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畿内の石積み古墳

 古墳時代初期の畿内では積石塚とまではいかないが、石を多用する古墳が造られた。背景には石材を容易に得られる場所であるとか、讃岐と密接な関係があるとかの事情があったようだ。そうした事例を挙げてみよう。

 「元稲荷古墳」は京都盆地の西方で、桂川の西岸にある向日(むこう)丘陵にある(現、京都府向日市北山)。向日市・埋蔵文化財センターの累次の発表によると、次のように讃岐との関係が垣間見える。
 前方後方墳で、全長92m、後方部(51m×49m)、前方部長41mを測る。規模は卑弥呼の墓に擬せられる箸墓古墳(奈良県桜井市)の1/3に企画され、前方部は台与の墓に擬せられる西殿塚古墳(奈良県天理市)と〔元稲荷:西殿塚=1:2.5〕の相似形であるという。後方部3段築成/前方部2段築成で、鉄製武器・工具・土師器などが出土した。最古相の古墳の要素をもち、3世紀後半の築造とされる。
 拳(こぶし)ほどの大きさの「礫」を多量に用いるという特徴がある。墳丘の斜面では礫を小口積み(切り口が見えるように積むこと)にし、平坦面では礫を敷いて、古墳全体が「石の山」に見えるように礫で覆い尽している。
 特殊器台型埴輪のほか、讃岐系の二重口縁壺の細片が出土した。讃岐系二重口縁壺が畿内の大型前期古墳で祭祀用に使われた例は、ほかにないそうだ。

 南河内(大阪府)では、大和盆地(奈良盆地)から流れてきた大和川が石川と合流するあたりに、讃岐との関係を示唆する古墳がある。大和と河内を隔てる生駒山系を亀ノ瀬渓谷によって大和川が通り抜けたあたりで、河内から見れば大和盆地への入口にあたる。いずれも前方後円墳で、古墳時代前期の4世紀前半の築造である。〔5世紀にはこの地域に誉田(こんだ)御廟山古墳(応神陵)を擁する古市古墳群が形成され、中期古墳のメッカとなった。図参照〕
柏原市 古墳.jpg
 
 南河内にある前期古墳のようすを羽曳野市教育委員会・河内一浩氏の講演(於・高松市、2014年9月)などからまとめると次のとおり
 亀ノ瀬渓谷への入口付近にある玉手山丘陵に、13基以上の前方後円墳があり「玉手山古墳群」を形成している(現、大阪府柏原市)。複数の首長系列が丘陵を共同の墓域にしたと推測され、1~3号墳および7~9号墳が現存する。
 丘陵の中腹に安福寺があり、寺の境内の手水鉢は割竹形石棺の蓋石であるが「玉手山3号墳」から出土した蓋然性が高いとされる。素材は讃岐・国分寺の鷲ノ山産で、石棺の側面に施された突帯文は讃岐の三谷丸山古墳(高松市三谷町)で露出している石棺に付されたものに似ている。
 前方後円墳13基のうち規模が最大なのは「玉手山1号墳」で、全長107m、後円部径60mを測る。後円部3段築成/前方部2段築成で、円筒埴輪・朝顔形埴輪が出土した。粘土槨1基が前方部に、円筒埴輪棺1基が後円部基底にあって、鏡・玉・刀剣・工具類が出土した。後円部の墳頂には多量の石材が散らばっており、板石積みの方形壇があったと推定される。(後円部墳頂の埋葬施設は未確認)
 
 さらに玉手山丘陵から大和川に沿って北東へ2kmほど遡ると、南岸に輝石安山岩を産する芝山(標高112m)がある。松岳(まつおか)山(標高60m)は芝山に連なる山塊で、この最高所に「松岳山古墳」がある。玉手山古墳群より、時代的に少し新しいとされる。
 全長130mの前方後円墳で、後円部径72m、前方部幅32mを測り、後円部3段(4段)築成/前方部2段築成である。墳裾には板状の安山岩が並べられていたが、墳丘のくびれ部や前方部端を試掘すると多量の安山岩の割り石が積まれていた。
 後円部の墳頂には長持形石棺が露出しており、蓋石と底石は各1枚の花崗岩、側面石は4枚の凝灰岩(讃岐・鷲ノ山産)を組み合せたもの。石棺内で頭を納める位置に浅く石枕が彫り込んでいるのは、讃岐産の伝統である。
 石棺の周りには板状の安山岩が散らばり、竪穴式石槨が造られていたと推定された。勾玉、管玉、ガラス小玉などの装身具のほか、鉄製の武器・農工具類が出土した。円筒埴輪は楕円筒形にヒレが付くという独特の形で、ここ以外では淀川流域の出現期古墳である紫金山古墳(全長110m、大阪府茨木市)でしか見られないものという。
 
 松丘山古墳の主軸の延長線上に、前方部端に接して「茶臼塚古墳」と呼ぶ方墳がある。“前方後円墳が方墳を従える”形式は、讃岐では石清尾山の北大塚古墳、津田地区の丸井古墳の2例があるが、全国ではこれらを含め6例しかないのだという。ここからも讃岐との関係が示唆される。
 茶臼塚古墳の竪穴式石槨からは、三角縁神獣鏡、車輪石、鍬形石、石釧(いしくしろ=緑色の石で作った腕輪)などが出土した。

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