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阿波の神社

 歴史書に「阿波」の人脈に連なる人びとが神様として登場することは、阿波国の史跡にもヤマト王権の成立に関わったことを反映する何らかの痕跡が残っているのではないでしょうか。

  まずは阿波国の神社のようすを観察してみましょう。神社数を総覧すれば次の通りです。
  平安時代の法令である「延喜式」の神名帳には「式内社」と呼ばれる神社が列挙されています。それが全国に3122座あります(「座」とは神社に祀られた祭神の数で数えたもの)。そのなかで格式が高い神社を大社といい全国に492座あります。それ以外は小社で2630座あります。
  式内社の数を地域別にみると、もちろん畿内に圧倒的に多いのですが、四国の状況を対岸の吉備地方を含めて国別に示すと次表のようになります。国ごとの比較では、阿波国の式内社数の全国比が高いことが目立ちます。

神社数.JPG   阿波国で大社が3座ありますが、いずれもが前項で指摘した阿波人の祖とされる「天日鷲神」を祀る神社です。   「忌部神社」は県都である徳島市から西へ吉野川を少しだけさかのぼった吉野川市山川町にあります。かつては西国随一の格式の高い大社とされ「四国一ノ宮」と称せられたこともあったそうです。忌部神社の南側には忌部山古墳群が広がり、古墳が5基あるなかに直径が10m前後に達するものもあります。神社は皇紀2年に創建されたと伝わりますから、西暦に換算すると紀元前659年となりますが、ヤマト朝廷の成立と同時に設けられたと主張するのでしょう。   「大麻比古神社」は徳島県北東部にある鳴門市にあり、現在「徳島県一の宮」になっています。初詣などにおいて、県下ではもっとも参拝者が多く、賑わう神社です。   三つ目のもう一つが「天石門別八倉比売(あまのいわとわけ・やくらひめ)神社」で、徳島市の西南部の国府町にあります。ご祭神は天日鷲神とともに「大日孁女命(おおひるめのみこと)」が祀られています。天照大神の別名ないし古名とされる神様です。「孁」は“る”と読み、巫女を意味するといいます。   場所は鮎喰(あくい)川に沿った地域で、弥生時代の遺跡がたくさん発掘されているところです(徳島県埋蔵文化センターに陳列されている弥生時代後期の豊富な土器の写真を後に掲げておきます)。   神社は気延山の東麓にあり、一帯を徳島市が「阿波史跡公園」として整備しました。公園から西に向かって山中へ続く石段を登ったところに神社が鎮座します。もともとは本殿がなく、杉尾山という小山そのものをご神体にする古い神社形式が採られていました。神社の背後をさらに100mほど登って杉尾山の頂上部にいたると、前方後円形をしています。その円丘のうえに5角形の石積みが残っています。   「邪馬台国の所在地は我が地域にあった」とする論が全国各地にありますが「邪馬台国が阿波にあった」と唱える人びとは、この石積みが卑弥呼(=天照大神)の墓であると主張します。近辺には天岩戸であったと指摘する場所もあって、念の入った舞台装置がそろっています。 阿波 弥生土器.JPG   天石門別八倉比売神社の古文書には天照大神の葬儀に関する詳細な記録があり、執行に際して登場する神々の名前が記されているといいます。また安永2年(1773)に書かれた別の古文書には「気延山々頂より移遷し、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」との記述がありますから、文書通りに計算すると、紀元前332年に現在のところに鎮座したとなります。

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