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伊予・吉田藩(後期)

 6代藩主・村芳(むらよし)は、江戸生まれの江戸育ちで、1790年に13歳で家督を相続した。入部(最初の御国入り)は94年であったから、93年の武左衛門一揆の経緯には関わらなかったとみられる。
 94年、藩士教育のため藩校の時観堂を開設した。97年、藩財政の立て直しのため、家臣の減俸を断行した。しかし朝鮮通信使の接遇に上納金を課され、1813年には関東川筋普請に3870両余の支出を強いられて、村々の風儀を順守し諸事に出精するよう命じた。
 1816年、村芳は隠居して婿養子に家督を譲り、4年後に43歳で没した。

 7代藩主・宗翰(むねもと)は、宇和島藩6代藩主・村寿の四男で、吉田藩6代・村芳の婿養子に迎えられ、1816年に就任した。
 藩財政が困窮するなか、22年に倹約令を発し、藩士に生活上の節約や接待の簡素化などを命じた。また兼業収入を得させるため、内職を奨励し、下級武士には職人見習いを勧めた。
 大坂商人からの借金が20万両に増嵩していたのを、20年以上前の分を帳消しとし、残りを無利子・200年賦とした。かたがた余裕のある町家に借上げ銀を命じ、2度にわたる江戸藩邸の焼失などに対処した。
 宗翰は、39年に旗本・山口直勝の三男を養子とし、43年に家督を譲って隠居し、2年後に50歳で卒した。

 8代藩主・宗孝(むねみち)は、宇和島藩8代藩主・宗城の実弟に当たる。ただし「幕末四賢候」のひとりとされた兄の宗城とは異なり、務めぶりが奔放で、6000両の借金を新たにつくるなど悪名が高い。
 旗本の子として江戸育ちのため、在国を嫌い、江戸にとどまることが多かった。くわえて兄・宗城と対照的に、佐幕派の急先鋒であると公言して、江戸で論陣を張った。宗城がたびたび意見をしたが、態度を変えなかったという。
 戊辰戦争が始まり幕府軍が劣勢になると、さすがに佐幕論を引っ込めた。宗城の取り成しによって、養子に家督を譲ることを条件として藩の取り潰しを免れた。68年7月に隠居し、99年まで生きて、79歳で没した。

 9代藩主・宗敬(むねよし)は、旗本・山口直信(宗城・宗孝の父である山口直勝の長兄)の次男で、68年7月に就任した。69年、藩校の時観堂を文武館と改称し、同年6月の版籍奉還まで、吉田藩は214年間続く。ただし幕末期に佐幕を主張したことで後難を恐れたのか、藩政資料を焼却した形跡があり、吉田藩の動静記録が十分に伝わらない。
 1870(明治3年)3月、宇和島藩で年貢減免や庄屋解任を求める「野村騒動」が起こり、これが北宇和の吉田領内にも波及した。4月、山奥・川筋の郷民が旧藩時代の悪政改革を叫んで一揆し、農民700人余が屯集した。藩庁は首謀者2名を処刑するなどし、その刑場が三間街道あたりにあったので「三間騒動」と呼ばれる。
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