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大洲加藤藩(前期)

 3代藩主・泰恒(やすつね)は加藤泰義の嫡男で、2代・泰興の嫡孫に当たる。1674年に18歳で家督を相続した。
 1680年以降、領内と江戸屋敷で火災が相次ぎ、85年の大地震も重なって、早くも藩財政が窮する。藩内に倹約を命じ、81年に家臣の俸禄を知行制(家臣に知行地を与える)から蔵米を給与する制度に切り替えるが、そのとき“知行四ツならし”(高100石につき40石を給付する)になった。83年、幕府の御触れをもとに、農民が心得るべき条々を布達した。
 水に恵まれた大洲は表高6万石のところ実収は8万石あったされるが、1702年の大洪水では1,300軒超の家屋が倒壊し、その後も繰り返し出水・洪水に悩まされる。04年、江戸城石垣の普請手伝いの幕命があった。
 泰恒の在職は、40年余に及び、59歳で卒した。

 4代藩主・泰統(やすむね)は、泰恒の次男で、父の死により1715年に27歳で襲封した。
 農民からの年貢につき、16年からの5年間に「定免制」を採用し、豊凶に拘わらず一定量の年貢を収公する制度とした。公定年貢率は地味などに応じ50∼80%で、実績の平均値は62∼63%であった。
 17年、幕府から鍛治屋橋門の手伝い普請を命じられ、家臣の給与を「引上米(差上米)」と称して2~3割借り上げた。これ以降、この措置がほぼ恒例化する。
 22年、幕府は「上米制」と称して、高10,000石につき100石の米を幕府に納入すれば、参勤交代時の江戸在府を1年から半減できるとした。ただし藩財政への効果は、不明とされる。
 23年、城下で440軒を焼く火災が発生し、27年に省略令(倹約令)を出した。泰統は在職12年にして、39歳で没する。加藤泰温(如法寺蔵).jpg

 5代藩主・泰温(やすあつ、写真は如法寺蔵)は泰統の長男で、1727年に11歳で家督を継ぐ。城下は水路に面し、地名が大津であったが、このころ大洲に変えられた。
 30年、幕府が藩札の発行を許可したので、向後5年間の藩札発行の許しを得、31年に藩札「大洲享保札」を発行した。32年閏5月、城下で大火があり、侍屋敷等60軒・町家334軒・寺2軒を焼き、死者8人であった。そこへ「享保の大飢饉」に襲われる。
 1727~31年の5カ年平均の貢租収納高が37,582石(表高の35%)であったところ、32(享保17)年は春ごろからウンカ・イナゴが大発生し、13,121石に激減した。32年10月の飢え人が3.05万人で、33年2月には飢え人5.7万人/斃死牛馬100匹であった。
 33年12月、幕府から5,000両を拝借し、大坂奉行所からの御払米について大洲藩9,500石/新谷藩1,800石を買い請け、飢え人救済に当てた。35年3月、諸役所に諸事節約を求める「入用向き省略令」を発した。37年に御納戸・御台所の費用を緊縮予算とし、執行に当たり家老の事前承認制とした。
 40年、城下で600軒を焼く大火があり、城下に瓦葺きを命じた。富裕な商人に苗字帯刀を許す代わりに、御用銀や御用米を差し出させた。41年、以後5ヵ年の倹約令を公布した。42年に藩主別邸の玉川茶屋を廃し、さらに京都屋敷も引き払うこととした。

 殖産面では、綿屋父子が安芸国から蝋職人3人を招いて、1738年から古田村五十崎(いかざき)でハゼの木から蝋(ロウ)を作る「木蝋生産」を始めた(安芸の職人は一両年後に帰国)。領内にハゼの木がほとんどないので、九州から苗を取り寄せ、領内のあちこちに植え付けた。42年に浮穴郡石畳村の庄屋一族がハゼを植栽し、芳我源六(69年没)が年代不明ながら蝋を打ち、大阪へ出荷した。藩も栽培を奨励したとみられ、自由販売する商品に育ち、76年には出津する際の口銭を定めている。(蝋の栽培にもっとも積極的であったのは、松山藩と宇和島藩であった)。

 泰温は学問を好み、陽明学者の川田雄琴を大洲に招いて、伊予で最初となる藩校の明倫堂の建設を始める。川田雄琴が着任5年目の37年から藩内の善行者の記録を始め、45年に『豫洲大洲好人録』が完成し、当時の世相・民俗を知る貴重な資料となる。明倫堂は、中江藤樹の死後100年目である1747年に落成する。
 泰温は19年間在職し、30歳で没した。男嗣がなく、3代・泰恒の六男の長男を娘の婿養子とした。
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