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瀬戸内を西漸する譜代大名

 徳川家は三河を発祥の地とし、江戸へ転封され、天下を取った。「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼすと、次いでは馴染みの薄い西日本に目を向け、畿内から瀬戸内海沿いに気心の知れた大名を据える。織豊政権でも採用された方針であったが、徳川政権もそれを踏襲し、大胆に実行した。
 山陽道から北九州にかけての地域を徳川系の大名で固め終わると、1635年には対岸の四国側に視線を移す。高松生駒藩の家中騒動は1639年前後に幕府裁定に持ち込まれたから、政権にとって何とも好都合に映ったであろう。以下に、その経緯を時系列で追う。

 京・大坂を含む<畿内近国>は、皇室・公家・門跡・寺社領・幕府領などが散在し、所領が細分化している。その治安と安全を図ることが重要であるから、ここは特定の大名には任せず、幕府傘下の城代・所司代・奉行などの役所を置く。大名を配する場合も、徳川系の武功派大名とし、その兵力を駐屯させる。
 大坂城10万石へは、伊勢亀山5万石の松平忠明(家康の外孫)を移し、大坂の戦災復興に当たらせる。大和郡山城6万石へは、「大坂の陣」で功があった水野勝成を、1615年に三河刈谷3万石から加増転封させる。摂津高槻城4万石には、小牧・長久手以降の各戦に参陣した内藤信正を取り立て、17年に伏見城代に任じて1万石を加増する。
 摂津は経済的・軍事的に枢要の地であり、領内に兵庫湊もある。所領が錯綜していたので尼崎城を築かせて譜代大名の一円領とし、家康の近習上がりである戸田氏鉄(うじかね)を、近江膳所3万石から5万石へと加増転封する。

 1616年、家康が没する。17年7月、2代将軍・秀忠は上洛すると、西国の大名に領地宛行状を発給して<播磨まで>を譜代大名とした。このときまで姫路42万石を領した池田輝政は家康の次女を後妻としたが、後継した池田光政が8歳と幼少であるのを理由に、因幡伯耆32万石へ栘封することとする。そこでまず、因幡伯耆を空けるため、中・四国大名の大異動を行う。
 鳥取6万石の池田長幸(ながよし)を備中松山6.5万石へ、因幡若桜(わかさ)3万石の山崎家治を備中成羽(なりわ)3.5万石へ、因幡鹿野4.3万国の亀井政矩(まさのり)を石見津和野4.3万石へ、伯耆米子6万石の加藤貞泰(さだやす)を伊予大洲6万石へと、それぞれ転封する。(これに先立ち、伊予大洲5.35万石の脇坂安元を信濃飯田3.5万石へ移した)
 このようにして空けた播磨の地に、姫路25万石に本多忠政・忠刻を伊勢桑名から移す。竜野5万石には本多政朝(まさとも)を上総大多喜から栘封し、明石10万石には信濃松本8万石の小笠原忠真(ただざね)を移す。忠真は家康の長男の娘を母としたから、家康の外曽孫に当たる。

 1619年、秀忠はふたたび上洛する。豊臣系大名で安芸・備後を領した広島藩49万石の福島正則を武家諸法度違反で改易し、これで空いた<備後・安芸>に譜代大名を据える。
 備後福山10万石には、先に大和郡山6万石とした水野勝成を移し、城下町の建設に当たらせる。安芸広島42万石には、秀忠の小姓上がりの浅野長晟(ながあきら)を紀伊和歌山37万石から移す。(その後の和歌山55万石には、家康の十男・徳川頼宣(よりのぶ)を駿府から入れて「徳川御三家」のひとつとする)
 これとあわせて、和泉岸和田5万石には、家康のご落胤と噂された松平康重(やすしげ)を丹波篠山から移す。摂津高槻2万石には、家康の従兄弟を父とする松平家信を入れる。

 ここに至って、政権が従来から課題としてきた2つの大名改易を成し遂げる。
 一つは、家光の実弟で聡明とされた徳川忠長の処断である。24年に駿河・遠江・甲斐50万石を与えられて「駿河大納言」と呼ばれたが、数々の挙動不審や奇行を理由として、31年5月に甲斐への蟄居を命じ、10月には領地を没収して上州高崎へ移す。忠長は12月に自害した。
 二つは、豊臣恩顧の大・大名であった肥後加藤藩52万石の取り潰しである。加藤清正を後継した三男・忠広の行動に難癖をつけ、32年5月に改易する。その後の肥後には、豊前小倉40万石の細川忠利を加増転封する。
 豊前の地が空いたので、ここへは武功派として知られた譜代の「小笠原一党」を順次に配し<東九州まで>を譜代大名で固める。
 豊前小倉15万石へは、先に播磨明石10万石へ栘封した小笠原忠真を入れる。豊前中津8万石へは龍野の小笠原長次(忠真の甥)を入れ、豊後杵築4万石には小笠原忠知(忠真の弟)を取り立て、豊前龍王3.7万石へは松平重直(忠真の弟)を摂津三田(さんだ)から移す。

 ここにおいて、瀬戸内地方を徳川系の大名で埋める動きが<四国>へ波及する。
 蒲生家の無嗣断絶により空いた伊予の松山と今治に、久松松平定勝の次男・定行と五男・定房を取り立てる。ふたりの祖父の久松俊勝は、桶狭間の戦い以来、家康に与した尾張の武将で、家康の母である於大の方と再婚した。したがって俊勝と於大の方の間に生まれた定勝は家康の異父弟であり、その子らも久松松平家を名乗って、1635年にそれぞれ入部した。
 生駒騒動が幕府に伝えられたのは、この時である。讃岐高松が空けば「後へ徳川系の大名を据えることができて何とも幸便」と考えた幕府当局者が居たことは、想像に難くない。
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