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大洲加藤藩(幕末)

 11代藩主・泰幹(やすもと)は、先代・泰済の長男で、1826年に13歳で家督を継ぐ。
 たびたび風水害に悩まされ、1804年に続いて26年にも肱川が氾濫し、田畠は損耗し、家屋が倒壊した。肱川の流路幅を広げるべく、31年に肘川盆地の西北隅にある河川の合流箇所で、山郭を開削する工事をした。ただし思ったほどの効果がなかったようで、44年には水害による損耗高20,170石を幕府に届けている。
 29年、幕府により、甲斐国川々の手伝い普請を命じられた。さらに48年に大坂城普請手伝いの幕命を受け、村々に村高100石につき米6升の高掛りを申付けたほか、倹約令や家禄の借上げなどで藩の支出節減に努めた。
 領内の物価が高騰したので、幕府の御触れもあり、42年から藩内の物価調査を始めた。43年2月に生活必需品164品目の最高価格を決め「諸色値段定」を設定して、公定価格制を導入した。
 先代と同様に民政に力を入れ、泰幹も藩内を巡視し、領民と直接に接する機会をもった。治世27年間にして、40歳で卒した。

 12代藩主・泰祉(やすとみ)は、先代・泰幹の長男で、父の死去により1853年に10歳で襲封した。 53年はペリーが来航した年であり、幕府から6月に江戸城西の丸の手伝い普請を命じられた。
 54年11月5日の夕刻に発生した「安政の大地震」は、マグニチュード8台の大地震で、藩内でも死者が出て、火の手が上がり、余震が約1か月続いた。家屋の損壊が甚大で、城内の天守閣・櫓などの破損もひどかった。58年、各村の分限者に借上銀を求め、不足分は庄屋有志からの臨時賦課金に依った。
 61年、領内の長浜沖に外国船が来航した。急ぎ長浜に台場を築き、亀山で鋳造した大砲を据え、試射を行った。62年、藩士数名を京へ派遣し、薩長土など各藩の藩士と交流させ、情報の収集と分析に努めた。62年12月、朝廷から泰祉に対して滞京するよう命令があったことに応じ、京都御所や市中の警護に就いた。
 世情において尊王攘夷と佐幕の論争が激しいなか、63年10月に家臣の総登城を命じ、藩論を勤皇方に統一するよう求めた。しかし収まらないので、64年5月に泰祉自身が「藩論不統一は皇国のために申し訳ない、藩論の統一に協力せよ」と訓示するが、8月に21歳で急死した。弟が家督を継ぎことになる。

 13代藩主・泰秋(やすあき)は先々代・泰幹の四男で、1864年に18歳で後継する。
 銃器購入のため長崎に向かった藩士の国島紹徳が、計画を変更して66年にイギリスで建造された鉄製蒸気船である「いろは丸」を購入した(価格は3万両とも4.25万両ともいう)。これを藩船としたところ、土佐藩の申し出があり、大坂への1航海500両で貸し出した。
 亀山社中の坂本龍馬らが乗り組むが、備後の鞆沖で紀州・和歌山藩の蒸気船の明光丸と衝突し、沈没した。どちらに責任があるかの談判は決着せず、外国人に判断を仰いだところ、明光丸の責任とされ賠償金7万両で決着した。
 泰秋は倹約と家臣への知行削減を行って財政再建に努めるなか、軍備増強にも意を用いた。66年5月、分限者に対して御用銀1000貫の拠出を命じたが、同時に窮民救済も行った。

 66年7月、藩内で「奥福騒動」と呼ぶ大規模な打ちこわしが起こる。喜多郡大瀬村の百姓・福五郎が凶作によるコメ不足に対処するため、村役人に貯米の貸し出しを要求するが、拒否される。そこで神職の立花豊丸と語らい「諸物価の高騰は悪徳商人らの暴利による」と訴える檄文を書いて、数十か村に配布した。
 かねて豪商らの横暴を憎んでいた農民らが参集し、一揆勢は3000人余となり、酒屋や豪商を襲い、内之子40軒余・五十崎20軒余に被害を与えた。翌日には30か村から集まった人数が1万人余に達し、勢いを増す。藩は警護人を繰り出し、夕刻までに抑圧して、福五郎と豊丸が獄死した。
 1750年の内之子騒動、1816年の大洲紙騒動、1866年の奥福騒動を「大洲3大騒動」と呼ぶ。『愛媛県史 近世上』(1986年)には、このほかにも藩内で小規模ながら首謀者が斬首の刑に処された騒動が2件、未遂に終わった騒動が数件あったとする。

 幕末における大洲藩の藩兵の活動に関し、68年1月の「王政復古の大号令」のあと開かれた小御所会議の折に、御所警備に当たった。「鳥羽・伏見の戦い」では幕命により摂津・西宮の警護に当たったが、討幕の密勅に応じ長州方に転じて、長州勢の西宮上陸を支援した。
 「戊辰戦争」では京都を警護し、その後は甲府城警護に転じ、東京へも移動した。さらに品川から翔鶴丸に乗り込み、相馬を経て仙台まで進撃し、奥州などへも転戦した。明治天皇の江戸への行幸では、行列の前衛を務め、総督府から酒肴料50両が給された。錦旗 国立公文書館.jpg

 新谷藩も、1862年に就任した9代藩主・泰令(やすのり)が勤皇方で動いた。三条実美に親兵を差し出し、錦旗(写真は国立公文書館蔵)を奉行する人物の警護を担当した。松山藩の征討にも出陣した。
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