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円形周溝墓―摂津・和泉への伝播

 四国のようすを離れるが、その後に円形周溝墓が畿内へ向けて伝播するようすを追跡する。畿内とは律令制下の地方行政区画であった「五畿七道」のうち、五畿と呼ばれた「大和・河内・和泉・摂津・山城」の5ヵ国のこと。

 摂津(兵庫県南東部/大阪府北部)では、弥生時代の中期に円形周溝墓が登場する。後期から終末期において盛んに造られ、しだいに大型化する。
 「口酒井遺跡」(伊丹市口酒井)は、大阪と兵庫の府県境付近を流れる猪名(いな)川の左岸(東岸)の自然堤防上にあり、伊丹空港のすぐ南西側である。縄文晩期以降の複合遺跡で、縄文人と弥生人が一緒に暮らしたところという。径5~7mの円形周溝墓が2基あり、弥生中期のもの。
 「溝の口遺跡」(加古川市加古川町溝の口)は加古川下流域の左岸にあり、弥生時代から中世にかけての複合遺跡で、昭和62年の宅地造成で円形周溝墓1基が見出された。径8mで[幅1m×深さ75㎝]ほどの周溝は東側で一部が途切れ、周溝内に弥生中期後半の土器があった。方形周溝墓2基が隣接し、[辺8.62m×4.98m]と[辺4m×6m(推定)]で円形周溝墓とほぼ同規模のもの。
 「郡家遺跡」(神戸市東灘区御影町)は、六甲山南麓において石屋川と住吉川が形成する扇状地にある。円形周溝墓2基は径5~8mで、周溝に途切れがあった。弥生後期のもの。川除・藤ノ木遺跡.jpg
 「川除(かわよけ)・藤ノ木遺跡」(三田市川除)は摂津の北西部で、武庫川に沿う三田盆地にある。円形周溝墓2基は径12mと15mと大型で、墳丘側面の貼り石とみられる石塊があり、播磨の造墓方式との関連が推定される。弥生後期後葉の築造。(写真は兵庫県埋蔵文化財情報『ひょうごの遺跡 16号』に掲載されたもの)
 「豊島北遺跡」(豊中市曽根東町)は、猪名川左岸で口酒井遺跡の少し下流にあり、弥生時代に人口が増えたところ。円形周溝墓の5基は径8~10mとほぼ同規模で、3基が周溝の一部を共有した。弥生終末期のもの。
 「服部遺跡」(豊中市服部元町)は、豊島北遺跡の東隣にあり、府営住宅建設に際し円形周溝墓1基が見出された。径15.5mと大形で、南側に[幅5m×長さ2.2m]の突出部が付き、全長18m。ほかにも円形周溝墓3基があり、径10~14mで突出部付く。弥生終末期のもの。
 「郡(こおり)遺跡」(茨木市郡)は摂津の北東部の三島平野にあり、勝尾寺川の右岸に沿う弥生中期から平安時代にかけての複合遺跡である。弥生時代の遺構として方形周溝墓160基超があり、一辺の長さは3~18mと大小さまざま。そのなかに円形周溝墓1基があり、径17mとかなり大型。発掘が一部にとどまるため突出部の有無は不明。弥生終末期のものと推定。
 「深江北町遺跡」(神戸市東灘区深江本町)は芦屋川右岸の砂堆上にあり、円形周溝墓12基が東7基と西5基の東西2群に分かれて、群ごとに周溝の一部を共有する。径7~8mを中心に4~14mの範囲にあり、周溝は[幅0.7~2m/深さ30~40㎝]で、途切れがあるものを含む。いずれも単葬墓で、埋葬施設は木棺が多い。底に穴を開けたり打ち欠いたりした供献土器が、多数出土した。3世紀初期のものと推定。
 このほか摂津では「奈カリ与遺跡」(三田市貴志)、「松ケ内遺跡」(尼崎市南清水)、「総持寺遺跡」(茨木市三島丘)などでも円形周溝墓に関する情報があるが、詳細を把握できない。

 和泉(大阪府南西部)は摂津の南側に位置し、大阪湾に臨む地域である。弥生後期以降に、方形周溝墓に混じって円形周溝墓が現れる。数としては摂津ほど多くないが、内陸部の河内に先んじたようである。
 「府中遺跡」(和泉市府中町)は、槇尾(まきお)川右岸の段丘上にあり、和泉国府跡と和泉寺跡の推定地を含む広い遺跡で、東西1㎞/南北1.2㎞もある。円形周溝墓2基があり、径7~9mが周溝を接し、1基には途切れがある。西側にある方形周溝墓3基は辺20mのものがあるので、これに比べて劣勢である。弥生後期前半から中頃のもの。
 「下池田遺跡」(岸和田市下池田町)は、弥生中期中心の遺物が出土する集落遺跡である。ここでは方形周溝墓が造られず、円形周溝墓のみが造られた。径16mと規模の大きい円形周溝墓1基があり、周溝は幅1.6m~3.2mで、途切れ部の推定幅は4mでバチ形に開く。南東50mに周溝に途切れのある円形周溝墓3基があり、径10m以下とやや小さい。弥生後期のもの。
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