SSブログ

マカオ(澳門)

世界は15世紀の末に「大航海時代」に入りました。1492年にスペイン女王の支援を得たコロンブスがアメリカ大陸に到達しました。1498年にポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達して、アジアに到る大西洋・アフリカ南端まわりの航路を発見しました。ここにおいてスペイン、ポルトガルの両国は競って世界の海に乗り出し、世界が初めて航路を通じてつながりました。

アジアに現れたポルトガル人は、アフリカの喜望峰を廻ってインドに到り、やがてマラッカ海峡を経て東アジアへ来ました。中国大陸の南端に滴る水のように小さく飛び出た半島を見つけて住みつきました。その地が現在のマカオです。

漢字で書くと「澳門」となるように入り江の入り口にあります。その後の時代に、このあたりに現れたイギリス人がすぐ東側に住みつき「香港」の市街を作りました。したがってふたつの植民都市の距離はたいへん近く、ターボジェットの高速双胴船で往来すると正味の乗船時間が1時間ほどであることは、すでに書きました。

ポルトガル人が到達した土地には「媽祖閣」という社がありました。上陸した者が「ここはどこか」と尋ねたのに対し、現地の者が御社の名前である「マコウである」と答えたため、それ以降、ポルトガル人がマカオと呼ぶようになったといわれます。

媽祖(マソ〉は交易や漁業に従事する中国人にとって海の守り神です。日本におけるコンピラさんのようなものです。中国の海岸部の都市にはそれを祀る社があり、彼らが多く移り住んだベトナムのホイアンにもありました。中国の民俗宗教である「道教の神さま」としていえるでしょう。

いまも当時と同じ場所に15世紀に建てられた社(写真参照)があり、参拝の人びとで溢れて線香の煙が絶えません。我々の観光バスが到着したときにも、線香の売り声が門前の店からかまびすしく発せられます。いまや外見で日本人と中国人とを区別するのがむずかしくなったようです。(ひとむかし前までは、服装などで何となく見分けられたのですが)マソ閣.JPG

ポルトガル人はマカオを東アジア地域に対する交易とキリスト教布教とを行う基地としましたので、本国から移住する者も増えました。日本との関係も増大し、1543年に種子島へ鉄砲を伝えたとされるポルトガル人はマカオを根城として活動していたのでしょう。

日本人の側でも、当時盛んになってきた御朱印船貿易などに関わる者がマカオに移り住んだようです。やがて秀吉、引き続いて家康によってキリシタン禁制がきびしく実施されるようになると、追放されてマカオに移り住んだものもいたようです。

1887年にポルトガルと清国の間で正式に植民地契約が結ばれ、100年余りを経た1999年に中国に返還されました。ただし「一国二制度」のもと、以後の50年間は「特別行政区」として従来どおりの体制が続くことになっています。

土地の広さは日本の皇居ほどです。そこに人口が50万人余というから超過密都市です。ビルがそびえ立ち、路地が狭く入り組んでいますから、大型のバスが行きかうのに難渋します。ポルトガル文化の色彩が教会や市街地の景観に色濃く残っています。もともとの文化的素地は中国風であったでしょうし、その後は日本の企業進出も含めて各国の文化要素が入り込んでいますから、それらが渾然一体となって一風変わった異国情緒をかもし出しています。マカオ マリア像.JPG

後述する聖パウロ教会、聖母マリア像が美しい聖ドミニコ教会(写真参照)、ポルトガル風の議事堂前広場であるセナド広場、植民地戦争に際してオランダ船を砲撃した砲台のあるモンテの砦(要塞)などが歴史遺産です。これらのまわりには地元のさまざまの商店や土産物屋が集まっていますから、それらの路地を周遊するというのが観光のハイライトです。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(2) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 2