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百済滅亡 落花岩 白村江の戦い

 三国のうちで日本との関係がもっとも深かった「百済」でしたが、三国のうちではもっとも早く滅びました。660年に唐と新羅の連合軍に攻められてのことです。
 百済の最後の首都は扶余(プヨ)でした。韓国中央部の西よりに位置し、いまは人口減少に悩む静かな町です。扶余郡は1町15村からなり、人口はあわせて8万人余といいます。
 扶余に、現在名では錦江(クムガン)という河が流れています。かつては白江とか白馬江とも呼ばれました。この河に臨んで扶蘇山(プサンソン)という小高い山(海抜94メートル)があり、百済時代には山上に王宮の泗沘城(サピンソン)が建っていました。
 この扶蘇山が悲劇の舞台となります。660年に百済がまさに滅びんとするとき、宮女3000人が辱めを受けるのをおそれて岩頭から河に身を躍らせたというのです。落下する彼女らの衣装がヒラヒラとなびいて、まるで落花のごとくであったので、岩頭に「落花岩」という名がつけられました。
 前項でも紹介した皐蘭寺(下の写真)の欄間には、日本へ仏教を伝える図とともに、そのようすを描いた壁画があります。錦江から落花岩を仰ぎ見た現在の写真とともに下に掲げます。
 扶余町の中心部から壁画がある場所への道程は、一度扶蘇山に登ったあと錦江に向けて山を下ることになりますが、かなりの時間と脚力を要するので、錦江に就航している遊覧船に乗るのが便利です。なにがしかの料金が必要ですが、客が集まれば出発する不定期船のようです。
 この錦江が、日本と半島との関係で重要な戦闘の舞台となりました。日本では白村江(ハクスキノエ)の戦いとして有名です。実際の場所については諸説がありますが、錦江の河口というのが有力です。
 660年に唐・新羅の連合軍の攻撃によって百済が滅んだのち、その遺臣が百済復興運動を起こし、しきりに倭国の応援を求めました。これに呼応した倭の水軍が朝鮮半島に赴きますが、白村江の戦いで惨敗してしまいます。
 その状況について、韓西古代の研究者である全榮来氏は著書の『百済滅亡と古代日本』(雄山閣)のなかで次のように書いています。
 「満ち潮によって白江口を抜け出た倭軍は、間もなく引き潮に出くわした・・・倭軍戦船は敵陣近くで挟み撃ちにあい、ぬかるみの真ん中に釘付けにされ進退窮まってしまったのである。ここで唐軍は左右から攻撃し、船に火をつけると倭軍は水に飛び降りて溺れ死ぬものが多かった」。
 倭の水軍は400艘という大軍でしたが、川底が浅いために潮の干満によって船の動きが取れなくなるという自然条件を知らなかったようです。そのため、170艘の唐軍に敗れてしまいました。
 そのあたりのようすを韓国の『高等学校国定国史』で、みてみましょう。
 「内部的な政治秩序の乱れと支配層の享楽によってすでに国家的な一体感を喪失していた百済は、結局泗沘城が陥落し、滅亡してしまった」「百済滅亡後、各地方の抵抗勢力は百済復興運動を起こした。彼らは4年間抵抗したが、・・・挫折した。このとき、倭の水軍が百済復興軍を支援するため白江(ペッカン)入口まで来たが、敗れて追われた」
 当時の倭国の当局者は、大いに驚いたでしょう。
 完膚なきまでの敗北に「唐・新羅軍が勢いにまかせて日本に攻めてくる」ことを危惧しました。そこで朝鮮半島から近畿地方にいたる道筋に防御のための砦を築きました。これがいまに残る朝鮮式山城遺構です。百済滅亡などに際して渡来してきた人びとの技術指導によって造られたのでしょう。
 いま我が国で古代山城と確認されているものが、22 あるそうです(高松市の山元敏裕氏による)。
 このなかでは、高松市の屋島城(やしまのき)、坂出市の城山(きやま)、岡山県の鬼の城(きのじょう)と大廻り小廻り城(おおめぐり・こめぐりじょう)、愛媛県西条市の永納山城、山口県の長門城、大宰府の大野城、対馬列島の金田城などが、よく知られています。
 これら古代山城の多くは海を望む高地にあり、石組み遺構などが残っています。近年、郷土史家によって活発な発掘や研究が進められ、城門や水門などが復元されているところもあります。
 この地方に多い「桃太郎伝説」(鬼が島伝説)の多くは、古代山城からの副産物でしょう。


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