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大名改易は状況次第

 徳川政権は豊臣家を滅ぼすと、待っていたかのように、瀬戸内海の両岸を徳川系の大名によって固めた。ということは、諸大名の運命が時代や地理的要因によって、左右されることを意味する。つまり時と場所が違えば、幕府の対応が異なり、大名の運命も変わる。

 地理的要因についていえば、弘前津軽藩4.7万石の「船橋騒動」は、生駒藩と類似の家中騒動ながら、幕府裁定の内容が大きく異なった。船橋騒動にも、重臣間の対立があり、家臣の集団立ち退きがあった。もっとも時期的には、ちょうど武家諸法度の改正と前後した事案ではあるが。
 弘前藩の3代藩主・津軽信義は、先代の長男として関東の下館で育ち、1633年に15歳で弘前へ入部する。このとき傅役(もりやく)の船橋半左エ門を伴ったところ、弘前における新参者の船橋と弘前勤めの長い譜代家臣との間で、対立構図が生まれる。抗争は先鋭化して船橋の殺害が企てられるほどとなり、江戸の町家に譜代家臣らが立てこもって藩主に船橋の放逐を願い出た。騒動が江戸に及んだことで幕府の知ることとなり、幕府の吟味に持ち込まれる。
 36年に出された幕府裁定は「喧嘩両成敗」とし、両当事者の船橋一派と譜代家臣は、ともに他藩へお預けとなる。このとき譜代藩士の多くが「藩から立ち退いた」が問われることがなく、外様大名の藩主も自身も若年ながら態度神妙なりとして、お構いなしであった。その後、藩主・信義は、自らの権力をあからさまに発揮したという。
 弘前という遠隔の地では、大名改易をしても、適当な後任が見当たらなかったのかも知れない。実際のところ「大坂の陣」以降では、列島の遠隔地における大名改易は皆無であった。北方では仙台・秋田・青森の以北において、また四国では南半分において、大名改易がなかった。中国地方西端の毛利氏、九州の南半分を領した島津家と西方を領した鍋島氏も、改易がなかった。

 時代的要因について考えると、幕府は1615年と35年の武家諸法度の制定・改定で大名統制を強化し、40年の生駒騒動と山崎池田騒動の2件の大名改易が分水嶺となる。
 1637年の「島原の乱」には、大名改易などにより牢人となった武士が、全国から掛けつけた。「由比正雪の乱(慶安の変)」は、軍学者らが牢人を結集し、江戸や駿府で蜂起することを企図した事案であった。密告により、51年7月に決起寸前で抑止されるが、当時の全国の牢人数は40万人との推計がある。
 51年8月、4代将軍・家綱の時代が始まると、大名改易の件数は激減する。御家断絶の大きな要因とされた「無嗣廃絶」も、1663年の武家諸法度の改定により「末期養子」が許されることとなる。末期養子とは、実子のない当主が危篤になったとき、御家断絶を避けるため、急いで縁組の承認を願い出た養子のこと。
 家康から家光に至る3代の48年間(1603~51年)に、改易(領地没収)された大名家領は198家・1612万石であった。しかし4代・家綱時代の29年間(51~80年)には22家・67万石で、5代・綱吉時代の29年間(80~1709年)も33家・135万石に留まる。
減少した大きな理由は幕府の姿勢の変化であろうが、諸藩の家臣団においても戦国の気風が薄れ、組織のなかで片意地を張ることが少なくなった。また家中騒動が明るみになると、幕府の裁定はどう出るのか分からないから、一段と家中限りで治めようとしたことが考えられる。

 「藩」という人間集団の常として、内部対立が無くなることはない。17世紀中葉以降に表沙汰となった家中騒動には、紛議が極大化し、どうしようもなくなったケースが多い。幕府の対応も多様になった。人口に膾炙した御家騒動の事例を、いくつか以下に示す。
 1671年の「伊達騒動」は、仙台伊達藩60万石の3代藩主が、放蕩を理由に隠居を強要され、幼君が後を継ぐ。藩内がざわつくなかで、伊達一門の重臣間で領地争いが起こり、幕府裁定に持ち込まれた。江戸の酒井大老邸における幕府吟味の最中に、刃傷事件が起こり、3名惨殺という事件になる。
 幕府の処分は、刃傷沙汰を起こした伊達兵部宗勝が領した一関藩3万石は取り潰され、領地が仙台藩に返され、数人が処罰される。しかし本藩の仙台藩は注意を受けただけで改易なし。外様の雄藩ではあるが、場所が東北という地理的要因も大きく働いたであろう。
 1681年の「越後騒動」は、徳川一門の越後高田藩26万石において、藩主・松平光長が後継としていた嫡子が病死した。そのため新たな後継者をめぐる争いが起こり、幕府が裁定しても治まらない。どうしようもない事態であるとして、大名改易となる。
 1754年の「加賀騒動」は、加賀前田家100万石において、異例の出世をした家臣が主君に毒をもったとして、罪を問われる。終始、幕府は介入せず、本人が自決したことで、事態が終結する。今日では冤罪であったとの説が、有力である。
 1835年の「仙石騒動」は、但馬出石藩5.8万石において、財政が窮迫するなか、増収・倹約を図ろうとする改革派と、それを阻止しようとする守旧派との間で、対立が激化する。藩主交代などもあるが、事態は二転三転して定まらず、幕府裁定により3万石に減封された。
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