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弥生時代(1)-弥生時代の始まり

 日本列島で弥生時代がいつ始まったかについて、かつては弥生式土器の出土状況などから、BC5~4世紀とされてきた。
 ところが2003年に千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館の年代研究グループ(以下「歴博グループ」という)が、水田稲作に関わる遺物に付着した炭素を「炭素14年代測定法」で分析した結果、北九州に水田稲作が到来したのは紀元前10世紀後半と公表した。弥生時代の始まりが一挙に500年ほども遡りかねない発表が、関係学会に衝撃を与えた。
 炭素には(C12)のほか、同位体として(C13)(C14)がある。そのうち(C14)は炭化物として遺物に固定されると、ベータ崩壊して5730年の半減期で失われる。そこで遺物に残る(C14)/(C12)の比率を測定すれば、固着した炭素が何年前のものかが分かる。これまでにも使われてきた測定法だが、歴博グループは「加速器質量分析法(AMS法)」を導入して、ごく少量の試料から迅速に年代を測定する体制を整えた。

 これに対し、測定結果は時代ごとに一定の補正係数を適用する必要があり、また資料が海の影響を受けている場合にはさらなる補正を要するなどの疑念が提起される。縄文晩期には灌漑を要しない陸稲栽培や畑作も行われていたから、稲籾の分析にはこれとの違いを慎重に見極める必要が指摘される。
 議論の帰趨を追っていけばそのとおりだが、灌漑式の水田稲作が北九州に伝わったところで、一挙に列島全域に広がったはずもない。北九州からの距離により伝播には時間差があるし、気象条件や経済社会の情況に応じて、受け入れ時期は左右されるであろう。とりわけ水田稲作には灌漑という共同作業が必須となるから、その環境が整わなければならない。
 くわえて何をもって弥生時代始まりとするかという、メルクマールに関する問題も提起される。弥生式土器の出現か、灌漑式水田稲作の導入か、祭祀や集落形態など弥生型社会システムのようすも見極めるべきか、などに議論が及ぶ。遺跡に弥生的要素のほか、縄文的要素が混じる場合の扱いも悩ましい。

 各地域の遺物の年代測定も進んではいるが、地域ごとにいつ弥生時代に入ったかを決めるのは、一筋縄ではいかない。とりあえず四国における初期稲作に関連する遺跡を挙げてみると、次のようである。
 愛媛県の「大淵遺跡」(松山市太山寺町)からは縄文晩期の遺物が大量に出土したが、そのなかに稲籾の圧痕が残る土器や石庖丁・石鎌があった。このことから、縄文的生活のなかに稲作が導入されていたことが推定される。
 香川県の「林・坊城遺跡」(高松市林町)は、縄文晩期から古墳時代にいたる複合遺跡で、最下層は時間幅を縄文晩期から弥生前期前半の幅で捉えうるという。ここから縄文晩期の土器である刻目突帯文土器群とともに、狭鍬・手鋤などの木製農具が出土した 
 徳島県の眉山北麓にある「庄遺跡」(徳島市)は、2重の環濠集落と墓地を有する集落であり、鋤・鍬の木製農具、石包丁、土器、炭化した稲籾などが出土した。水田遺構は見つかっていないが、緩やかな傾斜面を利用して水田に水を導いた幹線水路2条と枝水路7条が発見された。いっぽう東1kmには「三谷遺跡」という縄文遺跡があり、相互に交流があった遺物が出た。(写真は「徳島県埋蔵文化財センター」に展示された弥生時代前期の四国の土器)
 高知県南西部の「入田(にゅうた)遺跡」(中村市)は四万十川の自然堤防上にあり、縄文晩期に始まる遺跡である。遺物に北九州の板付水田遺跡と同類の弥生系土器とともに、縄文系の突帯文土器が併存した。(この遺跡の発見から、北九州→南九州→西南四国という水稲の伝播ルートも想定されたが、近時は北四国→南四国という四国山地を越えるルートが有力視されている)
CIMG1467弥生前期土器.JPG


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