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安芸・備後(広島県)の古墳

 広島県域の古墳時代は、県北の三次盆地で幕を開ける。律令制下では備後に属したところで、日本海に向けて流れる江ノ川に支流の西城川と馬洗川が合流するところ。かつて吉備と出雲を結んだ要路のひとつで、いまも3000基余りの古墳があるという。
 現在の三次市街地の東に広がる丘陵地に「矢谷古墳」(三次市東酒屋町)がある。墳長18.5m/後方部辺12.5m×11.7-12.0mを測り、前方後方形であるが方形の四隅に突出部が付いて弥生時代の中期後葉に中国山地で生まれたとされる「四隅突出型墳丘墓」の形状を引き継ぐ形状である。吉備で生まれた特殊器台・特殊壺を随伴し、3世紀後半の築造と見られる。

 その後の前期古墳も備後が中心で、備後北部の高梁川上流域に「辰の口古墳(77m)」(神石郡神石高原町)と「大迫山(おおさこやま)1号墳(45.5m)」(庄原市東城町)という、かなり大型のバチ型前方後円墳2基がある。4世紀中葉の築造で、吉備と出雲という2大勢力の間にくさびを打ち込む畿内政権の意図によるとの見方がある。
 備後南部にあたる芦田川中流域の神辺平野は福山市に属し、律令制下で備後国府が置かれるところ。平野の北縁に「石鎚山1号墳(径20m)」・「石鎚山2号墳(径16m)」(加茂町)の円墳2基があり、平野の西方の前方後円墳2基からは「潮崎山古墳(30m)」(新市町)が三角縁神獣鏡を出土し、「石鎚権現5号墳(37.5m)」(駅家町)が飛禽鏡を出土した。
 県西部の安芸に目を転ずると、太田川下流域に4世紀後半から5世紀にかけて「中小田(なかおだ)古墳群」(広島市安佐北区)が築かれた。盟主墓は円墳の「中小田1号墳(径30m)」で、三角縁神獣鏡、獣帯鏡を出土した。いま県庁所在地の広島市がある太田川河口域は近世以降の埋立てにより三角州が広がったところで、大型の古墳はない。三ッ城古墳 P1000880.JPG

 古墳時代中期の5世紀中葉には、安芸の賀茂台地に「三ッ城(みつじょう)古墳」(東広島市西条町中央)が造られる。平均高度210mの西条盆地内に南から伸びる丘陵端(比高20m)にあり、JR西条駅から南へ2km ほどのところ。(写真)
 墳長92m/後円部径52mを測る県域最大の前方後円墳で、3段築成。葺石、造出、陪塚(円墳)を具備する畿内型古墳の典型である。埴輪が質量ともに豊富で、円筒埴輪と家形・短甲形・鶏などの形象埴輪を出土し、造出部からは高坏型土師器が出た。後円部にある箱型石棺3基から、(仿製)珠文鏡、玉類、鉄製武器などを検出した。一帯は「三ッ城公園」として整備され、墳丘・葺石・1800体の埴輪列などが復元されている。アクリル板越しに3基あった石棺を見ることもできる。
 ここからさらに東南へ2kmほど行くと、丘陵尾根の頂部(比高35m)に「スクモ塚1号墳」(東広島市西条町御薗宇)がある。墳長63m/後円部径41mを測る帆立貝式前方後円墳で、径10mと8mの円墳2基を随伴する。三ッ城古墳とほぼ同時期の築造と見られる。
 
 三ッ城古墳は、それまで遺跡が少なかったところに畿内型の地域最大古墳が造られたこと、周辺に律令制下の中核施設である国分寺跡(写真)や七重塔跡があること、石棺3基は夫人・王・子どもの順に埋葬された一家であるらしいことなどから、畿内から派遣された皇族将軍の可能性がある。『先代旧事本紀(巻十 国造本紀)』に阿岐(あき)国造として飽速玉命(あきたまはやをのみこと)を遣わしたとの記述があり、その墳墓であろうか。
 律令制下の国衙の移動にあったものか、平安時代に編纂された『倭名類聚抄』には「安芸国府は安芸郡に在り」とある。いまだ賀茂郡(西条盆地)・安芸郡(府中町に多家神社がある)の双方において確証的な遺構が見つかっていないようだ。
P1000907 安芸国分寺.JPG
 最大古墳を輩出した西条盆地以外でも、古墳時代中期の5世紀代の安芸では活発に古墳が造営される。備後北部に多いことから中国山地における「たたら製鉄」との関連を考える見解もある。西隣の周防の山口盆地(吉敷地区)にも同様の現象が見られたから、さらなる検討が必要であろう。この時期における比較的大型の古墳を挙げれば次のとおり。
 安芸では、西条盆地の北東にある鷹ノ巣山を源とする沼田川の下流域に「兜山(かぶとやま)古墳(径45m)」(三原市沼田東町)がある。葺石を備えた円墳で、円筒埴輪が墳長と墳底を巡っていた。兜山(標高67m)と通称される山頂にあり、築造当時は瀬戸内海に面していた。
 備後北部では、三次市の馬洗川流域に5世紀代の古墳が多く造られた。「岩脇古墳(径31m)」(粟屋町)は円墳だが、その後は帆立貝式前方後円墳が盛行し「八幡山1号墳(45m)」(吉舎町)・「糸井大塚古墳(65m)」(糸井町)・「三玉(みたま)大塚古墳(46m)」(吉舎町)・「酒屋高塚古墳(40m)」(西酒屋町)などがある。
 さらに「みよし風土記の丘」(三次市小田幸町)に、古墳時代中期から後期にかけて形成された「浄楽寺古墳群」・「七ツ塚古墳群」がある。円墳を中心に約180基の古墳が密集しており、円墳の「浄楽寺12号墳(径45m)」が最大であるという。
 庄原市の西城川流域に前方後円墳の「旧寺(ふるでら)1号墳(61.7m)」(掛田町)と「甲山古墳(59m)」(上原町)がある。5世紀後半の築造と見られる。
 備後南部では、芦田川下流域に「黒崎山古墳(70m)」(尾道市高須町)が海沿いの独立丘陵(標高/比高30m)に造られた。円筒埴輪と葺石を備えた前方後円墳で、竪穴式石槨から朱壺を検出したが、すでに消滅した。

 古墳時代後期の6世紀代には、古墳所在地の比重が備後と県域南部へ移る。石室構造や副葬品に畿内色が強いことから、隣接する吉備を牽制する畿内政権の意図によるものであろうか。
 備後北部の庄原市には、前方後円墳の「矢崎古墳(56m)」(小用町)と「明賀(唐櫃)古墳(48.6m)」(川西町)および円墳の「犬塚1号墳(径11.5m)」(東城町)がある。
 県南部にある「横大道(よこだいどう)1号墳(径14m)」(竹原市新庄町)と「迫山(さこやま)1号墳(径19m)」(福山市神辺町)はともに円墳で、大型の片袖式横穴式石室(羨道を進むと片側にのみ玄室が広がる構造)を擁した。「二子塚古墳(65m)」(福山市駅家町)は長大な両袖型の畿内系石室(長さ14.9m)を有し、県域における最後の前方後円墳である。



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