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川之江藩 & 幕府領(別子銅山)

 <川之江藩一柳家>
 現在、四国中央市に含まれる川之江には、仏殿城と呼ばれる中世の山城跡があった。1337年に土肥氏が南朝方の砦として築き、仏殿と仏像を持ち込んだので、その名があるという。伊予・讃岐・阿波3国の国境に近く、戦国時代には何度も戦場になった。
 関ヶ原合戦のあと伊予に襲封された加藤嘉明が、1602年に織豊系城郭に改築し、石垣や枡形虎口を整えたとされる。しかし嘉明が松山城を居城としたとき、または「一国一城令」(1615年)によって、廃城となった。
 1636年、一柳直盛の第2子・一柳直家が、伊予の宇摩・周布両郡1.86万石と播磨の小野1万石を合わせ、2.86万石を領して川之江に入る。城の再建を計画したが、直家は入部6年目の42年に、参勤交代の途次に44歳で急逝する。男嗣がないため御家断絶となるが、直家は臨終のとき、自分の娘を弟・直頼の妻の弟(直次)に嫁がせ、養子とする申請をした。直次への相続は、播磨小野の遺領1万石のみが認められる。川之江城パンフレットから.jpg
 いま、鷲尾山の山頂に「川之江城」と呼ぶ天守が建つ。1984年に川之江市が市制30年を記念して、岐阜県(美濃)の犬山城を模して建てたもの。(写真は「川之江城パンフレット」の表紙から)

 <幕府領>
 一柳家から没収した宇摩・周布両郡1.86万石の地は幕府領となり、1643年に松山藩へ預けられる。松山藩が預かり地を返上したので、1677年ごろ以降に幕府直轄地となり、代官が大坂から派遣された。

 <別子銅山>
 越前から大坂に出てきた泉屋(住友吉右衛門)は、1623年ごろ、主として銅の交易と精錬(銅吹き)の商いをしていた。当時「銅」は日本の主力輸出品であり、泉屋は阿仁・尾去沢鉱山を稼行し、備中・吉岡鉱山の再生を手掛けていた。
 あるとき吉岡鉱山の一鉱夫が「かつて働いた伊予・新居郡の立川鉱山の南側に有望な露頭を見た」と語る。吉岡鉱山の支配人の田向はさっそく伊予へ調査に向かい、事実を確認し、1690年10月に川之江代官所へ採掘願いを提出した。
 地元の祇大夫がもともとの発見者であったから、競願となる。発見は泉屋の方が遅いが、願書の提出は早かった。出銅高に応じ幕府に納める運上金を泉屋の方が多く提示したこと、相当の資力と技術力を要する事業と推定されたことなどから、91年5月に泉屋に採掘許可が下りた。
 別子銅山の採掘現場は高峻な深山のため、採鉱に難渋を極め、8月に採掘を開始して91年の産銅高は5122貫目であった。その後は順調に拡大し、98年に40.56万貫目(≒150万kg)と91年の80倍となり、我が国の産銅量の1/4を占める。別子の盛況ぶりは「豫洲銀バコ白鼠」「別子長者三番ツヅキ」などの芝居につくられ、大坂の劇場で上演されて、住友家が世間体を気にするほどであった。

 1693年、鉱山に大風と出水による被害があった。94年には、火災でほとんどの山中施設を失い、死者132人(142人とも)、資材物資の損壊高5,400両の被害があった。95年に再び大風雨に襲われ、死者6人・損害2,200両を出した。(ちなみに94年の鉱山人口は14,000人超)
 95年、隣接する立川銅山との間で、境界争いが起こる。ふたつの鉱山の鉱床はひと続きと分かり、この場合、地表面の境が鉱床の境になる。これが2つの村の境界に当たり、西条藩と幕府領の係争地でもあった。幕府評定所の吟味に回されて結審までに3年超を要し、立川側がすでに59間分堀越しているとの結論となって、別子銅山側の主張が通る。
 1702年、幕府から永代請負稼行権を取得し、稼行体制を計画化する。03年、薪炭や荷物置き場が必要となり、土地交換を行って、面積2倍超の平地を西条藩に譲ることで対応した。(その後、立川鉱山は経営不振となり、1748年に泉屋が買収する)

 江戸期の住友家は、銅業のほか金融・貸家・小作の経営も行うようになり、大坂本店と別子銅山が2大事業所となる。1770年の手代人数は、本店23名/別子銅山40名と別子の方が多くなる。別子には管理部門のほか、採鉱・精錬・製炭・中継・船積の5現業部門があった。
 しかし江戸期を通じて、産銅量が次第に減少する。1819年には吉野川筋で鉱毒問題が発生し、43年と55年に休業願いを提出したが、幕府の援助により切り抜けた。明治期に入って、日本有数の銅鉱山として立ち直り、住友財閥の礎を形成する。
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