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国家の統一と帝国の誕生

 人類社会を統合に向かわせるには「基軸の時代」における精神的所産が大きな役割を果たしたようです。それ以降の世界では、民族が統一国家を形成したり、多くの民族を統合する帝国が誕生したり、という動きが見られます。
 もっとも瞠目させるのは、現在のイラン(ペルシャ)の地で興ったアケメネス(ハカーマニシュ)朝ペルシャ(BC525~BC331)の建国です。この王朝は、東は現在のパキスタンから西はトルコに至り、北はカスピ海から南はエジプト・リビアに至る大版図を形成しました。古代文明が発祥した4地域のうちの3つ、つまりメソポタミア、エジプト、インダスを併せ領有したわけですから、当時としてはまさに画期的なことでした。ここに「世界で初めての帝国」が誕生します。
 アケメネス朝がペルシャ人の居住地を超える地域を領有して「帝国」となった折の初代皇帝はキュロス(クル)2世(在位BC559-BC530)でした。その地位を簒奪したとされる第3代皇帝のダレイオス(ダーラヤワウ)1世(在位BC522-BC486)のときに全盛期を迎えます。多民族を擁する広大な領域を統治するために機能的な装置を導入し、その後に帝国を形成するものの範となります。
 具体的には、公用語の制定(文章語としてアラム語やエラム語を採用)、王の道(ハイウェイ)の建設、地方州に行政長官たる総督(サトラップ)の配置、総督を監視する王の耳(監察官)の巡回、ダリーク貨幣(最古の鋳造貨幣のひとつ)の導入、度量衡の統一、地下水路(カナート)を整備などのシステムです。
 アケメネス朝の支配は、その後にアルケサス(アルシャク)朝パルティア(BC247-AD330)とササン朝ペルシャ(AD224-651)へ引き継がれます。その間における精神的主柱として「基軸の時代」の所産であるゾロアスター教がどういう地位を占めたのかが問題です。当時の資料が限られていて必ずしもはっきりしませんが、メアリー・ボイス著『ゾロアスター教 3500年の歴史』(山本由美子訳 講談社学術文庫)には、大略、次のように書かれています。
 アケメネス朝のキュロス2世は宗教に寛容でした。バビロンを占領した際、捕囚されていたユダヤ人を解放し帰還させたことによってゾロアスター教がユダヤ教に影響を与えました。それによって死後の審判、天国と地獄、救世主の到来、最後の審判などの思想がユダヤ教に受け継がれます。
 ダレイオス1世の治世に関する碑文には、アフラ・マズダの加護により戦争に勝利したこと、諸王はゾロアスター教に帰依したが住民には国教として強制しなかったこと、社会には信仰に結びつく慣習が定着したこと、などが記録されています。
 アルケサス朝パルティアは、イラン東北部にいた遊牧民(アーリア人の一派)によって建国され、ミトラダテス2世(BC123-BC87)のときが全盛期であったとされます。信仰の道徳律には概して忠実で、仲間同士の責任感や名誉や誠実さを強調したとされます。紀元後77年にゾロアスター教の経典結集が行われました(基本経典であるアヴェスターが成立する)。
 ササン朝では紀元後230年にゾロアスター教を国教とします。教義に基づいて暦の変更、偶像破壊、聖なる火の強調などが行われ、王朝の終期にはゾロアスター教の祭司が政治を牛耳るほどになったようです。他の宗教は弾圧されました。
 このような情勢変化を受けて、ギリシャ人の地であるペロポネソス半島では、北方に居住したマケドニアが勢力を増大させます。都市国家が並立して分裂状態にあったギリシャを、紀元前337年に統一します。336年にはアレクサンドロス3世(大王)が東方への遠征を開始し、333年にアケメネス朝ペルシャを滅亡させ、さらにインドの外延にまで版図を広げます。遠征によってギリシャ文化が東方に広がりますが、そのいっぽうでアケネメス朝の統治システムが西方に紹介され、ローマ帝国に取り入れられたとされます。
 こうした動きに呼応して、インドではチャンドラグプタがマウリヤ王朝(BC317~BC180)を興します。第3代のアショーカ王(阿育王 在位BC268-BC232)のときに最大の版図となり、現在のインドとパキスタンのほぼ全域を領有します。後継争いに際してアショーカはきびしく戦闘や処分を行なったようですが、王位についてからは過去を悔いて仏教を重んじ「仏法(ダルマ)による政治」をめざしたという話が伝わります。いまインドに多くの仏塔が残されていますが、ほとんどはアショーカ王のときに建立されたとされます。
 王の死後はインドの統一的支配が緩みます。代わって北西インドを中心に興ったクシャーナ朝(AD1-3世紀)がかなり広い版図を形成し、第4代カニシカ王(在位AD144-173?)のときにもっとも栄えます。カニシカ王はアショーカ王と同じく仏教を重んじたので、ガンダーラ(現在のアフガニスタン東部の地)を中心に仏教美術が盛んになりました。釈迦は自分の偶像を造らないよう言い残しましたので、仏足石(釈迦の足跡を石に刻んだもの)を拝むことが行われていましたが、ギリシャの彫刻文化との融合によって仏像が初めて造られました。
 諸子百家が地域の安定に向けて百家争鳴した中国では、紀元前221年に「秦王朝」が統一を果たし「法家」の考えを重んじて法による支配をめざしました。秦が短期間で滅んだあと、紀元前202年には「漢王朝」が成立し、儒学者 董仲舒の献策を入れて五経博士をおくなど儒教を体制教学とします。
 紀元後6世紀末に成立する「隋王朝」では605年ごろに「科挙」を導入し、詩文の能力や四書五経の知識を問う試験によって官吏を登用する制度を設けました。これが貴族層に代わる新たな指導層(下太夫)を選抜する機能を持ち「清王朝」末期の1905年に廃止されるまで、ときに途絶えた時期を経つつも継続されました。周辺地域では、朝鮮半島、ベトナム、琉球において同様の制度が導入されました。


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