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藩主暗愚説

 生駒騒動に対して、幕府はどうして“大名改易”という厳罰を与えたのか。その謎にまつわるさまざまの疑念を、一掃する便利な考え方が「藩主暗愚説」である。生駒家4代藩主・高俊がどうしようもない愚か者であったとすれば、大名改易という選択肢を採るのに文句のつけようがない。ただしこの説を語るのは、幕府方の史料に限られる。

 1635年の「武家諸法度の改正」(寛永令)において、幕府は1615年の元和令の第13条にあった「国主ハ政務ノ器用ヲ撰フヘキ事」を削除した。「国持大名家は器用な藩主を選ぶべし」とした幕府の方針を転換したのである。
 戦国の世では、内外の情勢に器用に(巧みに)対応できる国主でなければ、領国が滅びかねない。しかし泰平の世ともなれば、主君の器用はあまり問題ではない。少々鈍い殿様であっても「主君の意向は絶対」とした方が、藩政が落ち着き、ひいては幕藩体制の安定に繋がる。
 江戸初期の統治の経験により、江戸幕府はこのことを学んだので、武家諸法度から「国主の器用云々」の条項を削除した。このため高俊の不器用を責めることができず、一挙に“暗愚”と決めつけたのであろうが、本当に高俊はそういう人物であったのか。

 内海彌惣右衛門著『真書 生駒記』(1931年刊)は、高俊を「性 発明ニシテ」と書く。実際のところ、幕府が11歳の高俊に家督相続を認めたこと、また幕府年寄の土井利勝が自分の娘の夫に選んだことから、暗愚とは思えない。
 もっとも高俊が男色にうつつを抜かしたのは事実のようだ。生駒家の大名行列には美少年が着飾って踊る「生駒踊り」が加わり、世間の評判になった。いま高松市歴史資料館に所蔵される『生駒踊舞之図』の掛け軸に、美少年が華やかに舞う姿が鮮やかに描かれている。
 ただし男色はもともと3代将軍・家光が作りあげた風潮であり、高俊はこれにおもねったのであろう。前野・石崎一派は、高俊を生駒踊りに熱中させることで藩政を壟断し、自分らの利益を優先させた。これに抗って藩政に身を入れてこそ、名君といえようが、高俊はそこまでの賢明さを持ち合わせなかったらしい。楽真子の筆遣いから、そうした姿が浮かび上がる。

 すでに紹介した姉崎岩蔵編著の『生駒藩史』には、いまの秋田県南部に移った時代における生駒家の後日譚が描かれる。
 「鳥海山の北麓にある出羽国矢島荘へは家来二百人余が従った」「高俊はここで庄屋の娘との間で3男1女をもうけ、48歳で病没した」「矢島生駒家は幕末まで続くが、早くに薩長(勤皇)方の旗幟を鮮明にしたことから、佐幕派の多い東北で周りから攻められて苦労した」
 どうやら高俊は、根っからの男色家ではなかったようだ。熱心な為政者ではなかったかも知れないが、天性暗愚には見えない。200年後の生駒家の時勢判断に、影響を与えるほどの権威を有した。
 幕末の戊辰戦争時に、東北の諸藩は「奥州列藩同盟」を結んで佐幕色に染まる。そのなかで出羽矢島の生駒家は、秋田の佐竹家とともに勤皇派に転じたため、鶴岡の庄内藩に攻められ、矢島城下が壊滅した。しかしその後、官軍による庄内藩征討では先鋒を務め、その功により、多数の者が新政府から論功行賞を受けた。

 高俊の運命が生駒家の将来を長期的に影響を与えたわけで、そういえば秋田の佐竹家も関が原合戦への不参加を理由に、常陸一国54.5万国から出羽半国20万国へ転封された。薩摩藩の島津家と長州藩の毛利家も、幕府成立時における徳川家の冷遇を原動力として、幕末期の倒幕に奔走した。御家が胚胎する怨みはすさまじい。
 ところで、生駒家の縁により、高松市と秋田県由利郡矢島町(いまは由利本荘市)は、1999年に友好都市協定を締結して、今日に至る。
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