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大洲加藤藩(中期)

 6代藩主・泰衑(やすみち、写真;如法寺蔵)は、旗本・加藤泰都(文麗)の長男として江戸で育っ加藤泰衑(如法寺蔵).jpgたが、先代の死去にともない、1745年に先代・泰温の娘の婿養子となり家督を継ぐ。
 藩財政は窮乏しており、46年に藩札「延享札」を発行し、また紙方仲買連中を定めて和紙を重要産物に位置づけた。48年には向こう3ケ年の倹約令を発し、50年には凶作に備えて村々に麦の非常備蓄を命じた。
 家臣への給与は高100石につき20石であったところ、51年に米豆15石に引き下げたが、52・53年には19石とやや回復した。56年、藩から御用銀の拠出を命じられた豪商が、京の堂上方(公卿・殿上人)に借銀申し込みをした記録がある。

 こうしたなか1750年に「内之子騒動」と呼ぶ百姓一揆が起こる。藩が田租を引き上げたことを機に喜多郡内之子村の農民が蜂起し、庄屋や豪商宅へ押し寄せ、打ちこわし・道具の破却を行った。大洲藩では初めての大規模強訴で、藩領の3分の1に広がる。
 農民らは数日かけて内之子河原に屯集し、急造した小舎で起居して、18,000人規模に膨れ上がる。要求は年貢・紙統制・役人らの不正など29カ条から成り、新谷藩が取り次ぎ、大洲藩へ伝えた。具体的には、年貢率を四公六民と定率にする、災害時などには実態に即し年貢率を引き下げる、庄屋など村役人の特権や横暴を停止する、御用紙を市中並みの値段で買い取る、藩主の用向きで出勤する浦方にも手当を支給する、殿様の直仕置とする、などであった。
 藩当局は古来の慣習によるものは変えられないとしながらも、17カ条について回答を示したので、一揆は終息した。寺の住職らが調停に立ち、首謀者の追求を行わない旨が約束されたが、曲折があった。頭取が割り出されて吟味され、入牢者が出たが、藩主が大洲に戻ると無罪放免になったとされる。

 紙漉きの殖産について、五十崎郷の岡崎治郎左衛門が始めた藩の御用紙漉きとともに、吉田宗昌が始めた民間の紙漉きが発展した。内山地域一帯の村々で盛んとなり、良質の大洲半紙が全国で人気品となる。
 57年、藩は内子など3ヵ所に紙役所を、五十崎など3ヵ所に楮役所を置いて、紙漉きの原料・生産・販売について統制した。関係者に資金を貸し付けるとともに、私的販売や抜け紙を禁じ、集荷した商品を大坂へ送った。62年の藩内には、半紙漉き職人2,319人、小間紙漉き職人799人、楮の仲買人134人が居たという。

 泰衑は学問や歴史にも造詣が深かった。藩校・明倫堂の工事が一時的に停止していたのを再開し、完成させた。広く史料を集め、大洲藩主・加藤家に関する家史をまとめ、59年に『北藤録』二十巻が完成した。さらに歴史に興味がある者を集め、昔語りをさせて『温故集』を作った。
 嗣子について、先々代の泰温には死後1カ月のとき男子が誕生したので、これを養子とした。本家筋への遠慮であったか、泰衑は在職17年にして35歳でこの養子に家督を譲り、62年に隠居した。ただしその後、短命の藩主が続いたので重要な存在であり続け、84年に享年57で卒した。

 7代藩主・泰武(やすたけ)が、1762年2月に家督を継ぐ。財政難のため、5月に家臣への知行について「飢渇に及ばざるまで下されるよう極められ」との趣旨を示し、藩士の給与を「高100石につき9人扶持」に引き下げた。100石扶持の家臣は、家族・使用人を含め9人を養うと想定し、大人ひとり1日5合の計算で9人分のコメだけを支給するもの。大洲藩における最低の給与水準とされ、このとき初めて採用され、江戸期において少なくとも4度実施された。
 68年、尾張・美濃・伊勢の川浚えにつき手伝い普請の幕命を受け、家臣や村々に、献米・献銀を割り当てた。同年、麻生村周辺で水争いがあり、長浜で178軒を焼く火災があった。
 泰武は治世6年にして24歳のとき、肺気腫で没した。男嗣がなく、先代・泰衑の次男を養嗣子とした。

 8代藩主・泰行(やすゆき)は、1768年に家督を継ぐ。しかし翌年に17歳で夭折し、嗣子なく、弟(泰衑の四男)が後を継ぐ。この間、湊町で約80軒を焼く火災があった。
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