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半島国家 朝鮮(1)

さて東南アジア諸国の「近世体験」を探ってみると、半島国家と島嶼国家という地理的な相違によって文化的な成熟度が異なり、それがひいては「近代文明」の受容において大きな要素となったらしいことが窺えました。このことを島嶼国家の日本と半島国家の朝鮮とに引き合わせて考えるとどうなるでしょうか。
 島国の日本では東南アジアの島嶼国家の場合と同じように、近世時代に同質的な民族文化を形成することにおいてたいへん有利な情況にありました。江戸時代350年という安定した時期に、日本らしい民族文化が形成されたことはすでに書きました。
 これに対して韓国は半島国家です。しかしインドシナ半島とは異なって、地形が細長いために半島部において近接する異民族集団が存在せず、その点では幸いだったでしょう。半島内で隣接する民族との軋轢がなかったので、500年にもわたる李氏朝鮮の時代に色濃い朝鮮文化を形成しました。それがアジアのなかでは比較的早く近代化、工業化に成功した理由でしょう。
 しかし大陸勢力が膨張しようとする圧力は、随時に別の形で現れました。アジア大陸の東端に位置していて、大陸内部で興り半島支配をも企図する政権や民族の攻撃を繰り返し受けました。
 紀元前3世紀に、「秦」の始皇帝が中国を統一したときには、いまだこれに服属する状態にあったようです。
 「漢」や「魏」の時代には、半島の一部に楽浪郡や帯方郡などと呼ばれる中国の支配領域が形成されました。
 中国を統一した「隋」は、半島部の北に位置した高句麗を3度にわたって攻めました。高句麗はよく防戦したので、隋が短期間で滅んだのは、半島攻撃によって力を削がれたためとされるほどです。
 「唐」は最初は3国時代の新羅と組んで高句麗と百済を滅ぼし、その後に新羅との間で境界を巡って争いました。
 11世紀に大陸で興った遊牧民族の「契丹」は高麗を攻めました。
 13世紀に「元」(モンゴル)が6次にわたって半島に侵入しました。当時の高麗は大いに応戦しますが、遂にはこれに従い、連合して日本を攻める仕儀となりました。
 14世紀に「明」が成立すると、その冊封体制のもとに入って中国以上に儒教を尊ぶ国柄となって、国家の安定と尊敬を得ようとしました。
 17世紀に入ると大陸の北方で満州族が強盛になりました。1627年の「丁卯胡乱」では女真(のちの後金)によって、高麗人参と兵員と女が奪われる結果となりました。1636 年の「丙子胡乱」では「清」に対し朝鮮王子を人質として送り、また莫大な賠償金を支払うなど屈辱的な講和を結ぶハメになりました。
 その間の16世紀には「壬辰倭乱」「丁酉倭乱」とよぶ豊臣秀吉軍の侵入があったわけです。思いもよらぬ海からの攻撃を受け、華夷思想によれば劣っていると考える方面からの攻撃でしたから、半島の人びとは大いに驚きかつ憤激したのでしょう。
 司馬遼太郎氏は『街道をゆく2 韓のくに紀行』において「たれがどういう方法で勘定したのかは知らないが、朝鮮民族が外敵の侵入を受けた回数は、有史以来五百数十回だそうである」と書いています。
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