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ベトナムの歴史(7) 現代

  1945年の日本降伏に際する権力の空白をうまくとらえたのがホーチミン(胡珍明)である。それまで全国の反仏・反日運動をまとめることを主眼として、大衆・農村・山岳地帯などに勢力を蓄えていたのが、このとき一斉蜂起のゲキを飛ばし、1945年9月2日に「ベトナム民主共和国」の独立を宣言した。
  その場所がハノイ市中央にあるバーディン広場で、ここにいまホーチミン廟が建つ。廟内には、まるで生きているかのように整えられたホーチミンの遺体が置かれている。一般に公開されていて、公開日には国中の老若男女が長い列を作る。外国から来訪者も別個に列を整えて列の途中に入れてもらえる。カメラの所持は厳禁で、入館前に預けなければならない。モスクワのレーニン廟や北京の毛沢東廟に比肩するもので、遺体の調整にもモスクワの技術的な応援を得たという。
  ホーチミンがベトナムの独立を宣言したものの、フランスは承認せず、インドシナへの復帰を企てた。これに対して全国的な抗戦運動が起こり、ベトナム、カンボジア、ラオスの3国とフランスを巻き込んで1946年に第1次インドシナ戦争が勃発した。戦闘期間の9年を経たところで、フランス軍はディエンビエンフー攻防戦で1954年に決定的な敗北を喫した。同年にジュネーブ協定が締結されて戦争が終結した。
  インドシナ3国はともに独立が認められ、ベトナムでは南北に政権が分かれていた状態から、統一に向けた選挙を行うことになっていた。しかしそのころ東西冷戦(西側の資本主義圏と東側の社会主義圏の対峙)が進むという不運に見舞われた。地政学的に両圏域のはざまに位置するベトナムは、北緯17度線をはさんで南北に分断された状態が続く。
  北半分を支配するホーチミンのベトナム民主共和国は、インドシナ共産党をベトナム労働党に改組する(1951年)など共産党色を拭い去ろうとしていた。ところがソ連が主導する国際共産主義運動や中国の毛沢東主義におされて、1958年ころから農業集団化や企業国有化の方向に転じた。南政府と拮抗する過程で、ソ連や中国の支援が不可欠であったためと思われる。
  これに対して、アメリカはこの地域の社会主義化が進むことを恐れて「ドミノ理論」(一国の共産化は周辺地域に波及する)を掲げて南政府への支援を強めていった。南の側に「南ベトナム解放戦線」(ベトコン)が設立されるに及んで1960年ころから内戦状態となり、第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争)と呼ばれるようになった。
  米軍は1965年に北爆を開始して本格的に軍事介入した。しかし世界最強の軍隊をもってしても、ベトナム人のゲリラ的抵抗に打ち勝つことができなかった。軍事介入は9年間に及んだが、国際世論に押されて米軍は1973年に撤退した。1975年にはサイゴン市(いまのホーチミン市)にある南政府の(旧)大統領府に北軍が無血開城して戦争が終結した。南ベトナム政庁.JPG
  度重なる外国勢力の支配を退けたベトナム人の執拗な抵抗力の面目躍如たるところがある。その背後には、水田稲作の作業を通して歴史的に形成されてきた地域的なまとまりの良さを見逃してはならない。いまベトナムは、ドイモイ政策を標榜して工業化路線を走っているが、その際にも人びとの製造現場における士気の高さや集団としてのまとまりの良さが、しばしば指摘される。
  いまホーチミン市に「戦争証跡博物館」がある。ベトナム戦争当時の写真や資料を保管・展示している場所である。度重なる北爆、ソンミ村の焼き討ち、枯れ葉剤による奇形児など、いまだ生々しい記憶にあるものが展示されている。悲惨と混乱のきわみを語る映像が、余すことなく眼前に展開する。
  写真の前に足を止めて、熱心に見入っている欧米人の姿が印象的である。本人かあるいは身近な者が実体験したのを追想しているのであろう。観光客はベトナムの歴史からして、アメリカ人、フランス人などの欧米人が多い。地理的に近いことからオーストラリア人も多いようだ。戦争証跡博物館.JPG
  反仏運動の指導者を処刑するためフランスから持ち込まれて用いられたというギロチンの実物もある。ホーチミンルートと称され、ベトナム戦争時に北から南への補給路として使われた地下道(ほとんど「地下の穴」と呼ぶべき狭いもの)の体験・観光コースが設定されているのには驚いた。


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