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摂関政治

 11世紀の初めに令制国ごとの荘園整理令、すなわち「一国令」が出されるようになる。地方行政で受領への権限集中が進むなか、任地での収入を増やすため、受領が赴任初めに朝廷に要請したもの。
 10世紀後半から11世紀にかけての我が国の政治態様を「摂関政治」という。摂政・関白は律令制にはなく天皇の幼少期などに必要に応じて設ける官職であったが、この時期には常置された。天皇の外戚(生母の親や兄弟)を根拠に、藤原北家が代々その官職を占め、政治の実権を握った。

 かつて“摂関家への荘園寄進”というイメージが語られたが、この時期、田畠に占める荘園の割合はいまだ例外的で、摂関家の収入も荘園に依存する部分が大きくはなかったようだ。律令制下で貴族に与えられる給付には、3位以上の位階者に位田・位封が、大納言以上の官職者に職田・職封があり、これらは一身専属的なものだが、事実上世襲された。
 11世紀前半の藤原道長の言辞に「受領(国司)の官職を得るのと引き換えに摂関家に集まる“成功(じょうごう)”が収入の多くを占めた」というのが伝わる。慈円の『愚管抄』には、道長を継いだ藤原頼通(在位 1017-68)の言葉として「所領を持つ者が私と縁故をつくろうと思って寄進してきた」と、荘園形成に受け身であったとする記述もある。

 この時期、荘園形成の契機のひとつに、かつて有力寺社などに公領の一部を与えた「封戸」がある。封戸からの収穫物(封戸物)は、国司が収公して寺社に給付する建前であったが、班田収授の形骸化にともない円滑に進まない。そこで封主の寺社自らが田畠を囲い込んで「便補保(ベンポホ)」とするのを認めた。すでに封戸が失われている場合は、代替地を用意した。封戸物を補填する意味で「保」の表現が用いられた。
 これが国家給付の未払いの代償として、不輸の特権をもつ荘園を認める前例となる。寺社が経営安定のため、新たに荘園を立荘したり荘園の寄進を受けたりするのが正当化される。四国にも11世紀に伊予・讃岐に事例がある。

 摂関家の荘園では、藤原頼通が宇治平等院を建立するため平等院領を設けた。後冷泉天皇が寄進した封戸300戸を機に立荘され、全国に9カ所あった。四国の摂関家領としては法成寺領がある。道長が創建した当時の最大級寺院だが、1333年に廃絶した。
 寺社領では石清水八幡宮が、便補保の立荘が容認されたのを機に、他から遅れて荘園経営に乗り出した。10世紀半ばから11世紀半ばまでに、畿内を中心に34ヵ所で荘園を形成した。四国にも事例が多い。
 四国には、従来から関係がある東大寺・仁和寺・高野山系の寺社領も立荘された。

 以上に関連して、四国内で諸文献から見出される当節の荘園は、次のとおり。
 (阿波)
 櫛渕荘(那賀郡)1017年後一条天皇の寄進 石清水八幡宮領
 篠原荘(勝浦郡)冷泉院領11町の免田、関白藤原教通に伝領37町、1066年仁和寺に献じられ、1110年仁和寺領として270町余立券、1117年に田畠山野1500町余を取り込み勝浦新荘が独立した [中右記など] 
 (讃岐)  
 醍醐寺領 933年 藤原忠平が施入 [醍醐寺新要録]
 里海荘(所属郡不明) 摂関家領  11世紀前半に藤原美子(後一条天皇の乳母)から彰子(道長の娘)へ本家職が寄進され、領家職は美子に留保された
 平賀荘(香西郡)・林津荘(阿野郡)・楢崎荘(不明)   1023年 石清水社領    
 三崎荘(三野郡) 道長創建の法成寺領もこの時期か
 櫛梨保(那珂郡) 1086年頃に便補保として成立 法勝寺領 [1257年『経俊卿記』等]
 (伊予)
 豊村荘(宇摩郡) 969年初見 仁和寺法勝院領 荘地20町余 [仁和寺文書]
 玉生(たもう)荘(伊予郡) 1017-27年石清水八幡宮の便補保として成立 1181年院庁下文により官省符荘となる [石清水八幡宮記録]
 (土佐)
 貴良川荘(安芸郡) 1023年 石清水八幡宮領
 奈半利荘(安芸郡) 1070年 金剛頂寺領、1108年 石清水八幡宮寺宿院極楽寺院主が領掌 [石清水八幡宮記録]
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