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円形周溝墓―河内を経て大和へ

 円形周溝墓が伝播するルートは、和泉から内陸部の河内を経て、遂に大和に到達する。同時に近江などの周辺地域にも広がった。

 河内(大阪府南東部)は有数の方形周溝墓地帯であったが、弥生後期に陸橋付き円形周溝墓が現れる。物部氏の本拠とされる八尾市などがあるところで、旧・大和川を通じて大和(奈良県)へ入るルート上にある。
 「成法寺(じょうほうじ)遺跡」(八尾市光南町)は河内平野の中心部で、旧・大和川の主流である長瀬川と玉串川に挟まれた沖積地にある。径14mの円形周溝墓1基が単独で存在し、周溝は東へ伸び、長さ約7mの突出部があったと推定。当時の河内では大きい部類に属し、近くにある方形原理の加美遺跡の方形周溝墓/32号(辺15m以上)や久宝寺遺跡の前方後方形周溝墓/南群1号(全長16.5m以上)に比べて遜色がない。弥生後期のもの。
 「長原遺跡」(大阪市平野区)は河内平野の南端に位置し、面積が350㏊に及ぶ大遺跡である。旧石器時代から近世にいたる複合遺跡で、弥生時代の遺構としては水田・竪穴式住居などのほか、墓域に方形周溝墓と円形周溝墓が群を成した。少なくも3基の円形周溝墓が並び、うち1基は径11.5mで、周溝は南側が途切れて陸橋を形成した。弥生終末期のもの。
 このほか河内では「東郷遺跡」「郡川(こおりがわ)遺跡」(ともに八尾市)においても円形周溝墓の情報があるが、詳細を把握できていない。

 大和(奈良県)では、2016年5月に突出部付き円形周溝墓が発見されたとの報道が反響を呼んだ。卑弥呼の墓に擬せられる箸墓古墳の南西7㎞の地点である。瀬田遺跡(産経新聞から).jpg
 「瀬田遺跡」(橿原市城殿(きどの)町)は、かつての藤原京の下層にあたり「奈良職業能力開発促進センター」の建て替え工事にともなう発掘調査で発見された。(写真は当時、産経新聞に掲載されたもの)
 外径25.2m/内径19mの円形周溝墓で、C字型周溝は[幅6~7m×深さ0.5m]。陸橋が南西部にあり、長さ7mで幅が内側3m/外側6mとバチ型に開き、墳長31mに達する。墳丘の盛り上がりは削平され、埋葬部は確認できない。
 庄内0式の弥生土器が多数見つかり、発掘調査を担当した奈良文化財研究所は弥生終末期の2世紀後半の築造を推定する。これにより四国に発して東方に伝播した円形原理の周溝墓が、ついに大和に達したことが確認された。
 東側に方形周溝墓2基が隣接し、辺5.4m超で周溝[幅3.4m×深さ0.2m]と、辺2.7m超で周溝[幅1.2m×深さ0.4m]で、いずれも小ぶりである。円形周溝墓はこれらの盟主墓であろう。

 近江(滋賀県)も伝統的に方形周溝墓地帯であったが、弥生終末期以降に琵琶湖の東岸で円形周溝墓が現れる。いずれも突出部付きで、径15m以上のかなり大型のもの。
 「五村遺跡」(長浜市五村)は姉川の北岸で、小型の方形周溝墓9基のなかに円形周溝墓1基があり、径22×20mと楕円形だが大型。周溝は[幅1.5~2.5m×深さ0.8~1.5m]で、西側で幅の広い[長さ2m×幅4m]の張り出し部(突出部)が付き、墳長28mを測る。周溝内からは多量の土師器が、突出部の両側からは鍬形と鳥型の木製品が出土した。
 「鴨田(かもだ)遺跡」(長浜市大戌亥町)は、琵琶湖岸に近い市立病院の移設にともない発掘調査された。帆立貝型の前方後円形周溝墓は径15mの円形で、[長さ4m×幅6.5m]のバチ型の突出部(張り出し部)が付き、衣蓋(きぬがさ)型木製品を多量に出土した。隣接して方形周溝墓3基があり、うち1基は辺12×15mと規模がほぼ同等のもの。
 「西円寺遺跡」(米原市近江町)は、琵琶湖の東岸近くの圃場整備にともない発見された。円形周溝墓1基は径20~23mと不正円形だが大型で、[幅4-5m×深さ0.9-1.4m]の周濠がめぐる。墳丘には2m×6mの主体部の痕跡があった。3世紀末の築造と、古墳時代初期にかかる時代のものと推定。

 このほか、伯耆・丹波・信濃(千曲川沿い)などでも、弥生後期後半から終末期の遺跡で円形周溝墓が見出されたとの報告がある。

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