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徳政令

 「徳政」とは“徳のある政治”をつづめた言葉で、恩赦・減税・備蓄米放出など救恤政策とか善政とかを意味する場合が一般的であろう。しかし鎌倉時代には“本来の姿に戻す政治”の意味で使われた。幕府草創期の社会秩序を筋目のとおった徳のある状態と観念し、これへの復活をめざす政治のこと。
 当時、商工業の発展も顕著になりつつあったが、経済の基本は農業であり、御家人は経済的基礎を農村の所領に置くから、その安定と繁栄が重要である。農村の疲弊は御家人の窮乏化に繋がり、これを基盤とする武家政権を危うくする。
 既往の社会秩序を維持するため、御家人の所領の移動を統制するのが幕府の基本方針であった。長く武家法の基本とされる御成敗式目(1232年)も、第48条は「幕府から与えられた恩領を御家人が売却するの禁止」を規定している。

 幕府は1267年の法令により、改めて御家人領の売買と質入れを禁じ、弁償による取戻しを命じた。しかし困窮した者が有償で取戻すのは事実上不可能であるから、73年の文永徳政令は、無償での取戻しを認めた。土地は本主(本来の持ち主)と結びついたものであるべきとの思想に立っている。
 1284年の安達泰盛による弘安徳政は、元寇の戦勝に対する恩賞の意味を持つが、九州における名主層(御家人以外の武士)や敵国降伏を祈祷した寺社に対しも、所領の安堵と取戻しを認めた。ところが窮乏する武家や寺社は九州に限られないから、直ちに全国に波及する勢いをみせる。

 ここで当時の朝廷の情勢である。1242年に四条天皇が夭折すると、幕府は「承久の乱」に参画した順徳院の皇統を忌避し、土御門天皇の皇統に連なる後嵯峨天皇を即位させた。後嵯峨帝は即位後4年にして第1子の後深草天皇に譲位して院政を始めるが、その後に壮健な第2子が生まれたので、後深草帝を譲位させて59年に亀山天皇を誕生させた。
 後嵯峨帝は崩御に際して、後継者を遺言しなかった。幕府の意向により即位した経緯から、幕府に遠慮したものと推測されている。そのため続く皇統を後嵯峨の寵愛があった亀山皇統とするか、第1子の後深草皇統とするかをめぐり、朝廷内では決着できない。双方が足しげく幕府に働きかける事態となり両統迭立(てつりつ)の種が撒かれるが、直ちに混乱が生じたわけではない。

 当時の朝廷は「承久の乱」で力を削がれたが、地頭のいない本所一円領に対しては依然として力を持っていた。後嵯峨院政下の「公家新制(公家法)」(1263年)は、第256条で「本主の訴えを道理に基づいて裁断し、本主において理があれば荘務を返付する」と徳政の方針を規定した。さらに「亀山の弘安徳政」(1285年10月)は、幕府の弘安徳政に準じた20箇条の宣旨である。これでは本所一円領における徳政手続きは朝廷の規律において行うことを定め、寺社領を俗人に寄付することを禁じ、流失した寺社領は寺社へ返付することを命じた。
 2か月後の「霜月騒動」により、北条家の御内人(みうちびと)筆頭の平頼綱は、弘安徳政を推進した安達泰盛を排除した。そこで朝廷に対しても大覚寺統の亀山御親政を廃して、持明院統の後深草院政へ替わらせた。これにより87年に伏見天皇が即位するが、その御親政でも徳政に関する訴訟手続きが整備され「伏見徳政」(92年)と呼ばれる。

 平頼綱の支配が7年余に及んだところで、24歳に成長した執権・北条貞時は「平禅門(へいぜんもん)の乱」(1293年)によって平頼綱を誅殺し、得宗専制を打ち出す。安達泰盛の人脈を復活させるなどしたので、苛烈であった頼綱時代の裁定を覆してもらおうと幕府に越訴(再審請求)が集中した。そこで1297年3月に「永仁徳政令」3か条が発せられる。内容は、次のとおり。
 第1条「越訴の停止」(再審請求の禁止)
 第2条「御家人による所領の売買と質入れを今後は停止する。以前に手放したものでも20年を経過しないものは本主に返還する。買い手が非御家人や凡下(一般人)の場合は20年を過ぎていても本主のものとする」(御家人への所領取戻し)
 第3条「利銭・出挙の訴えを取り上げない」(債権取り立ての苦情は受け付けない)

 命令のねらいは、判決の固定化と金銭貸借に関する訴え停止により幕政の繁忙を回避すること、および御家人の所領取戻しであったが、制定者の意図を超えて、社会に大きな影響をもたらすことになる。
 売買や金銭貸借が円滑に行われなくなり、とりわけ御家人に金を貸したり御家人から土地を買ったりする行為が忌避され、御家人自身がもっとも困窮した。そこでほぼ1年後に第2条以外の条項は停止された。
 停止されなかった第2条の「御家人への所領取戻し法」は、繰り返し類似の法令が出されたので“旧領回復令”と解されて全国に広がった。つまり非・御家人領や武家領以外の土地も含め、一般的に失われた所領を元に戻す命令と受け止められた。
 一例として1297年秋に、伊予の国衙付近の神社領に何十人かの人びとが踏み込み、自分らが正当な土地の所有者であると主張する事案が起きた。この神社領は、平安時代の末期以降、神社がいくばくかの錢貨を払って少しずつ国衙領を買得したものだったが、その取戻しが要求されたのだという。
 徳政令は、幕府の考える筋目正しい秩序への回帰をめざすものだが、制定者の意図とは別に、現行の秩序や慣行への挑戦と受け止められた。市中の契約や売買行為を不安定にし、社会の流動化をいっそう促したので、これ以降に鎌倉幕府が徳政令を出すことはなくなった。

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