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家中騒動の背景

 日本近世史が専門の故・佐々木潤之介氏は『日本の歴史 15 大名と百姓』(中公文庫 1988, 写真)の本「日本の歴史」中公文庫.jpgなかで、江戸初期における御家騒動(家中騒動)について「新しい政治動向が生まれたことをきっかけにして起こった対立関係であるといってよいものと思われる」と書き、家臣団のなかに「出自だけではなく、考え方や行動の仕方が大きく異なる」者が混在し、これが「大名の一つの財政的危機状況にさいして対立をもたらした」という。
 その典型例として、生駒騒動を挙げる。生駒藩では、江戸初期における「家臣への給与方式」の変更が家臣間で誤解を生み、対立原因のひとつになったと指摘する。

 その証左に譜代派の生駒帯刀が、新参家老の前野・石崎の専横を訴えた1637年の「十九ヵ条の訴状」に含まれる八番目の項に注目する。「第八項」を原文のままに記すと、以下のとおり。(カッコ内は、説明のために付した文言)
 「一、(前野)助左衛門・(石崎)若狭・治太夫、物成(年貢米)を壱岐守(高松藩)の台所に入れ置き、代官に申し付け納めさせ、蔵に詰め置き、コメ値段宜しき時節、件の小野木(奉行の名)に売らせ取り申し候。これによって面々の手代の扶持方、切米少しも入り申さざるにつき、勝手宜しき仕り方、誠に恣(ほしいまま)なる儀に御座候」
 この文章を現代風に意訳すると、次のようになる。「前野・石崎は、自分らの知行地から納めさせた年貢米を、代官に申付けて藩の台所に納め、蔵に詰め置き、コメの値段が好転したときに奉行に売らせている。これによって自らの手代の扶持へ回すべきコメを省いて経費を浮かすという、まことに勝手気ままな振る舞いである」

 本件については、各藩において「家臣への給与方式」を変更した経緯があったことを理解する必要がある。
 江戸初期には、禄高の高い上級家臣に限ってではあるが「地方(ぢかた)知行制」が採られた。大名は幕府から与えられた知行地のうち、藩主一家の賄いや藩政の遂行に必要な一定部分を手元に取り置き、残りの知行地を家臣への給与として割り振った。家臣は与えられた知行地から、それぞれに年貢米を収公する。
 これが時代を経るにつれて、藩が領内のすべての知行地から年貢米を収公し、そのうえで家臣に俸禄米を支給する方式に変わった。これを「俸禄(米)制」という。これの方が大量に扱うことで藩のコメ商人に対する交渉力が高まり、米価の変動に応じて有利なときに売れて、増収を期し得る。家臣それぞれが知行地から年貢取り立てるときに入用である役家(給人)に対する報酬を、節約することも可能になる。

 この視点で見ると、譜代派が怪しんで訴状の「第八項」に加えた光景は、俸禄制のもとでは当然の振る舞いであり、何の問題もない。前野・石崎派は給与方式における変更の趨勢を事前に知っており、俸禄制が採用された場合の手順を自分らの知行地において試行していたのではないか。それが知識のない譜代派の者には、それが私腹を肥やしている操作に見えたので訴状に取り上げた、と佐々木潤之介氏は指摘する。
 津の藤堂家が「地方知行制」を廃止し「俸禄制」に移行するのは1670年であるから、1630年代の讃岐の生駒藩には「俸禄制」の知識が広がっていなかった可能性があろう。このため、上記のような誤解が生じたのかも知れない。

 江戸初期という大きな変動期において、さまざまの人材が藩の家臣に混じって見解の差や意見の対立があり、家中騒動に至った。このとき外様大名であることを理由に、騒動の都度、藩が取り潰されたわけではない。佐々木潤之介も上述の箇所で紹介しているとおり、仙台の伊達騒動の場合には、伊達本藩の取り潰しはなかった。
 家臣同士の対立が手をつけられないほど激しい場合には、喧嘩両成敗で双方の家臣を罰すれば済むのであり、藩そのものを取り潰す必要はない。とりわけ生駒騒動では、いっぽうの当事者の中心人物である前野助左衛門が1639年冬に死去(自害とも)したから「先年来の揉め事につき訴状がなかったとして、双方に無事に申付け」という処理でもよかった。後見役の藤堂家を叱りつけることでも、十分である。
 どうして生駒藩を取り潰したかについては、なお考究を重ねる必要があろう。
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