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西条藩3万石(東予)

 <西条藩一柳家>
 一柳(ひとつやなぎ)直盛(監物)は、伊予の豪族であった河野氏の庶流(直系ではない一族)とされ、秀吉のもと四国平定や小田原征伐などで武功をあげ、1590年に尾張黒田城3.5万石を与えられる。関ヶ原合戦では東軍に属し、大坂の陣を経て、1601年に伊勢神戸(かんべ)5万石を領する。
 直盛はかねて父祖地の伊予を望んでいたとされ、36年に西条6.86万石(うち1万石には播磨国)へ加増転封となる。ところが入部途中の大坂で没したので、遺領が3人の男子に分けられる。(写真は、西条平野を一望)西条市街一望.JPG
 一柳直盛の第1子・一柳直重は西条3万石を相続し、陣屋建設に着手する。東西2町4間・南北2町15間の平地で、周囲に堀を廻らせ、石鎚連峰に発する豊富な湧水を湛えた。直重が45年に卒したあとは、2人の男子に分けられる。
 直重の長子・直興(なおおき)は2.5万石を分与されるが、京都女院御所の造営にあたり助役を怠ったとして咎を受け、65年に領地を幕府に没収される。
 次子・直照(なおてる)は宇摩郡津根など0.5万石を分与されるが、2代・直増(なおます)の1603年に播磨へ転封となり、その後は幕府領となる。

 <西条藩松平家>
 これらの幕府領は、松山藩などの預かり地となるが、1670年に紀州藩祖・徳川頼宣(よりのぶ)の次男(つまり家康の孫)である頼純(よりずみ)に与えられる。徳川御三家のひとつである紀州徳川藩にとって、支藩の性格をもつ西条松平3万石が成立し、松平頼純が初代藩主となる。
 藩の領域は伊予の宇摩・新居・周布3郡の58か村で成り、現在の地名では川之江市・伊予三島市・土居町・新居浜市・西条市・東予市に当たる。この後、新田開発や近傍との土地交換があり、幕末には68か村/4.31万石となる。
 西条藩主は江戸定府とされ、参勤交代をしないから、藩主の入国機会が少ない。入国回数を藩主ごとに数えると、初代・頼純5回、3代・頼渡(よりただ)1回、9代・頼学(よりさと)1回、10代・頼英2回を数えるのみ。国元では、御留守居(藩主の名代)と奉行らが藩政を指揮した。
 西条松平藩と紀州徳川藩の間において、藩主の人的交流はしばしば行われ、支藩が宗家に人材を供給する役割を担った。紀州藩5代・吉宗が幕府将軍となったとき、その後には西条藩2代・松平頼致(よりとし)が宗家に移って6代・宗直となった。紀州藩9代・治貞(はるさだ)も西条藩から出た。いっぽう西条藩5代・松平頼淳(よりあつ)と6代・頼謙(よりかた)は紀伊藩から来た。

 年貢率は紀州藩と同じく6公4民を基本としたが、ほとんど達成できず、藩の収入は5割あれば好成績とされた。
 3代藩主・頼渡の1732-33年に「享保の大飢饉」に遭遇した。虫害が甚大で、田畠の損耗高は23,854石に達し、幕府から貸付金3,000両・廻米4,000石を受けるなどして乗り切った。最大月における飢え人は5~6,000人であったが、餓死者は0であったという。
 その後の20年ほどは収公率35%前後が続き、5代藩主・頼淳の1753年に、近年にない豊作が予想された。そこで(豊凶を見取って年貢高を定める)検見法により、領内平均で45%ほどの税率を申し渡したところ、前年との比較で、多くは5割増、郷村によって2倍近い増徴になった。
 このため「西条3万石騒動」と呼ばれる百姓一揆が起こる。新居郡50か村のうち、16か村の農民が一揆に参加し、2,500~3,000人が加茂川川原に屯集して、結束は固い。どのように収まったかの資料はないが、翌日に農民らは帰村した。その後(豊凶に拘わらず一定の年貢率とする)定免法に移行し、年貢率が40%強となったから、ある程度、要求が受け入れられたのであろう。
 54年、首謀者3人は1年入牢のうえ斬殺、一揆の連判状や呼びかけの立札を書いた者は1年投獄ののち10里外へ追放となった。

 藩主の江戸生活で支出が嵩んだため、藩は収入増に取り組む。
 塩田開発について、3代藩主・頼渡の1723年に、尾道出身の天野喜四郎ら6名の製塩業者が古浜・西多喜浜の塩田開発に着手し、翌年に完成した。藩営では、1733年に東分塩田、1823年に北浜塩田を開発した。天野喜四郎の子孫らは、1759年に西分塩田、1865年に佐喜浜塩田を開発した。これらにより、多喜浜地区の塩田は240町歩に達し、伊予最大の塩田地帯となった。
 新田開発について、6代藩主・頼謙(よりかた)の1778年に、禎端(ていずい)新田の開拓が始まる。加茂川と中山川の河口付近では干潟が干拓され、新居郡では塩田開発に付随して新田開発が行われる。これらに有力商人も加わったので、伊予八藩のうち西条藩でもっとも盛んに新田開発が行われた。
 紙漉き業が山間部の楮栽培および加茂川の豊富な水を利用して発展し、奉書紙は「イヨマサ」という名品となり、錦絵などに使われた。宇和島藩や大洲藩では紙漉き業が農家の副業であったが、西条藩では神拝(かんばい)村に藩営の事業所を設けた。ここには紙漉き長屋(専用工場)18軒・紙蔵2棟・楮蔵2棟があり、生産職人らの住居も備わって、一種の工場制の形態であった。明治初年の神拝村の奉書移出高は1万束(480万枚)で、金額1.4万円であった。

 1718年、3代藩主・頼渡は紀州生まれの儒学者・山井 鼎(崑崙)を江戸藩士として招き、山井は27年まで西条藩に在籍して『七経孟子攷文』を著し、藩主を通じ幕府へ献納した。
 8代藩主・頼啓(よりゆき)の1805年ごろ、藩校・擇善堂が創設され、10代藩主・頼英のときまで約200年の間続く。1868年2月、土佐藩兵が朝命と称して乗り込んできたとき、頼英は徳川一門ながら、明治新政府に恭順の意を示し、官軍として戊辰戦争にも参加した。
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