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積石塚前方後円墳の歴史的意義

 阿讃の積石塚前方後円墳における「石の積み方」は、さまざまである。
 平らな地面に石を積み上げたものがあれば、地山の盛り上がりを利用して石積みしたものもある。石を十分に得られなかったためか、石積みと土盛りを併用したもの、後円部のみを積石塚とし前方部は盛土墳としたものもある。
 石材として石清尾山では主として山中で採れる安山岩を使うが、部分的には川原石も使っている。川原石の量が比較的多いのは築造時期の古い鶴尾神社4号、鏡塚、猫塚、石清尾9号であり、少ないのは比較的新しい姫塚、石船塚、稲荷山姫塚である。
 このように積石塚として定型化した築造法があったわけではなく、石材調達の難易に応じて現実的に対処したようだ。ということは積石塚が盛土墳に比べて普遍化しないことを意味する。素材として「石」は「土」ほど、あまねく入手できないからである。
 その代わりに盛土墳を基調としつつ、部分的に石を用いて積石塚の利点を取り込むことが指向される。石室・石槨・段築を築く場面のほか、墳丘の輪郭を画する列石、表面をおおう葺石、裾まわりの基底石などとして石が使われた。

 積石塚としないまでも、多量の石を使った前方後円墳が畿内でも造られた。そのひとつが奈良盆地の南東部にある「中山大塚古墳」である(現、天理市中山町)。〔萱生(かやお)古墳群内にあり、これから北東150mにある西殿塚古墳(全長234m)は、被葬者が卑弥呼の後継者である「台与」に擬せられる。宮内庁は継体大王の后である手白香皇女(たしらかのひめみこ)の衾田(ふすまだ)陵として管理するが、時代的に符合しない〕
 中山大塚古墳は全長132m、後円部はやや楕円の径73m、前方部長56mを測り、前方部がわずかにバチ型に開く。墳丘頂部にあったと見られる特殊壷形埴輪・二重口縁壷系埴輪・特殊円筒埴輪・特殊器台形土器・特殊壷形土器などは古墳の初源的要素であるから、3世紀中葉に箸墓古墳と前後して造られたと推定される。
 1993-94(平成5-6)年の調査によると、竪穴式石槨(長さ7.5m×幅1.3-1.4m×高さ2m)は、西へ20kmほど離れた二上山麓から運ばれた輝石安山岩(サヌカイト)で造られていた。主軸方位は南北、棺は割竹形木棺、副葬品として鉄刀・鉄剣などのほか、前漢鏡である四禽鏡の細片が出土したと伝わる。中山大塚古墳 西側くびれ部の葺石基底石.jpg
 注目点は墳丘の積み上げ方である。裾部やくびれ部にトレンチ(試掘坑)を掘ったところ、石垣のような急角度で石が積まれていた。近藤義郎氏の著わした『前方後円墳の成立』(岩波書店 p111)には「石山とも称すべきもので・・・その厚さはほぼ90cmに達し、しかも急傾斜に敷かれ、さらに前方部上にも及んでおり、段違いに莫大な石の量を含め、これまで考えられてきた葺石の様子とはかなり異なる」との記述がある。
 中山大塚の案内版には“西側くびれ部の葺石基底石”と説明した別掲の写真が載っている。

 同じように莫大な量の石が積まれた状況が、古墳時代の幕開けを告げる「箸墓古墳」についても指摘される。倭迹迹日百襲姫の陵墓として宮内庁の管理下にあり全面的が調査を許されないが「実見した人の話によると、桜井市箸墓古墳も同じように石山で、とくに前方部の石山の深さ(厚さ)は中山大塚古墳どころではなく、人によっては全部が石の積み上げと推定するほどである」とい う。(前掲書 p112)。
 今後、大王墓などを含めてさまざまの古墳の調査が進めば、積石塚の要素がさらに広く受け継がれていることが判明し、その歴史的意義に新たな光が当てられるであろう。


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