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三角縁神獣鏡

 『魏志倭人伝』において卑弥呼が魏から付与されたとされる「銅鏡百枚」の鏡が何であるか、前項との関連で触れておきます。大方の意見がそうであるように「三角縁神獣鏡(さんかくぶち・しんじゅうきょう)」と考えていいのではないでしょうか。三角縁神獣鏡(国立博物館).JPG鏡を取り巻く円盤状の縁の断面が山型に盛り上がり三角形になっていることから、その名があります。(写真は東京上野の国立歴史博物館に展示されているもの)
 邪馬台国から魏へ使節を派遣した最初の年は西暦239年で、それ以降、卑弥呼・台与の時代を通じて4回あったようです。三角縁神獣鏡が3世紀の古墳からは出土しないで、4世紀以降に築造された古墳から出土することと年代的にも合います。
 この鏡が中国からは一面も出土しないことや鏡の径が平均22センチと後漢時代の鏡に比べてサイズが大きいことなどから、日本で鋳造されたとする意見がありますが「倭の神獣鏡好き」に合わせて、渡航してきた使節のために中国で急いで特鋳されたと考えれば矛盾はありません。(中国の河南省博物館が発行する『中原文物』2014.12月号には、魏の都があった洛陽から、径18.3cmの三角縁神獣鏡が見つかったという論文が掲載されたようです。2009年以前に白馬寺の油村に住む農民が掘り当てたそうです)
 日本における三角縁神獣鏡の出土数は540面に達したようですが、累次の使節派遣の都度に与えられ、中国鏡を模して国内で鋳造した倣製鏡も含まれると考えれば、出土数が多いことに不思議はありません。三角縁神獣鏡の府県別出土数のグラフが「邪馬台国の会」のHPにありますので、そのまま下図に掲げます。邪馬台国の会とは、安本美典氏を中心に東京で開かれている古代史愛好家の集まりです。(http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku288)。
 このグラフを前項で示した画紋帯神獣鏡のそれと比較してみます。畿内からの出土数が多いことは双方に共通しますが、三角縁神獣鏡の西日本における出土数が、岡山県(吉備)、福岡県に多い反面、阿讃地域では瀬戸内海に面する古墳からに限られて出土数が少ないことが目立ちます。これは政権が畿内と中国との往来ルートに気を配ったからでしょうし、邪馬台国に当初から参画したものには改めてくだんの鏡を配る必要性も少なかったからでしょう。関東地方で群馬県の出土数が多いのは、当時、この地域に政治の中心があったのでしょう。邪馬台国の権威が確立したのちに、地方勢力を慰撫するために配布したと考えれば、納得的です。
 さらに三角縁神獣鏡は、畿内にある次の2つの古墳から一挙に多数が出土したという特色があります。
 京都市木津川市にある「椿井大塚山古墳」は全長175mの前方後円墳で、3世紀末に築造されたと推定されています。1953年の調査でここから32面の三角縁神獣鏡が出土し、当時において最高の枚数を記録しました。このほか画紋帯神獣鏡1面ほかも出土し、合わせて36面以上の鏡が埋納されていました。
 奈良県天理市にある「黒塚古墳」は全長130mの前方後円墳で、3世紀末ないし4世紀初頭に築造されたと推定されています。1998年の調査で、ここから33面の三角縁神獣鏡が出土し、埋納状況に特徴がありました。三角縁神獣鏡は棺の両側の棺外とみられる位置にあって、ほぼ半数ずつが並べられていました。これに対し画紋帯神獣鏡1面は棺内において遺体の中心とおぼしき場所に埋納されていました。2つの鏡の扱われ方から、三角縁神獣鏡より画紋帯神獣鏡の方が重視されていたことが明らかです。
 画紋帯神獣鏡が丁寧に埋納されていたのは、両古墳の被葬者が邪馬台国の共立に早い時期から参画した者であることを推定させます。いっぽう数が多い三角縁神獣鏡は、被葬者がこの鏡の配布に関わる人物であったことを窺わせます。3世紀の後半に成立したヤマト王権が基盤を固めるにしたがい、邪馬台国時代に行われた魏鏡の配布はしだいに政治的な意味を持たなくなったのでしょう。3世紀末ないし4世紀におけるそうした事態を反映するものではないでしょうか。
府県別三角縁神獣鏡分布 288-23.gif

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