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一柳小松藩1万石

 一柳直盛の第3子・一柳直頼(なおより)は、伊予における直盛の遺領5.86万石のうち、(長子・直重を通じて)1万石分を相続する。領域は西条の西に位置し、周布郡11ヵ村と新居郡4ヵ村を合わせた15ヵ村である。
 一柳直盛の遺領で成立した伊予の3藩のうち、西条藩と川之江藩はやがて没収され幕府領となったから、明治期まで続いたのは小松藩1万石のみであった。一柳小松藩は230余年の間続き、藩主は8代に及んだ。譜代家老の喜多川氏(400石)が重職を担ったとされる。

 初代藩主・直頼は1637年に入部し、周布郡塚村に陣屋を建て、この地を小松と改称した。本年貢は、検見法による5公5民を基本としたが、付加税や小物成(山林・原野・河海の収益に課すもの)があり、労役に代わる賦課として村高2%のコメを収納した。
 2代藩主・直治(なおはる)は直頼の長男で、1645年に就任する。新田開発に尽力し、300町歩の田を拓いた。大洲藩から小西伝兵衛を招いて紙漉きを始め、藩の特産品となって「伊予の奉書紙」が全国に知られるようになる。
 1679年、新居郡で輝安鉱(硫化アンチモン)を産する市ノ川鉱山が発見される。伊予の「白目」と呼ばれ、年間平均15tを産出し、合金材料などに使われる。個人に採掘を請負させたほか、19世紀前半(文化・文政・天保期)には藩が直営で採掘した。貴重な収入源となるが、需要は僅少であった。(昭和30年代に廃鉱となる)小松頼徳;i一柳家所蔵.jpg

 3代藩主・頼徳(よりのり)は直治の長男で、1705年に40歳で就任する。好学の藩主として知られ、書道・詩歌・茶道に造詣が深く、小松藩主のうち肖像画が残る唯一の人物(写真は一柳家所有)とされる。
 4代藩主・頼邦(よりくに)は、2代・直治の甥で、24年に就任する。32年7月、虫害に始まる「享保の大飢饉」に際会し、早くに被害調査に乗り出す。里村や海村の収穫は皆無で、山村でいくらかの収穫を見込める程度であった。幕府から貸付金2000両と廻米800石の援助を受け、御用商人に御用銀を命じた。備蓄米を放出し、山林を開放して蕨の根掘りを許可するなどをした。町年寄など富裕者による救済もあった。
 領民の4割が飢えを経験し、各月の飢え人の人数合計は5,411人となるが、餓死者は出なかった。伊予の他藩と比べれば被害は軽少と言え、33年4月に麦の収穫があり、飢饉がほぼ解消した。

 5代藩主・頼寿(よりかず)は頼邦の三男であるが、2人の兄が早逝したので、1744年に12歳で就任する。1751年ごろ、本年貢が検見法から定免法に変更される。側室を含めて7男3女をもうけた。教学の振興をめざして、朱子学者の竹鼻正脩を登用し、世嗣の侍講とした。
 6代藩主・頼欽(よりよし)は頼寿の次男で、兄が早逝したことにより、1779年に父の隠居にともない襲封する。竹鼻正脩を家老に抜擢した。在任中に、領内でたびたびの火災があり、悩まされた。
 7代藩主・頼親(よりちか)は頼欽の長男で、1796年に6歳で家督を継いだ。竹鼻正脩の建言により学問所の培達校を設立し、かねてから朱子学者で伊予聖人と呼ばれた近藤篤山を招聘した。篤山はやがて小松に定住して、約40年の間、藩士の教育に携わる。学問所は03年に養正館と改名され、御目見え以上の子弟を10歳になると入学させ、農・商家の子も受け入れた。
 08年に、伊能忠敬の測量に関わった。

 8代藩主・頼紹(よりつぐ)は頼親の従兄弟で、1832年に末期養子(実子のない藩主が危篤時に急遽申請して認められた養子)に迎えられる。三条実美らと交わり、藩論を尊皇派にまとめ、戊辰戦争では新政府軍に加わった。藩士51人が出兵し、越後から山形へ転戦して、3名が戦傷を負った。明治期には功績により、賞典金2000両を与えられた。
 藩に、勤皇の志士として幕末に奔走した田岡俊三郎がいた。1863年8月に尊攘派が京から追放された「七郷落ち」に同道して長州へ逃れ、10月には但馬生野で志士が挙兵した「生野の変」にも参加した。64年7月の「蛤御門の変」で、奮戦中に戦死した(享年36)。
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