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弥生時代(2)-四国の弥生遺跡

 弥生時代の始まりについて、京都文化博物館(京都市中京区)の展示説明は「縄文人は弥生文化を一方的に受け入れたのではない。各々の地域・文化・地勢の違いによってその反応は様々であった。京都盆地においても、同様に、縄文・弥生文化が共存する時代がある」と書く。その通りであろうが、四国に弥生時代が到来した時期について、もう少しはっきり言えないか。
 歴博グループの藤尾慎一郎氏が著す『〈新〉弥生時代』(吉川弘文館 2011)には、BC10世紀後半に北九州に水田稲作が伝わり、近畿地方に伝わるのに300年を要したとする。四国はその間のどこかであろうが、この本に列島各地域への水田稲作の伝播状況を示す図が載る(p231)。これには四国の初期稲作に関する遺跡はBC7世紀に現れ、BC6世紀に弥生式の環濠集落が登場したと示される。

 イネはは元来が熱帯に自生する植物であるから、水田稲作は西南日本の気候条件に適しており、四国の人口は縄文時代と様変わりに弥生時代に増加する。先に引用した小山修三氏が『縄文時代―コンピュータ考古学による復元』(中公新書 1984)のなかに示す図表によると、(北海道を除く)全国に占める四国の人口ウエイトは5.1%である。縄文時代には1%にも満たなかったから、急速にウエイトを増したことになり、現在時点のウエイトである3%よりも高い。西日本のほかの地域は、近畿18.2%、中国9.9%、九州17.7%である。

 最後に「四国地区埋蔵文化財センター巡回実行委員会」が作成した「続・発掘へんろー四国の弥生時代」(2010年9月発行)で示す主な四国の弥生遺跡を掲げる。各県ごとに主な弥生遺跡を概説すると、次のとおり。
 「田村遺跡」(南国市)は物部川の自然堤防上にある弥生初期に始まる集落で、掘立柱建物8棟・竪穴式住居10棟・高床倉庫3棟・土器廃棄場・墓域などがあった。出土した土器の甕は、晩期縄文系が4割、弥生初期の遠賀川式が6割で、縄文から弥生への移行期を窺わせる。
 「大柿遺跡」(徳島県東みよし町)は吉野川中流域の北岸の河岸段丘にあり、5,6段に造成された棚田跡が検出された。吉野川の洪水時に砂で覆われ、1区画が幅2~4m×長さ10mの往時の形が残り、畔を越えて水を供給する水利系統のシステムも観察できた。弥生前期末から中期のもの。
 「文京遺跡」(松山市)は愛媛大学のキャンパス内にあり、弥生中期後半から後期初頭にかけてが面積最大で、東西300m/南北200mに達したと推定。大型の掘立柱建物4棟・竪穴式住居170棟以上・高床式建物22棟以上・土壙100基以上が密集していた。ガラス滓・鉄斧・鉄鏃・土器片などが出土し、周辺に対して中心的な役割をもった遺跡とみられる。
 「旧練兵場跡遺跡」(善通寺市)は、45万㎡にも達する大遺跡で、現在までのところ弥生中期末~後期初の遺構に掘立柱建物6棟・竪穴式住居1棟が、弥生後期の遺構に掘立柱建物2棟・竪穴式住居15棟・鍛冶炉のほか、銅鏡片・銅鏃・小銅鐸・勾玉・ガラス小玉などの遺物が出た。九州東北部から近畿にかけての各地と同型の土器があり、交流が窺えた。
弥生遺跡.jpg


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