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銅鐸祭祀 ⑴

4タイプの銅鐸.JPG 銅鐸の謎が深まるなかで、全国における出土数が500個を超えた。分類作業が行われ、全体の大きさ・頂部の「鈕」と呼ぶ吊り手部分の形状・胴体部の「身」に刻された紋様などから、次の4タイプに分けられる。(写真は「東京国立博物館」の展示で、次に挙げるタイプ順に左から並ぶ)

 ① 菱環鈕(りょうかんちゅう)式
 「鈕」は半環状で、断面がひし形である。最古段階の銅鐸とされ、弥生前期後半のBC3~BC2世紀に用いられた。全長の高さは20㎝前後と小さい。
 ② 外縁付鈕式(外縁付菱環鈕式)
 菱環形の「鈕」の外側に、装飾的な外縁が加わる。古段階の銅鐸とされ、弥生中期前半のBC2~BC 1世紀に用いられた。「身」の紋様に流水紋と袈裟襷(けさたすき)紋が多く、高さは40~50㎝の中型が多い。(写真は「東京国立博物館」に展示された伝・香川県出土銅鐸で国宝)
伝・香川県出土銅鐸(国宝).JPG ③ 扁平鈕式(内外縁付菱環鈕式)
 菱環形の「鈕」の内・外の両側に装飾部分が加わり「鈕」が扁平で幅広い。中段階の銅鐸とされ、弥生中期後半のBC1~AD1世紀に用いられた。「身」の紋様は袈裟襷紋が一般的で、高さは40~50㎝の中型品が多いが、30㎝のものもある。
 ④ 突線鈕式
 「身」の外周や紋様帯を区切る界線が太くて高い突線になる。新段階の銅鐸とされ、弥生中期末から後期のAD1~3世紀に用いられた。流水紋は消え、ほとんどが袈裟襷紋になる。高さが60㎝以上の大型がふつうで、1mを超えるものもある。
 製作職人の腕の向上にともない巨大さを誇るようになったようで、1~5式に分けられる。突線鈕1式までの小型のものは吊り下げて打ち鳴らす「聞く銅鐸」であり、突線鈕2式以降の大型のものは飾って祈る「見る銅鐸」になったとされる。

 銅鐸の出土状況をみると、特定の権力者によって強制されたものではなく自然に広がったようだが、その終わり方が尋常ではない。人里離れた場所に丁寧に埋められて「埋納」と呼ばれ、土取りや開発工事などにともない偶然に発見されから、出土数は変動する。また古くに発見され、長く所蔵されたものには、出土地が不明ないし推定にとどまるものがある。
 このため「府県別出土数」は研究者により差があるが、ここでは松本岩雄著「弥生青銅器の生産と流通」(『古代文化』第53巻第4号所載 2001)で採用されたデータをもとに、その後に発見された数などを加える。
 ① 菱環鈕式は、出雲・播磨・淡路・伊勢・飛騨・越前で、各1個ずつ出土するのみで、合わせて6個と数少ない。広く普及する以前の段階とみられるので、検討の外に置く。
 その後の② 外縁付き鈕式/③ 扁平鈕式/④ 突線鈕式の3タイプの「府県別出土数」を、府県ごとにこの順で並記すると、次の3態様が浮かび上がる。(出土数が3個以下の県は割愛した)

 第1態様|島根(39/17/2)、鳥取(8/6/2)、香川(4/10/2)、岡山(5/11/1)
 これら山陰・吉備・讃岐では、外縁付き鈕式と扁平鈕式はある程度普及するが、突線鈕式をほとんど用いていない。(島根の出雲は、荒神谷遺跡5個、加茂岩倉遺跡39個と一括して埋納された場所が発見されたことで、数が多い)
 第2態様|兵庫(22/22/9)、大阪(6/14/12)、奈良(9/7/5)、京都(5/2/4)、和歌山(5/16/15)、徳島(4/23/8)、長野(5/1/2)、福井(1/4/2)
 これら畿内と近隣の府県は、3タイプの銅鐸を一貫して用いている。大阪・兵庫・京都には石製の銅鐸鋳型が出土した製作地があり、そのことが反映された可能性もある。
 第3態様|静岡(1/0/30)、愛知(4/6/33)、滋賀(3/5/27)、三重(4/3/11)、高知(0/4/6)
 これらは畿内からみて遠隔の県が多く、突線鈕式の段階に至っても熱心に銅鐸を用いた。(滋賀の野洲市大岩山は銅鐸の製作地であり、突線鈕式24個が一括して出土したことを反映する)

 以上を踏まえて、当時の社会情勢をどう考えるかは次項に譲る。

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