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ベトナム戦争後

  ベトナム戦争が終結した直後、いまだ戦争の傷が癒えないはずのベトナムが隣国のカンボジアに出兵したので、世界が驚いた。1978年のことである。カンボジアへの侵攻状態は、1989年まで11年間続いた。
  当時のカンボジアはポルポト率いる共産党が政権を担っており、国民に対する残虐非道な扱いぶりが伝えられていたものの、内政不干渉の建前から、現代の世界では隣国への侵攻にそれ相応の理由付けが必要である。
  ベトナム側の言い分では、カンボジアにはかつてのベトナム人が多く住んでおり義勇軍の要請があったこと、またポルポト一味が国境に沿って挑発的作戦を連続して行い我が領土を侵犯したことなどがあげられている(ベトナムの高校向け歴史教科書は、後者の事実を強調している)。事実、ベトナムとカンボジアの国境は比較的新しく定まったもので、歴史的経緯からして国境の両側に双方の民族が混住する実態にあり、従来から国境紛争が絶えなかった。
  ほかにはポルポトが中国共産党の影響下にあったため、隣国に中国の勢力が広がることを警戒したという考え方もある。ベトナムは長い歴史において、しばしば中華勢力の強い影響を受けてきたので、強い警戒感がある。
  北部ベトナムがベトナム戦争に勝利したとき、急速に「南部の社会主義化」を図ったので、それまで南の経済の相当部分を担っていた華僑(在越の中国人)を圧迫した。彼らの財産を没収したり、国外退去を命じたりしたため「ボート・ピープル」になってベトナムから脱出する人びと続出したことは記憶に新しい。当時、ことさらに中越関係が冷却化していた。さらには中ソ対立のさなかにあったことが少なからず影響したとも考えられる。事実、ソ連の軍事的な支援を受けた形跡もある。
  ベトナムのカンボジア出兵に対して、中国は「懲罰」と称してベトナムの国境を越えて進攻し、1979年に中越戦争が起こった。中国は85000人の兵士を26の地点からベトナム側に越境させ、ランソン市を徹底的に破壊した。16日間で撤退したが、その後も国境付近に軍隊を展開した。

  その後のベトナムは、戦争の相手であったアメリカと中国とも国交を回復した。1965-66年の不作のとき生産請負制を導入して食糧生産が増えた経験に鑑み、1986年以来ドイモイ(刷新)政策を標榜して経済発展をめざしている。
  ドイモイ政策は、多くの点で旧来型の社会主義政策を放擲するものである。産業化の方向について、重工業優先から食糧・消費財産業や輸出産業を重視する方向を打ち出した(社会主義の考えでは、まず再生産の基礎となる基幹産業を興すことが重要と考えていた)、私企業への規制緩和を進め、外資の導入を積極的に行い、食糧取引の自由化を進めた。これによって国営企業の民営化が進み、社会主義的農業集団化が崩壊した。
  経済の資本主義化と対外取引の自由化が進んだところで、ベトナムは1995年にASEANに加盟し、2007年にはWTO(世界貿易機構)に正式加盟した。政治が事実上の共産党独裁のもとにあるなかで、経済は自由化の方向をめざしており、現代の中国と同じ「社会主義市場経済」国と呼んでいいであろう。この体制の欠陥は、言論や政治の民主化(多元化)が進まないため、支配層の汚職や腐敗につながりやすいことである。現代のベトナム人から、汚職の多さを慨嘆する言葉をしばしば聞く。

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コメント 1

アヨアン・イゴカー

>汚職の多さを慨嘆する言葉をしばしば聞く。
ベトナムよお前もか
ですね。
by アヨアン・イゴカー (2009-08-01 00:06) 

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