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南北朝の動乱と四国

 1336年6月に持明院統の光厳(こうごん)が上皇となり、8月に弟の光明天皇(豊仁親王)が即位する。11月に尊氏は『建武式目』を定め、これをもって室町(足利)幕府の成立とする説が有力である。38年8月、北朝の天皇から尊氏が征夷大将軍に任ぜられる。39年には後醍醐天皇が没する。
 ところが早くも幕府内で内紛が起こる。土地政策をめぐって、武士の荘園侵略を容認する軍事部門の足利家執事・高 師直と、幕政において荘園領主の訴えを受ける立場の尊氏の弟・足利直義との間で反目が高まる。これが尊氏と直義の兄弟対立に至り「観応の擾乱(じょうらん)」(1350-52)と呼ぶ騒乱にいたる。
 これに南北朝の対立が加わるから「天下三分」の形勢となり、天下を制する者が替われば異なる命令が出され、諸国の守護も入れ替わる。擾乱の帰趨は、51年に高師直が殺害され、52年に直義が兄に毒殺され、長生きした尊氏が勝者となる。

 このころの武家社会は惣領制の解体に直面しており、どの武家にも惣領と庶子の対立などの火種がある。騒乱をのし上がる好機と考え、戦場に身を投じて恩賞による所領拡大をめざすから、動乱は全国に広がる。
 当時の戦いでは、戦況に応じて有利な側に加担するのが主眼で、不利と見れば寝返ったり、降参したりした。「降参半分の法」が慣習化され、早めに降参すれば所領の半分が安堵されたという。戦いに敗れて所領を失うと、自らの力による回復(自力救済)をめざし、悪党に身を投じたり野伏になったりした。

 当時の尊氏は、公家や寺社から武家による土地押領に不満が表明されると諸国の大将が手元に置く寺社領・国衙領などを本家へ返還するよう命じ(37年)、これが武家の抵抗を受けるとみるや国衙に納める正税と領家に納める年貢の1/3を免除した。寺社や本家領の住人が南朝に味方すると、所領を没収して新たな知行者を北朝側から選んだ(47年)。48-49年の畿内の争乱では、兵糧調達のため荘園の半分を味方の武士に知行させた。
 騒乱や対立が続くなか、尊氏は行き当たり羽足りながら武家の支持をつなぎ止めようとして、状況対応主義に徹したとみられる。これが過酷な現実に日々苦闘して、処世に徹する武士をひきつけたようである。理念や名分だけでは武士を引き付けられず、戦局はしだいに北朝側に有利に傾き、南朝側に付く者が激減した。

 南北朝動乱における四国の武家の動向について、室津の軍議によって細川一門の武士が四国の支配に入り、細川家の和氏・頼春・顕氏などが転戦した。阿讃では当初から北朝方が優勢であった。
 讃岐では、尊氏が建武政権に叛旗を翻したのに呼応して、1335年11月に細川定禅が鷺田荘で挙兵した。橘家・三木・寒川・藤家・詫間・香西など多くの国人が北朝方に付き、南朝方の高松(頼重)・羽床らと対峙したが、羽床氏は途中で北朝方へ転じた。小豆島で星が城に拠る佐々木信胤は、初め定禅とともに挙兵したが、南朝方に転じて熊野水軍とともに戦った。
 阿波では、室津の軍議のあと細川和氏が来て、秋月城(土成町)を築いて本拠とするが、42年に死去した。弟の頼春が継ぎ、平野地帯の緒将を攻めて、北朝方へ付かせた。
 ただし阿波西部の山岳地帯には、南朝勢力が根強く残り、山岳武士(山侍)と呼ばれる。伊予方面と山岳路によって通じたので、阿波守護らの攻略は容易に進まず、現地にはいまも勤王事歴を物語る1350年代の板碑が伝わる。
 北朝方に降った時期として、一宮城(徳島市一宮町)の小笠原氏が1363年、三木氏が73年、祖谷山の菅生氏が81年などの記録がある。

 伊予では、1333年に河野一族の土居通重・通世、得能通綱、忽那重義・重清らが後醍醐天皇方で挙兵し、鞆の津(広島県福山市)を占領するなどし、備後・備中の役職に任じられた。いっぽう鎌倉で隠棲していた河野通盛が尊氏に謁見して部下となり、帰国して土居・得能氏らに対抗した。通盛は尊氏が九州から東上するに際し、水軍で参加した。
 地元では、南朝方の土居・忽那氏らと、北朝方の河野通盛・大森盛長・細川皇海(定禅の弟)との間で戦いが展開する。忽那(くつな)氏は36年ごろ南・北の両勢力に分かれた。
 瀬戸内海の制海権を重視する南朝方は、忽那島の掌握のため、後醍醐の皇子である懐良(かねよし)親王が、九州へ向かう途次に島へ来て(39年?)、 3年間滞在した。
 代わって42年に新田義貞の弟である脇屋義助が今治浦に派遣されたが、1ヵ月後に病死した。義助死去の報を聞き、阿波守護の細川頼春が伊予へ進攻した。終始、南朝方にあった忽那義範(よしのり)は、48年に讃岐の塩飽諸島を攻め城郭を占拠した。

 土佐へは細川顕氏が派遣され、北朝方の勢力結集を図った。在地の豪族では、津野・香宗我部・長宗我部の各氏らがこれに味方した。南朝方では、平氏の末裔ともされる大高坂(おおだかさ)氏が現在の高知城の地を本拠とし、河間・新田・近藤・佐河の各氏らと結んで対抗した。
 36年に浦戸合戦や大高坂城攻防戦などがあり、一進一退した。38年に後醍醐の皇子である満良(みつよし)親王が来て南朝方の意気が上がった。しかし40年に大高坂城が落城し、親王は周防へ向かったとされる。
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