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マックス・ウェーバー「宗教の合理化」

 合理化とは『日本語大辞典』(講談社)によれば「理性によって納得できること」「正しい論理にかなっているさま」となります。マックス・ウェーバー(1864~1920)は「さまざまの要素を矛盾なく、ある目的にしたがって整合すること」と書いていますから、彼我の間で言葉の理解に齟齬はないでしょう。
 ところで我々が神社やお寺に参拝する場合のことを考えてみます。何らかの希望や願いが実現するように祈ることが多いでしょう。人類における宗教のはじまりも、狩りの成功、豊漁、作物の豊穣、天候の回復など、さまざまの現実的な利益(現世利益=げんぜりやく)を願うことでした。祈りの対象は、祖先の魂とか、自然に住まう精霊とか、力を感じる動物とか、雄大な山や河とか、であったでしょう。
 現世利益を祈って、果たして効果はあるのでしょうか。神様は我々の要求に応える力を持っているのでしょうか。祈ることを通じて、迷う気持ちが定まって集中できたり、癒されて気分が収まったり、人びとの心が結集されたりによって、現実性が高まることは考えられます。ただしこれらは祈ることで精神が高揚したとか、精神統一がなされたとかという付随的効果ともいうべきもので、本当に「神様の力か」というと、どうでしょうか。
 いつの時代であっても宗教が広がる過程においては、怪しげな呪術とか、おどろおどろしい秘儀とかをともないがちです。現代の我々がなじんでいる近代的・科学的思考によると、呪術や秘儀が現実的効果をもつとは思えません。冒頭に示した合理化の定義によれば、呪術や秘儀が現世利益の実現に向けた力をもつとはいえないでしょう。
 マックス・ウェーバーは「合理化」こそが、近代文明を他の文明から区別する根本的な原理であると考え、近代思想がどうして西欧に生まれたのかを追究しました。もろもろの合理化が進み社会で包括的な合理化が進行する過程は、長期的に宗教の合理化を基礎として遂行されるとの着想を得ました。すなわち「人間的合理性が歴史のなかに現れるに際しては宗教的倫理が役割を果たす」と考え、西欧における宗教の合理化の淵源を探る必要があると考えたのです。
 我が国では社会経済学者として知られるウェーバーですが、総覧すると宗教社会学の分野で多くの著作を残しています。邦訳のあるものでは『宗教社会学試論』『儒教と道教』『ヒンドゥー教と仏教』『古代ユダヤ教』などがあります。キリスト教やイスラム教についてもそれぞれ一冊となる著作を書く予定であったようですが、果たせずに他界しました。ただし『宗教社会学試論』のなかで考え方の輪郭が示されています。

 それぞれが大部であり、かつ多数の書物で展開されている内容を簡潔にまとめるのは、粗略のそしりを免れえないでしょうが、あえて要約すると次のようになります。
 ウェーバーによれば「宗教の合理化」とは、古来の宗教が有していた呪術や秘儀などの非合理的な要素から脱することです。紀元前の数世紀(つまり、のちにヤスパースが「基軸」と呼ぶこととなる時代)に「古代ユダヤ教」においてそれが始まったとします。このときユダヤ教は呪術や秘儀を排して、人が守るべき倫理的指針を束ねるものに純化することをめざしたというのです。
 ユダヤ民族とは始祖アブラハムやモーセに関する先祖神話を共有する人びとです。彼らはヤハウェという唯一神を定立し、その命ずるところに従うことが唯一の救済であるとする信念を固めました。そのもとで体系的・一義的な目標を定め、合理的・計画的な倫理指針を確立していったのです。神の命令に従わなければ、怒り罰する神がいつの日か現れ、報復し復讐するとの概念構成のもとに倫理の貫徹をめざしました。
 歴史的事実としてはパレスチナに、イザヤ、エレミア、第2イザヤなどの預言者(神の言葉を預かって伝える人)が出現し「倫理預言」「使命預言」とされる言葉を発することの積み重ねで「古代ユダヤ教」が成立します。人格神である神と「契約する」の考えを取り入れ、誰でもが神の命令のもとに入れることとなりました。ここに地域神の性格を超えて、普遍的な属性を備えた神が誕生しました。
 「キリスト教」はユダヤの教義から生まれますが、教義のなかにあった食事の禁忌、清浄、損害など日常生活に関する律法から抜け出しました。イエス・キリストは律法を論ずることがなく、精神生活に関する倫理指針に限定して教えを説きました。ウェーバーはこれを「倫理的最小限度」と呼びます。「汝の欲せざるところを人に施すなかれ」に示される隣人愛、富裕であることの危険性、神の愛、再臨への期待などを強調しましたから、宗教の合理化を先に進めたといえるでしょう。
 「プロテスタンティズム」は、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンが16世紀の西欧で提唱したキリスト教の革新運動です。その根幹の一つとされる信仰義認説は「(救いはローマ教会が勧める贖宥状(免罪符)を買うことによって得られるのではなく)信仰によってのみ義とされる」と唱えることによって、宗教合理化をさらに徹底したと考えられます。
 かくしてウェーバーは「宗教の合理化」が古代ユダヤの預言者とともに始まり、禁欲的プロテスタンティズムにおいて終結したとします。ユダヤ教が合理化という特異な道を歩み始めたのは、ユダヤ民族が苦難に満ちたきわめて「特異な」歴史的契機を経たためであり、それがなければアジア諸宗教の枠を抜けることができなかったであろうといいます。

 そこで基軸の時代に生まれたアジアの諸宗教に対するウェーバーの考えをまとめておきます。
 「仏教」について、釈迦の教えは精神生活の充実に終始し、自分の死後にどうすればいいかを問われたとき「ひたすら修行に勤めて涅槃の境地に至れ」と諭したといわれますから、宗教の合理化をめざしたと思われます。ただしウェーバーは、僧侶による修行で祈祷の技法や祭儀が維持されたこと、祈りにともなう恩寵・奇跡・秘蹟の類いが語られたことなどから、呪術的・秘教的実践が残ることとなり、非合理的要素からの脱皮が不十分であったとします。
 インドの「ヒンズー教」は、仏教の影響を受けてバラモンの僧らが教えを理論化、体系化したものです。ただし祭式偏重であるうえに、階層化などを通じて共同体を有機的に把握し、社会秩序の維持を図ることをねらいとするから、ウェーバー流の宗教合理化をめざすものではないとされました。中世のインドでは下層民に秘蹟的救世主信仰が広まったことからしても、非合理的な要素からの脱皮は不十分と考えました。
 中国の「道教」についても、ウェーバーは宗教の合理化をめざすものとは考えませんでした。「道(タオ)」が特殊に神的である唯一の存在であってこれに拠るべしとする理論体系を提示しますが、教えることの実際は古来の呪術を体系化し実践を勧めるものであると考えたからです。


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アヨアン・イゴカー

>宗教の合理化
宗教とは、不合理なものを信ずる行為ではないのでしょうか?
合理性の一極を科学とするならば、対極にあるような気がします。
by アヨアン・イゴカー (2011-05-01 23:17) 

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