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古代国家の形成 統一新羅

 唐や新羅の来攻をおそれた日本でしたが、その懸念は現実とはなりませんでした。
 唐と新羅は連合して660年に百済を滅ぼし、次いでは高句麗に矛先を向けてこれを668年に滅ぼします。ところがその後、唐と新羅の間で争いが起こりました。もともと唐は朝鮮半島の支配をもくろんでいたようで、半島での支配領域を巡って戦いが起こり、日本侵攻どころではなかったのです。
 数年にわたる戦争の結果、676年に新羅が大同江(テドンガン)以南から唐の勢力を追い出すことに成功しました。ここに「統一新羅」の時代が始まり、半島において統一古代国家が形成されます。
 これが935年まで、約250年間続きました。大同江はいまの平壌市を流れる川ですから、現在の南北朝鮮を合わせたよりは狭い領域になります。 
 古代国家のはじまりにおいて、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が拮抗して、ほぼ300年にわたって覇を競いました。三国統一の過程では、新羅が唐という外部勢力と連合したことが、その後の民族感情に禍根を残したに違いありません。現在の韓国の歴史教科書では、唐を半島から追い出すに当たって、百済・高句麗遺民も新羅に協力したことに言及しています。 
 統一新羅の時代は、日本では大化の改新(645年)を経て奈良から平安時代初期にかけての時期にあたります。大和朝廷が古代国家の磐石を享受しえた時期に重なりますから、両国はほぼ似たような時代経過を辿ったことになります。
 ところで朝鮮半島の三国のうちで、新羅が最終的に覇権を得ることができたのはどうしてでしょう。
 「高句麗』は北方にあって遊牧民の気風を残していましたから、もっとも尚武の国でした。広開土王の時代(5世紀初)には、長躯、半島の南端まで兵を進めてきたことはすでに書きました。しかしその不幸は、中国と国境を接していたことでしょう。
 半島での新羅統一に先立って、中国では581年に隋王朝が統一政権を樹立します。後漢末期の184年に黄巾の乱が起こって以来、三国時代(魏、蜀、呉)、5胡16国時代、南北朝時代と分裂状態にあったのが、じつに400年ぶりに統一されました。
 隋は、その余勢を駆って朝鮮半島方面にも軍を進めます。高句麗はこれを迎え撃って、3度にわたり撃退しました(611~614年)。その戦闘はまことに苛烈で、隋王朝が2代(文帝・煬帝)・28年の短命に終わったのは、高句麗遠征によって国力を消耗したためといわれるほどです。
 高句麗が受けた打撃も大きかったに違いありません。かつては三国のなかでもっとも強勢を示していましたが、中国で618年に隋のあとを襲った唐と、新羅とが連合した軍隊によって、668年に滅ぼされてしまいます。
 「百済」も、もともとは北方出身の扶余族が建国したもので、尚武の気風があったとされます。しかし地理的に中国に近いこともあり、文物を受け入れるのに熱心で、優美な「六朝文化」に早くから親しんだため、支配層が奢侈と享楽に走ったとされます。
 「新羅」が最終的な勝利を得たのは、対外戦略が巧妙であったことが大きかったでしょう。4世紀の初めには高句麗に接近し、5世紀半ばからは百済・伽耶と連携して高句麗に抵抗し、6世紀には伽耶諸国に侵攻してこれを滅ぼし、7世紀には唐と結んで百済、高句麗を滅ぼしました。
 集権体制を整えるのが三国のなかでもっとも遅く、5世紀末~6世紀のころに官位制・衣冠制などによる共同体支配の仕組みを整えたという若々しさも幸いしたでしょう。水田稲作に適した南方に位置し、また鉄を産する伽耶地方を押さえるなどによって、経済的にも豊かであったでしょう。
 国づくりの現場では「花郎徒」(ファランド)と称する貴族青少年の一団が大きな役割を果たしたようです。6世紀のなかごろに有能かつ美しい若者が集められて結成され、平時には武術と道義を学び、戦時には戦いました。有能な政治家や軍人も、この一団から育ったといわれます。
 「統一新羅」の時代には官僚制度を整え、地方支配において郡県制のもとに全国を9州に分け、地方官を中央から派遣しました。
 古代国家は農耕に基礎をおきますから、国の収入確保には土地制度の整備が不可欠です。既成の豪族が占有していた土地(禄邑)を召し上げ、新しい官僚には官僚田を、農民には丁田を支給しました(日本でも班田収受法にもとづいて、口分田が支給されました)。 農民にとって租税負担は依然として大きいものの、戦いに明け暮れた三国時代よりは税率が下がり、貴族もより豊かな生活を享受できたようです。


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