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日本とインドにおけるグローバリゼーション

  日本人のグローバリゼーション理解というと、またしても国際的に厄介な波が押し寄せてきたという気持ちが大きいのではないでしょうか。
  これまでの日本は島国として内部の均質性と統一性に努めながら、時として世界の情勢変化への対応に遺漏がないようにと心がけてきました。明治以来も、また第2次大戦以後も、先進諸国に「追いつき追いこせ」が主眼でした。その間に当然ながら大きな苦心や苦労があったわけですが、成長と発展の過程において国内で所得や社会的地位において格差が生じたとしても、多くの人びとにとって将来における豊かさを期待することができました。
  ところが「追いつき」を達成して先進諸国のひとつになったところで、安逸を楽しむ余裕も乏しく、不況に沈んだ「失われた10年」とかグローバリゼーションとかの苦境に立たされています。
  グローバリゼーションによっては、途上国の産品を相対的に安価に輸入できるなど裨益するところも多いのですが、企業のあり方とか働く人びとの労働条件とかに、きびしい見直しを要求されます。さらにグローバリゼーションが進むと、人びとの豊かさや安心・安定を維持できるのか、格差がとめどもなく拡大してしまうのではないか、などの懸念に思い当たります。
  グローバリゼーションは弱肉強食を是とする市場原理主義の貫徹ではないのか、アメリカ流資本主義の押し付けではないのか、などの否定的な感情が頭をもたげます。このまま世界を覆いつくすと、国際社会をうまく運営できるのだろうか、日本はどういう立ち位置に立てるのかなどの疑念を拭い切れません。
  もっとも戦前の経験がありますから、グローバリゼーションを否定して世界のブロック化が進むと、世界の平和と平穏が維持できないであろう。そのためグローバリゼーションを前向きに受けとめて、何とか乗り越えなければなるまいとする姿勢に動揺はありません。
  この際には、前項で紹介したインド文明に根拠をおく知識人のグローバリゼーション理解に触発されるところがあるでしょう。グローバリゼーションは人類文明の発展軌道上におけるひとつの到達点であり、必然のものとして慫慂として受けとめるよりないのでしょう。
  現代グローバリゼーションの背景のひとつは情報化です。情報通信の方式・技術・機器・システムの発達によって、世界の片隅にある情報も瞬時に世界を駆けめぐるようになりました。もうひとつの背景は地球のほぼ全域を覆うようになった市場経済です。社会主義を謳っていた諸国も資本主義をめざすようになり、また北東アジアやアセアンというアジア諸国の工業化が顕著に進みました。情報と市場とで世界が緊密に結ばれるようになった結果、経済や政治面におけるヒトコマヒトコマの動きが他の地域にも影響を及します。紛れもなく人類文明が行き着いたひとつの姿でしょう。もっとも最近には、アメリカ資本主義に発した金融危機がグローバリゼーションの大きな景色になっていますが。
  グローバリゼーションについて、インド文明に身をおいて眺めれば、日本からとは違った風景が見えてくるでしょう。
  インドでは紀元前4世紀にマウリヤ朝、紀元後2世紀にクシャナ朝がかなり広範囲に国土を支配した以降は、3世紀にササン朝ペルシャの侵入を受け、5世紀以降は(グプタ朝が)中央アジア民族の侵入に悩まされ、7世紀にイスラム勢力がアラビア半島で興ると10世紀ころから北部インドに侵入を繰り返すようになりました。
  13世紀からは、デリーに首都をおくイスラム王朝のいくつかが興亡を繰り返し、16~18世紀にはムガル帝国がほぼ全土を支配しました。それ以降は西欧の進出が顕著となり、ついにはイギリスの植民地となりましたので、独立を果たすのは第2次大戦後になりました。
  西洋でもなく東洋でもなく、ときに中洋と呼ばれる地域にあるインドは世界史の激動から自由になることがなかったようです。現代のグローバリゼーションも、そのような世界化の一環と観念すれば、否定的に考えるまでもなく、いかに対処すべきかに視点が向かうようです。
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