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近世の四国大名(大洲藩)

 <脇坂家>
 脇坂家は近江国脇坂野を本貫地とする武家で、脇坂安治(やすはる)のとき、浅井長政と織田信長に仕えた。秀吉のもとでは「賤ケ岳の戦い」(1583年)の“七本槍のひとり”として軍功を上げ、85年に淡路洲本3万石の領主となる。朝鮮の役では水軍として戦う。
 関ケ原合戦では初め西軍に属するが、小早川秀秋の寝返りに乗じて東軍として戦い、藤堂高虎のとりなしによって、高虎が城代を置いた伊予の大洲城(当時は大津城)に移ることになったとみられる。大洲城 (愛媛県歴史文化博物館).JPG
 1609年、安治は大洲藩5.35万石に転封され、初代藩主となる。大洲城は、肱川の中流に突き出た地蔵ヶ嶽を中心に築かれた平山城で、4重4階の天守があった。築城された年月の確かな記録はないが、藤堂高虎と脇坂の時代に整備が進んだと推定される(写真は愛媛県歴史文化博物館にある城郭の模型)。
 2代藩主・安元は、領内支配の基礎固めを行い、大坂の冬・夏の陣に参戦するが、1617年に在城8年ののち、信濃飯田5.5万石へ加増転封となる。

 <大洲加藤家>
 脇坂家と入れ替わりに大洲へ入部したのが、美濃国を本貫地とする加藤家である。加藤光泰は秀吉のもと、勇猛果敢に戦って歴戦で軍功を重ね、小田原征伐の功により、1591年に一躍、甲斐24万石の大名となる。朝鮮の役でも積極的に戦うが、陣中で吐血し、陣没した。
 嫡子の加藤貞泰が後継するが、若年を理由に、1594年に美濃国黒野4万石へ移される。貞泰は関ヶ原合戦で初め西軍として出陣するが、家康とも連絡を取っており、東軍の二番手として戦い、1610年に伯耆米子6万石へ加増転封となる。13・14年には江戸城の手伝い普請を勤め、大坂の冬・夏の陣にも出陣し、その功により二代将軍・秀忠は貞泰に10万石を与えようとしたが、老中らが他との釣り合いから反対し、大洲6万石になったという。
 1617年7月、貞泰は初代藩主として、家臣132名をともなって大洲へ入部する。1村1庄屋制による領内支配を進め、藩船運営のため船手組を組織した。20年、数年続く大工事となる大坂城改築の手伝い普請を命じられた。
 貞泰は在職7年にして、44歳のとき江戸で病没した。

 2代藩主・泰興(やすおき)は貞泰の嫡男で、1623年に13歳で家督を継いで、明晰果断に藩政の確立に努める。槍術の名人としても知られ、その縁で盤珪国師が大洲に来たことによって、領内に禅宗(臨済宗)が広がった。
 泰興は、松山・高松・丸亀の各藩で大名家の改易があったときに城在番を務め、失職した家臣のなかから一道一芸に秀でた者を大洲藩に迎えた。その結果、藩士は202名となり、城下の町屋数も302軒(49年)になったという。
 松山藩に在番中の34年に、藩領に飛び地があるのを解消するため、松山藩との間で替地を行った。その結果、喜多郡83ヵ村・浮穴郡55ヵ村・伊予郡17ヵ村・風早6ヵ村・摂津国2ヵ村という、合わせて163ヵ村の領域が確定する。
 ただし替地にともなって米湊(こみなと)沖における漁場争いが起こり、58年に領民同士の乱闘騒ぎとなる。これを「網代騒動」といい、土佐藩主の仲介により、両藩の漁師がともに操業できる「入会漁場」を設定することで結着した。
 替地にともない、松山・大洲両藩の間で入会山や農業用水に関する争論も起こり、1700年代まで続く。

 家禄100石取りの平士に儒学者の中江藤樹がいた。近江の出身ながら藩主に仕えて大洲へ移り、17歳から自学に励んで陽明学を確立した。1625年、藤樹が27歳のときに故郷の近江にいる父が没し、老母を心配する藤樹は近江行を望むが許されず、34年ついに脱藩に踏み切り“知行合一”を実践した。近江時代の藤樹の門人に、大洲・新谷藩の出身者が32名いたという。
 近江聖人・中江藤樹が残した好学の風は継承され、藤樹が近江へ去った後は、門人のなかで学殖を身に着けた3名の藩士が藤樹学を教授した。泰興の嫡子・加藤泰義も学芸を好み、江戸中期の書物の『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』は、全国諸藩の藩主の評判などが記すが、泰義について「世に隠れなき学将たり」とする。ただし泰義は父に先立って40歳で没し、藩主になれなかった。

 泰興の時代に、江戸城惣廓の手伝い普請(1635年)、松山・高松・丸亀各城の城在番、朝鮮通信使の供応などに出費が嵩み、61年には京都仙洞御所の作事手伝いを命じられる。66年7月に高潮被害を蒙り、幕府から米5,000石の恩貸を受け、藩内の富商や豪農に御用銀(利息約12%・5~8年賦返済)を命じたり、寸志銀(献金)を求めたりした。
 このころ土佐牢人の岡崎治郎左衛門に対し、五十崎に仕事場と道具を与えて御用紙を漉かせた。これが伊予の紙漉きの嚆矢とされる。
 なお泰興が藩を後継するとき、実母の強い願いにより、弟の加藤直泰(なおやす)に1万石を内分した。泰興は不承知ながら、幕府の内諾があり、1642年に新谷(にいや)藩が成立した。大洲城から東北東7kmに当たる喜多郡新谷に陣屋を建て、43年に直泰が移った。家臣83人の小ぶりな支藩で、領地も1村単位で選ばれ、大洲領内に散在した。新谷藩は9代藩主・泰令(やすのり)まで、230年の間、続く。
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