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下地中分・荘家一揆・悪党

 2度の元寇のあと、3度目の襲来は現実化しなかった。しかし軍事的緊張は続いたから、本所が持つ九州の荘園と武家が持つ西国の荘園との交換が進んだ。その過程で [本所(荘園領主)-預所―下司(現地管理者)]という荘園の重層的所有構造が解体してフラット化し、領家職・預所職・下司職など社会的身分としての「職」が消滅した。
 これに「下地中分」の動きが加わる。西国で地頭の設置が進み、荘園領主と地頭とによる土地の2重支配を脱するため、領主と武家とが土地を分割し、それぞれが分割地を独立的に支配する動きが出た。下地中分の史料の初見は1237年という。東寺百合文書web 弓削島庄地頭領家相分差図.jpg

 分割比率は等分と限らず、1/3と2/3、2/5と3/5などもあり、どう分割するかは両当事者にとって大問題である。具体例のひとつに、四国・伊予国の「弓削島庄地頭領家相分差図」(1303年)がある(写真は『東寺百合文書WEB』から)。領主の東寺と地頭とが分割比率を争う過程で幕府が作成した図とされ、この案では土地を3分割し、東寺が2/3を取ることになっている。しかし地頭側は不満で、決着までになお数年を要したという。
 幕府を頂点とする武家の役割は、本来、軍事・警察部門が担当で、行政分野には関与しない建前であったが、下地中分に際しての取り分や境界には武家側も関与せざるを得ない。地頭が「太田文」(公式の土地台帳)の作成に関わることとなり、武家の在庁官人への指揮権に基づき幕府もこれを認めたから、守護の行政権への介入が進んだ。
 下地中分により荘園の重層的所有構造が解体されると、分割された部分について武家・王宮院臣家・寺社などのそれぞれが、絶対的な下地進止権(土地処分権)をもつ。これを「一円領」といい、荘園は地頭が知行する「武家領」と皇族・貴族・大寺社など諸権門のもとにある「本所一円領」とに分かれた。
 公領(国衙領)も知行国制の浸透により特定の貴族や武家の経営に委ねられていたから、郷(里)や保ごとに武家と諸権門との間で分割が進む。これまでの日本の土地制度は、荘園と公領とが併存し「荘園公領制」と呼ばれたが、ここにその事態が終焉する。公領も荘園も区別がなく、武家領と本所一円領とに分かたれ、2つが併存する時代が始まる。

 13世紀後半から14世紀初にかけての鎌倉時代後期は、元寇にくわえ旱魃・大雨・暴風雨などの天候不順が頻発し、列島で飢饉が相次いだ。元寇が最終的に退散したのは暴風雨であったが、同じ台風は京にも大被害をもたらした。さらに1329年には疫病が流行し“人民多死”と表される状況になった。
 累次の災厄で疲弊した農村の惨状を前に、領主も真剣に向きあわざるを得ない。農村を困窮から回復させる力量をもつ領主において初めて、年貢を受け取る資格があるというもの。土地の一円化(支配の一元化)は、必然の動きであった。
 困難に直面した百姓らは、精神的紐帯を強め、自立した動きを強める。鎮守社を建設して年中行事を行い、田畠の維持管理や用水整備などに共同で取り組む。このために互いの意見をまとめて「村の掟」をつくり、財政基盤も必要になる。
 百姓らへの圧迫が強くかつ恒常的であると、彼らは結束して立ち上がり、荘園領主に不満を表明する。年貢や労役の減免などを要求し、これを記した「百姓等申状」を掲げて決起し、これを「荘家一揆」と呼ぶ。
 先述した東寺領の伊予・弓削島荘において、百姓ら24人が連署した百姓等申状が「東寺百合文書」(1318年)に残る。当時の代官が年貢の塩を責め取っているなどを内容とする非法8か条を掲げ、代官の交替がなければ還住しない(逃散する)ことを東寺に訴えた。

 旁々、13世紀半ばごろから社会不安が嵩じて、10~20人の小集団による夜討ち・強盗・山賊・海賊などが頻発した。一団は異類異形の装束をし、濫妨・寄取・追剥などの犯罪行為を行う。本所一円地の領主が手に負えなくなれば朝廷に訴え、朝廷はこれが天皇の意に反するとみれば「悪党」と断じ、幕府(六波羅探題)に逮捕を依頼する。幕府には“本所一円領不介入”の原則があるが、この際は国家への挑戦と解して、国内の御家人を動員して鎮圧に当たった。ここに幕府の取締範囲は拡大し、全国の治安に責任をもつ主体となる。
 しかし根絶はできなかったようで、14世紀に入ると悪党集団は大型化し、50∼100騎の騎馬を擁する軍団となるものが現れる。これを「後期悪党」といい、襲撃先に「年貢未進がある」などの債務不履行の存在を言い立て、コメや銭を押領する。つまり自分らの行為の正当性を主張しつつ、追捕狼藉・討入奪取・苅田苅畠(相手が刈り取る以前に田畠を刈り取ってしまうこと)を行う。
 やがて体制外にあることを標榜し、反領主・反幕府的な行動に走って朝野の不満分子を糾合し、集団蜂起の様相を呈するようになる。没落した御家人や行き場を失った荘官などのなかに身を投ずる者もあり、幕府や御家人の立場が不安定になる。
 守護が一国内を統率できなくなると、地頭や御家人のなかから、守護に拮抗したり凌駕したりする勢力が現れる。彼らは村人や地侍と結び、経済的・軍事的な力を養い、数十騎から数百騎を擁する武士団を形成し「国人・国衆」と呼ばれる。

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