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ベトナムと中国

  これまでの歴史で明らかなように、ベトナムの国情は中国との関係抜きには考えられない。
  紀元前後からほぼ1000年間は中国の支配下にあった。10世紀に独立を達成したあとも、宋、明、元、清の各王朝が繰り返し進攻してきた。中華人民共和国の成立後も中越戦争があった。漢民族の「中華意識」たるや面目躍如といいたいところである。もっともベトナム側から先に進攻したケースが「無きにしも非ず」であるらしい。
  かくしてベトナムでは、中国の支配に抗して戦った歴史上の人物を高く顕彰する。とくに際立っているのは、紀元後40年に後漢の支配に蜂起した徴姉妹(ハイ・バー・チュン)、宋の侵略を退けた李常傑(リ・トゥオン・キエット)、元の侵攻を防いだ陳興道(チャン・フン・ダオ)、明の支配から脱した黎利(レ・ロイ)、清を打ち破った阮恵(グェン・フエ)などである。ハノイ市とホーチミン市の歴史博物館には、その折の戦闘のようすなどがジオラマや壁画で再現されている。
  中国に対する戦闘におけるユニークな戦法も語り草である。
  ひとつは「杭打ち戦法」。海に近くて干満の差が大きい河口に先端を尖らせた木の杭を立てておく。満ち潮でそれが水中に隠れているときに敵の艦船をその場に誘い込み、引き潮になると杭が水上に現れて艦船を破壊するという仕掛けである。博物館には当時の杭の実物が展示されている。938年に南漢軍に対したとき、また1288年にモンゴル軍に対したとき、ハノイ市東方の「白藤江の戦い」で威力を発揮した。ここは多くの川が集まって海に流れ込むところで、干満の差が激しい場所である。白藤江の戦い.JPG
  「清野作戦」もある。強大な軍勢に攻められたとき一時的に市域から撤退するが、その折に人家や作物をカラッポにしておく。敵は市域を占領するものの食糧を現地調達することができないために、仕方なく撤退を余儀なくされる。13世紀にモンゴルが首都の昇龍(ハノイ)に侵攻してきたとき、幾度かこの作戦を採用したらしい。
  対中戦闘における英雄や戦法を賞賛するのは、心底に警戒心があるからであろう。しかし対中関係を悪化させると、ベトナムの存在が不安定になる。したがって中国の軍勢を押し返した後は、華夷秩序を受け入れて朝貢関係に甘んずる。そして熱心に諸制度や文化の導入に努めて、中国に負けない強い国づくりをめざす。
  中越国境は山間部を縫って複雑に入り組んでいることが、両国の関係を神経質なものとしているようだ。現在は海底資源をめぐって、南シナ海に浮かぶ南沙(スプラトリー)諸島や西沙(パラセル)諸島の帰属について他国を含めて領有を争っている。
  これらが積み重なってベトナム人の中国に対する気持ちを複雑にしている。中国は好きではないが、ないがしろにはできない、頼りにした時代もあった、というあたりで揺れ動いているのであろう。
  この点、メキシコがアメリカ合衆国に対するときの気持ちと似ている。メキシコ人はアメリカが好きではないと口にする。「グリンゴ」というアメリカ人を貶める表現を日常的に使う(日本人をジャップと呼ぶようなものである)。「メキシコの不幸は神からは遠く、アメリカに近いことである」という諺もある。現在の合衆国西南部のそうとう部分はかつてメキシコの領土であった。
  しかし対米関係を悪化させることは考えられない。米墨国境は2000kmにわたって延々と続く。経済的にもアメリカの産業力や市場なしには考えられない。アメリカは高賃金のあこがれの国であり、いまも米墨国境を違法に越境する者が後を絶たない。(もっとも国境のリオ・グランデ川を密航するものはメキシコ人とは限らず、中南米各地から北上してたどり着いて越境の機会をねらう者もいる)
  大国に国境を接して隣接するのは、なんともアンビバレントな(相反する)感情を育てるものらしい。

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アヨアン・イゴカー

ベトナム戦争でのベトコンの戦いぶりは、>「杭打ち戦法」
のような奇策の流れを汲んでいるように見受けられます。
by アヨアン・イゴカー (2009-08-01 00:14) 

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