SSブログ

前方後円形墳丘墓―讃岐

 社会層の分化が進むにつれ、弥生時代の有力者は造墓地を集落に近い平地から、少し離れた高地などへ移すようになる。墓域を通常の生活空間から離すことで、自らの隔絶性を誇示し、より広い地域へ顕現できると考えたのであろう。
 円形周溝墓と同型の墳墓が丘陵や山地に造られると、平地に溝で囲う周溝墓とは違い、後々まで墳丘が残る。前方後円形墳丘墓ないし突出部付き円丘墓と呼ばれるものが造られ、円丘に陸橋(突出部)が付く形は、そのまま前方後円墳の祖型である。
 この動きが、四国では弥生中期末に始まったようだ。古墳時代は3世紀中葉の箸墓古墳の築造をもって始まるとされるから、3世紀前半は古墳時代前夜となる。

 讃岐では、前方後円墳を誕生させる試行錯誤が重ねられたかのように、さまざまの形の前方後円形墳丘墓が造られる。築造時期が古いと想定されるものから、順に挙げる。
 「平尾墳墓群」(丸亀市綾歌町)は、丸亀(中讃)平野の最南端の山麓にあり、レジャー施設のレオマワールドが建設される折に5基が見出された。前方後円形のさまざまの形を呈する2~4号墓は弥生中期末~後期後半の築造で、古い順に番号を付されたが、2号墓と3号墓の前後関係は微妙という。
 2号墓は、墳長28mの前方後円形墳丘墓で、後円部は径15×20mの楕円形。前方部は長さ10mで、幅が[くびれ部10m/先端部6m]と先端に向け細くなり、浣腸器型と呼ばれる墓形である。自然地形に沿ったためであろう。
 埋葬施設が17基もある多葬墓で、後円部に7基と前方部に10基を数え、箱式石棺2と木棺15であった。盗掘のため出土品は限られるが、くびれ部から出た壺の口縁部から弥生後期前半の築造が推定された。弥生後期後半まで墳墓に使われたという。
 3号墓は、地山整形に土盛りを加えた前方後円形墳丘墓で、後円部径は17.5m×15.6mの不整円形。前方部は幅4.7mのくびれ部から先端へ向けて上下2段に伸び、形状が複雑で試行錯誤のあとを窺わせる。
 上段は[長さ6.5m×先端幅6.5m]でここまでが墳長23.5m、下段は[長さ12.1m×先端幅5.3m]でここまでが墳長28.8mで、2段ともバチ型に開く。さらに前方部先端の先に[長さ2.8m×幅3.0~3.8m]の祭壇状の台状地形があり、そこまでを墳丘に含めると墳長31.8mとなり、後世の讃岐型前方後円墳の要素として知られる[後円部径≒前方部長]になる。
 後円部頂に埋葬施設4基があり、第1主体にあった鉄剣(長さ24㎝)1は、副葬例から弥生中期後半~古墳時代前期のもの。第3主体にあった壺型土器と土器片は、弥生時代中期末のもの。
 4号墓は、後円部径12m/前方部長6mで、墳長18m。前方部幅が[くびれ部=先端部=5m]と、柄鏡型前方後円形である。
 後円部中央に石塊の集石があり、埋葬施設は石造りで割竹型木棺を想定。出土した壺の胴部破片の胎土は、庄内式古相に併行する蓋然性が高く、弥生後期後半の築造を推定。
 5号墳は径10mの円墳で、古墳時代の前期後半初頭の築造。
 1号墓は未調査のまま、現状保存されている。石塚山墳墓.jpg

 「石塚山古墳群」(丸亀市綾歌町栗熊)も、丸亀平野の南奥部にあり、コトデン琴平線の栗熊駅の南にある。瀬戸内海にそそぐ大束川は、上流域で3つの支流に分かれ、真ん中の中大束川に沿う独立丘陵にある。4基は、さまざまに試みたかのように墳形が多様であったが、残念ながら開発により大宗が消滅し、いま石碑が立つ。(写真)
 3号墓は前方後円形墳丘墓で、後円部は楕円形の径11×13m、前方部は一部が削平され長さ5~10mを推定。出土した甕は、弥生終末期~古墳時代初頭のもの。
 2号墓は円丘墓で、径25mと古墳群において最大。埋葬部の第1主体は石積み墓壙で、安山岩の板石を石垣状に小口積みしたもの。鉄剣2を出土した。
 1号墓は前方後方形墳丘墓で、後方部は長方形の17×16m。前方部は後方部に到る道として地山整形され[長さ6m×幅8m]で、墳長23m。乱掘され遺物なし。
 4号墓は方形墓で、辺12mが地山整形で造られ、古墳群で最小規模。刀子(長さ18㎝)1を出土した。
三島古墳.jpg
 「三島古墳」(綾川町山田東分)は、綾川の上流域で盆地状の平地を臨む丘陵端にある。(写真)
 墳長30.7m/後円部径21mと、前方部の短い前方後円形墳丘墓である。香川県埋蔵文化財センターの発掘調査において石積み墓壙を見出し、古墳誕生史に関わる重要古墳と判明したので、埋葬部の発掘を中止した。現状のまま保存することとなったので、出土品は弥生終末期~古墳時代初頭の鉢型土器など土器片4にとどまる。
 「石積み墓壙」とは、棺を土中に直葬せず、石積みで造った墓壙(石槨)に納める埋葬方式。この後に盛行する竪穴式石槨の前身とされ、古墳時代前夜の讃岐周辺で初出した。先述の石塚山2号墓にもあったが、後出する播磨の綾部山39号墓、阿波の萩原1号墓でも見出され、畿内の箸墓古墳に隣接するホケノ山古墳にもあった。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。