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建武政権の崩壊

 後醍醐天皇は、醍醐・村上天皇の「延喜天暦の治」を聖代視したとされる。平安時代中期の律令制下で武家の台頭のない時代であるから、すでに「武家の世」となったときの政権モデルとするのに、相当の改変が必要であった。
 天皇専制のもと、公家と武家を統合する政治機構をめざし、雑訴決断所のほか、記録所・恩賞方・武者所・窪所などの組織を設けた。しかし武士を統率するのに、鎌倉時代のように幕府を設け、それを通じて間接的に行う仕組みを採らなかったようだ。
 そのなかで倒幕の戦いで功があった武家を、政権内にどう位置付けてどう処遇するかにつき、具体的で冷徹な構想があったのであろうか。

 後醍醐帝の第1皇子の護良(もりよし)親王は、倒幕に際し「武」の功があり、鎌倉幕府では“源家3代”を除けば宮将軍が続いた例に倣い、征夷大将軍の地位に執着した。33年6月には補任されたようだが、戦闘の過程で傘下の武家に与えていた旧領安堵の親王の令旨が、後醍醐の綸旨万能主義により否定され、立場を失ってしまう。
 あげくに倒幕で最大の武功があった足利尊氏との間で軋轢が高じ、謀反の動きありと讒言されて、34年10月に捕らえられる。親王は鎌倉に送られ、足利方の手に渡されたことで、35年8月に誅殺される。天皇家に繋がる陣営の力を、削いでしまう結果になった。39c6af549130e8b10fc1367ff404c72f_40144e5e6192636648283af017973169.jpg

 尊氏(写真)について史書が伝えるところでは、その性格からか早い段階では後醍醐に背く意思は毛頭なく、背くことになるなら出家を考えるほどであったという。尊氏も征夷大将軍の就任を要求したが、後醍醐は拒否した。のちに尊氏が九州から攻め上ってくるとき、形勢不利を察した楠木正成は、尊氏との和睦を進言したとされるが、後醍醐は受け入れなかった。
 後醍醐は武士の働きに対して恩賞を与える行為は自らのもとで行う仕組みとしたが、うまく機能しなかった。そのうち北条氏の旧領のほとんどが後醍醐とその近臣の間で分けられたことが露わになり、各地の武家は源氏の名門で足利家の棟梁である尊氏に、頼るべき力を見出すようになった。

 35年7月、鎌倉幕府で最後の執権を務めた北条高時の子の時行が、幕府再興をめざして関東で挙兵し「中先代の乱」が起こる。尊氏はその鎮圧のため鎌倉に赴き、討伐に成功すると、その後は京への召喚命令に従わない。後醍醐帝は「尊氏に謀反の心有り」として、北畠顕家・楠木正成・新田義貞らに尊氏追討を命じた。
 攻められて尊氏は九州へ退却するが、捲土重来を期して、36年1月に次の3項目の手はずを指示した。
 その1。 天皇に歯向かって朝敵となることの不利を察し、両統迭立下で浮かばれない状態にあった持明院統の天皇の担ぎ出しを図る。
 その2。元弘没収地返付令を発し、建武政権により召し上げられた武家の所領を返還させて鎌倉時代の秩序に戻すべく、没収した所領を足利一門の大将のもとに預け置く。
 その3。 36年2月の「室津の軍議」(兵庫県御津町)において、足利一門の武将を中国・四国の国大将に任じる。四国の平定は細川和氏・顕氏(あきうじ)の両名に委ね、所領安堵権を与えた。
 
 1336年3月、筑前の「多々良浜合戦」において、尊氏は源氏の嫡流を示す装束で現れ、合戦中に敵方武士の寝返りを誘う。5月に東上して、摂津の湊川合戦で楠木正成を破り、入京する。
 36年6月、後醍醐帝は比叡山へ逃れるが、和睦して帰京し、10月に花山院に幽閉される。11月には三種の神器を北朝方に渡すが、直後に幽閉先から脱して吉野へ逃れ「渡した神器は偽器である」と宣言して、尊氏討伐を諸国に呼び掛けた。
 この行動は北畠親房(1293-1354)の勧めによったとされ、帝徳の根幹は皇統の連続性にあるとする思想に依る。のちに親房が著した『神皇正統記』には「天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである」との叙述がある。
 ここに南北朝時代が始まり、60年間続く。興福寺の第20代門跡・尋尊が編纂した『大乗院日記目録』に「一天両帝 南北京」と書かれるのが、語源であるという。

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