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大洲加藤藩(後期)

 9代藩主・泰候(やすとき)は6代・泰衑の四男で、1769年に10歳で襲封する。
 70年、百姓一揆の「歳川騒動」が起こる。喜多郡歳川村の農民約160人が年貢の軽減を願い出たが、いっこうに聞き入れられないので、隣の宇和島藩へ逃散した。役人の説得に応じて帰村するが、藩は首謀者を特定できず、歳川の庄屋と組頭を逮捕した。
 これを知った2名の者が首謀者を名乗り出て、藩はこれを打首とし、荒間地(あらまじ)峠に7日の間、晒した。ひとりの妻は、毎晩、3km余離れた自宅に夫の首を持ち帰って添い寝して、朝には峠に返したという。村人は2名に恩義を感じ、峠に石仏を立てた。

 75年、奉行の加藤光俊が、砥部村で砥石を作るときに出る屑を原料に磁器を生産するよう命じられる。肥前・大村藩から安右衛門ら5名を招くなどして苦労を重ね、77年暮れに3回目の焼成で成功した。以後、地場産業として定着し「砥部焼」として知られる。
 安芸から蝋職人3人を招いて五十崎(いかざき)で始まった木蝋生産も、技術改良で良質品が作られるようになり、内之子周辺が生産地となる。77年、ハゼの立木改めを実施し、一本につき銀札1歩の運上金を課す。蝋の出津(出港)についても、一丸(75斤入り)につき銀札7匁の口銭を課し、これが大洲半紙と並んで、藩の重要財源となる。
 86年、関東筋並びに伊豆川々の普請手伝いを幕府に命じられる。このころ川普請などの公役は工事請負ではなく工事費を納入することとなっており、6,400万両を納めた。資金調達のため、富裕な商人に御用銀を課した。
 新谷藩成立からすでに164年を経たところで、新谷藩の家臣に本藩に対する不心得があるとして、87年にこれを諫める「新谷御和順御書付」を発する。両藩の者が年中行事・接見・訪問などで相まみえる折の礼儀や作法に関し、席順・言葉遣い・態度・衣服・所作などを細かく定めた。
 泰候は治世18年にして、27歳で没した。

 10代藩主・泰済(やすずみ)は泰候の長男で、父の死にともない、1787年に幼年で家督を継ぐ。大伯母が幕府老中・松平定信の後妻となり、定信の娘を妻にも迎えたことで、定信との関係が深い。
 99年、城下で「寛政の大火」と呼ぶ火災があり、類焼家屋781軒・死者6人に及び、城下町が全滅した。藩は救援のために、米150俵・塩50俵を放出した。同年、美濃・尾張・東海道筋川々の普請手伝いの幕命を受けた。
 これらのため1803年からの8年間に3回の省略(倹約)令を出し、また藩の機構を改革したことで、藩財政が一時的に安定したという。13年に藩の貯金が11,000両あり、家臣への給与も高100石当たり30石前後で推移する。
 しかしこの間にも、06年に江戸の中屋敷・下屋敷が類焼し、08年には伊能忠敬一行が測量のために来藩して、対応に追われた。09年、災害などにより支藩の新谷藩が財政破綻し、独立藩としての機能を停止したので、行財政の両面で大洲藩が5年の間管理した。
 13年と23年に関東川々の普請手伝いの幕命を受け、藩内の豪農・富商に御用銀を命じ、各村に村高1石につき6升の高掛りを申付けた。

 こうしたなか1816年に「大洲紙騒動」が起こる。大洲半紙の人気に乗じて、藩は喜多郡五十崎と浮穴郡北平の両村に楮役所を設け、専売制の運用を強化する。紙方の役人と商人が結託し、紙漉き百姓から買いたたいたり農繁期にも供出させたりして、暴利をむさぼった。
 これを見かねた喜多郡柚木村の庄屋が北只村の庄屋らに持ちかけ、百姓らとともに藩庁へ強訴することを企てる。しかし密告する者が出て、首謀者3名が打首、1名が流罪に処された。村を支配する庄屋階級から、不正を糾弾する首謀者が出る時代となった。
 20年、泰済は綱紀粛正と士風振起をめざし「文政法令」を発する。城中の儀礼に際しての制服や伴(とも)方の人数などを定め、音信贈答における質素倹約などを命じた。
 泰済は、26年に治世39年にして卒する。享年42とされる。
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