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生駒騒動 & 山崎池田騒動

 前項で江戸時代初期における大名改易に、6つの類型を示したが、生駒藩の改易はどの類型にも当てはまらない。「外様つぶし」がしばしば大名を改易した理由とされるが、その典型は第3類型であり、生駒藩は大藩ではないから当たらない。徳川一門(親藩)の大名を改易した例があるし、譜代大名については徳川家からの親疎に幅があり識別がむつかしい。
 代わって前項で示した一覧表で注目されるのは、生駒騒動と山崎池田騒動において「徒党を組んでの立ち退き」を改易理由とする事例が初めて出てくること。1640年以前にはなかった改易理由が、これら2件の家中騒動に対し、同時にかつ初めて適用された。

 そこで播磨国の宍粟(しそう)郡にあった山崎池田藩における「山崎池田騒動」の経緯を追ってみよう。
 池田氏は信長の重臣であったが、本能寺の変の後、秀吉のもとで軍功を重ね、美濃・岐阜・吉田(三河)の城主になった。池田輝政のとき、秀吉の仲介により1594年に家康の次女・督(後の良正院)を後妻としたことで、松平一門に連なる。秀吉の死後は、武断派として文治派の石田三成と対立し、関ヶ原合戦で東軍に属する。1601年、姫路藩52万石を預って、姫路城を大規模に修築し、現在に残る壮麗な姿とした。
 池田輝澄は、輝政と督の子息であるから、家康の外孫にあたる。1615年、兄の早逝にともない、播磨国で宍粟郡3.8万石を分与され、山崎池田藩(宍粟藩とも)を立藩する。さらに31年、末弟の輝興が相続していた播磨佐用郡3万石を加増され、6.8万石の大名となる。
 禄高が増えたのを機に、大坂の陣で牢人となった小河(おごう)四郎右衛門を召し抱えた。小河は藩内で重用されて家老となり、譜代家老の伊木伊織と対立するに至る。金銭が絡む紛議が発生し、姻戚関係にあった播磨林田藩主の建部政長が調停に入るが成功せず、39年に伊木派の譜代藩士ら100余人が集団で脱藩した。
 このことが幕府に出訴され、「徒党を組んでの立ち退き」を理由に伊木家老父子を含め20名が切腹などの死罪となる。藩主の輝澄は家中仕置きが不届きとして、因幡国鹿野へ移され、家康の外孫であることを理由に堪忍料(生活費)1万石を与えられる。(その後、播磨宍粟郡は輝澄の甥で鳥取藩主である池田光仲に預けられた)

 騒動の経緯からして、山崎池田騒動と生駒騒動とは、ほぼ同じ頃に幕府に持ち込まれたと推定される。二つの事案について、ともに40年7月16日に幕府の裁定が下され、その旨が同月28日に諸藩に伝えられた。裁定理由が同じで、藩主に1万石を与えて栘封したのも同じである。幕府に確かな意図があったかのように、同時進行した。
 幕府は、1635年の武家諸法度の改正において、藩から藩士が「徒党を与して立ち退く」ことを〝公儀御制禁″とじた。しかしこの禁令が世の中に浸透していないことに、衝撃を受けたのではないか。家臣が「徒党を与して立ち退いた」のであるから、家臣を処断すれば十分であるのに、藩主も改易という重い処分を下した。敢えて厳しく処断することで、朝野に警告を発したのではないか。武家諸法度の改正後に初めて、同じ事象でかつ同時期に騒動が発生したことに、両藩の不運があった。

 ときあたかも、幕政の機構改革が為された直後である。37年11月に起こった「島原の乱」への対応に、幕府は想定以上の苦労を強いられ、鎮圧に翌年2月末までかかった。3代将軍・家光が病気がちなこともあり、幕府は長期安定的な執政体制を築く必要を感じる。
 寛永期における幕府諸部局の政務と行事を記した日記類を総称して「江戸幕府日記」という資料がある。これには38年11月から実施された幕府の機構改革が記される。
 これまで「年寄」として重責を担ってきた土井利勝と酒井忠勝が「大老」に格上げされ「細かなる御役」を免除される。これに代わって、家光の小姓上がりで「島原の乱」の鎮圧にも活躍した松平信綱などが「老中」となる。これにともない[将軍―老中―諸職制]と連なる幕府の官僚組織が整えられ、以後、長く続く。
 この新体制の意気込みにおいて、生駒騒動と山崎池田騒動に対する処罰が検討された。家康と秀忠の2代に仕えた土井利勝(66歳)が第一線から退いたことが、彼の娘と婚姻関係にあった生駒高俊の処断をやりやすくしたであろう。
 両藩は[生駒藩の高松/山崎池田藩の播磨宍粟郡]と、地理的に瀬戸内地方に位置することでも共通する。このことも幕府の判断に、影響を与えたのではないか。
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