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生駒騒動

 以下、讃岐高松藩の家中騒動として知られる「生駒騒動」にこだわり、しばらく話を展開する。まずは、騒動の経過をたどる。これについては、手近に次の2資料がある。
 ひとつは楽真子著の『寛永年間 生駒家家臣の争訟』が明治26年に読売新聞に掲載された長文を、秋田県矢島町の姉崎岩蔵氏が引用・抄訳し、生駒藩関係の諸資料を集大成した『讃岐・出羽 生駒藩史』(1970年刊)のなかに収録した。
 もうひとつは全く同じ内容のものが、明治27年に楽真子・後凋生の共著で『古今史譚 第四巻 生駒騒動』として刊行され、これをもとに海音寺潮五郎氏が物語化して『列藩騒動録 下』(講談社学術文庫 2007)のなかの1章とした。
 楽真子はペンネームのようで実像は不明だが、相当の資料を集め、慎重に取り扱ったと推測されるもの。讃岐の郷土史家である故・草薙金四郎も生駒騒動についてまとめている。これらから騒動の経過を時系列的にたどると、以下のようになる。

① 1621年、讃岐生駒藩3代藩主・生駒正俊が35歳で夭折し、長子の小法師が11歳ながら家督相続を許される。4年後に小法師は元服し、生駒高俊を名乗る。ただし若年のため、母方の祖父である伊勢国津藩主・藤堂高虎が後見役となる。
② 25年、高虎は讃岐における旱魃の実情を聞き、土木技術家の西嶋八兵衛を派遣する。八兵衛の働きにより水利灌漑が進んだから、公平を期するため田畠の等級変更(上田・下田など)を行うべきであるが、一向に進まない。聞くと、譜代家老の生駒将監(しょうげん)が頑固で硬直的であるという。
③ 藩内に意地っ張りで古い武士気質が漂うのを緩和した方がいいと考えたところ、生駒藩の江戸詰め御用人に前野助左衛門と石崎若狭という豊臣秀次の老臣に繋がる人物がいた。これらは世慣れており人柄にも問題がないと考えた高虎は、両名を江戸詰め家老に昇進させる。国家老は譜代派の将監ほかが務める。譜代派と前野・石崎派が人事や処遇をめぐって対立すると、江戸にいる前野・石崎は藤堂家の意向と称し、うまく立ち回る。
④ 30年、藤堂藩主の高虎が病没し、嫡男の藤堂高次が後継する。高次は生駒藩の後見役も引き継ぐ(高次は、高俊より9歳年長)。高虎の斡旋で、高俊(23歳)と幕府年寄・土井利勝の娘との婚約が成立していたところ、33年に結婚する。ただし妻は、6年後に子なくして卒する。
⑤ 将監が亡くなり、子の生駒帯刀(たてわき)の代になる(ただし将監と帯刀は同一人物との見方もある)。しだいに古株となった前野・石崎の専横が際立ち、家臣内の対立は高じ、互いに仲間を増やして党派性を強める。天候不順による凶作や幕府の手伝い普請により藩財政が窮迫し、石清尾山の松の伐採という資産処理をめぐる対立が起こる。
⑥ 37年7月、譜代家老の生駒帯刀は周囲にせかされて、前野・石崎の贅沢と専横ぶりを告発すべく「十九ヵ条の訴状」をまとめ、後見役の藤堂高次に提出する。反応がないので、38年10月に再提出する。
⑦ 39年4月、3度目の訴状が出されたところで、高次は舅(しゅうと)筋の土井家を交え、扱いを協議する。対立が公になれば生駒家が取り潰されかねないと懸念し、喧嘩両成敗を解決策とする。双方の首謀者4,5名ずつに「御家の安泰が大事」と言い含めて切腹を命じたところ、いずれも了承した。
⑧ ところが地元の譜代の若侍らは、何も悪くない帯刀らが処分されることを聞いて収まらない。この騒ぎのなか、39年12月に藩主・高俊が初めて家中騒動の次第を知る。前野助左衛門はこの冬に病死する。(このころ藤堂藩から派遣されていた西嶋八兵衛が、病気を理由に伊勢国津へ帰る)
⑨ 高俊が高次に対面を要求し、40年初に実現する。高俊は「自分が知らないうちに重臣の処罰が他家で決められた」として、解決策を承引しない。高次は自らの提案が拒否されたことに怒り「以後一円、生駒家のことを構わない」と突き放す。これを伝え聞いた帯刀は、驚いて高次に再考を願い出るが、肯んじない。解決策の瓦解が伝わり、双方ともに切腹を取り止める。
⑩ 地元の若侍らは、譜代派の処分が無くなったことに「道理が叶った」として気勢を挙げる。地元では前野・石崎派の者らを討ち取る手立てがあるとの風聞が流れ、同派の者らは衝撃を受ける。40年4月に御公儀に「訴状」を提出し、かたがた身の安全を図るためとして、一同に大坂方面への「立ち退き」を呼びかける。
⑪ 40年5月、東は引田・西は観音寺までの舟を残らず借り上げ、藩外に立ち退いた藩士は158人、家族・郎党などを含めると2~3千人にのぼった。譜代派の追撃をおそれ武器をともなったが、帯刀が押しとどめて、襲撃はなかった。
⑫ 40年7月、双方が幕府評定所へ呼び出され、吟味が始まる。1回・2回は水掛け論に終わる。3回目の席上、前野・石崎派の者が集団で立ち退いたことが明らかになると、幕府重役の顔色が変わる。藩主の承認なしに、徒党を組み武器を携えて藩外へ出ることは、重罪である。
⑬ 7月16日、騒動に対する幕府裁定が下る。前野・石崎派の18名は父子ともに切腹や打ち首などの死罪、生駒帯刀ら譜代派3名は他の大名家へお預け、となる。藩主・生駒高俊(30歳)は家中不取締りを理由に、領地を没収され、出羽国矢島荘1万石へ改易となる。ここに讃岐における生駒家54年の治世が終わる。

 こうしてみると、経歴と勤務地が異なる新旧家老の対立に発する家中騒動であり、どこにでもありそうな話である。家臣団のいがみ合いが激しかったとしても、幕藩体制を揺るがす大事ではないし、大名家を罰すべき事案とも思えない。30歳に近い藩主・高俊が途中まで本当に騒動を知らなかったのか、前野・石崎派の者らが重罪である立ち退きをどうして行ったのか、後見役の藤堂家の立ち位置は適切であったのか、などの疑問も浮かぶ。

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