸長に携わって利益を蓄えた実業家、前代からの江戸・大坂などの商人や各地の大小地主、さらには近世の年貢徴収権をもとに金禄公債を得た華族などであった。したがって日本の産業革命は、それ以前の近世社会と無縁に出現したわけではない。当然ながら、前代までの資本蓄積・技術・経営力などを基盤として、遂行された。
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