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弥生時代 ⑷-金属器

中東のヒッタイトで発明された「鉄」がアジアに伝わり、中国が鉄器時代に入るのは前漢時代(BC202~AD8)であるという。水田稲作の北九州への伝来がBC10世紀後半となれば、BC4世紀とされる鉄の伝来時期とはそうとうにズレ、弥生時代は鉄器とともに始まったと言えなくなった。現に、弥生遺跡からは、稲の穂先を摘み取る収穫具の石包丁がたくさん出土する。
 いっぽう青銅器は、殷・周時代にすでに中国に伝わっていたとされるから、水田稲作と時期をあまり違えずに列島に伝来したであろう。青銅器は武器や農具などの利器に使われたが、しだいに大型化して祭祀具になるものが現れた。鉄は酸化して消滅したり、他のものに鋳直されたりして遺物として残りにくいが、青銅器は比較的残りがいい。

 四国における青銅器の出土状況は「四国地区埋蔵文化財センター巡回実行委員会」が作成した「続・発掘へんろー四国の弥生時代」(2010年9月発行)にまとめられている。他の情報もくわえて整理すると、次のとおり。平型銅剣の分布.JPG
 「銅剣」は瀬戸内地域で多く出土し、とくに平型銅剣が丸亀平野・松山平野に集中する。ほかにも祭祀用とみられるさまざまのタイプの銅剣が瀬戸内圏から出るので、この圏域を「銅剣文化圏」と呼ぶ人もいる。(写真は「松山市考古館」展示における平形銅剣の分布図)
 「銅矛(どうほこ)」は四国西部に多い。弥生後期以降に北九州の影響を受けたとみられて各種の銅矛が出土し、後期後半に瀬戸内西部で「銅矛文化圏」が形成されたかの観がある。
 「銅戈(どうか)」は、鎌のように刃を柄に直角に取り付けるもので、九州を除けば高知県が有数の出土地である。
 「銅釧(どうくしろ)」は腕輪で、四国では高知県から出土する。
 「銅鏡」は、弥生時代後の古墳時代に、墳墓の副葬品として出土することが多い。
 「銅鏃」は、矢じりとして用いられるもので、しばしば古墳に副葬される。
 「銅鐸(どうたく)」は香川・徳島・高知の3県に分布し、愛媛県からは出土しない。高知県の場合、分布は東部に限られ、突線式という後段階のものが多い。

 「銅鐸」は近畿から東海地方にかけての出土が多く、「銅矛(鉾)」は九州からの出土が目立ったので、かつて銅鐸と銅矛の2つの文化圏が併存した図が教科書に載った。ところが同じ場所から銅鐸と銅矛が一緒に出土するし、同じ形式の銅鐸が東西の離れた地域から出ることから、そうとも言えなくなった。
 銅鐸は中国や朝鮮で馬の飾りに使った馬鐸が起源で、馬鈴と同じように音を出したものが、列島に伝わって大型化した。用途や使われた時代が謎であったが、光り輝く銅鐸が清澄な音を奏でることで、穀霊や農耕神を呼び起こす祭祀具になったと推定される。初見は北九州とされるが、弥生中期から後期にかけて西日本一帯に普及し、分布範囲は島根・広島両県から、四国・近畿地方を経て、長野と静岡西部である。
 とりわけ銅鐸の特異な終わり方が注目された。個人の墓からは出土せず、人里離れた山腹や丘陵の頂から少し下ったあたりから出るので、集落単位で保持されたのであろう。丁寧で故意に埋められたようなので「埋納」と呼ばれ、その時点で役割を終えた。つまり何らかの理由で銅鐸を用いる集落祭祀を終わりにした。これは、いかなる社会情勢の変化を背景とするのであろうか。

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